705と8411⑼

執筆:八束さん

 

 

 

 ナオコさんで満たされた部屋。
 ナオコさんが寝ていたベッド、ナオコさんがふれていた電気のスイッチ、ナオコさんが聴いていた音楽、ナオコさんのにおいのするタオル。ナオコさんが使っていたシャンプー、ナオコさんがつけていた香水。
 身につけているものも全部、そうだ。ナオコさんのブラウス、ナオコさんのスカート、ナオコさんのブラジャー、ナオコさんのショーツ。
 マタタビを嗅がされた猫みたい。息をするだけで、ナオコさんに包まれてくらくらする。
 この部屋に来てから私はきっと、正気でいられたことがない。ずっとふわふわしている。でもそれが気持ちいい。アルコールの海に溺れているみたい。
 気持ちいい。気持ちいい。でも、心地いい、という意味での『気持ちいい』が、時々色を変える。それはいつ、どんなタイミングで訪れるかわからない。ふ、と、灯った熱が、じくじくと敏感な部分を責め立てる。
 ナオコさんにもらった口紅を手放せない。
 ナオコさんがいないときには、ナオコさんを思って、それを使って慰めている。
 ナオコさんの指は、この口紅ほど太くない。でも、ナオコさんの指を二本合わせたのよりは、この口紅は細くて、この微妙な太さが少し、忌々しい。ナオコさんを完全に感じることができないから。
 出かける前ナオコさんが、「これで私を感じて」と、口紅を塗っていってくれた。
 乳首と陰唇、そしてクリトリスに。
 初めは嬉しかったけれど、すぐに苦しくなった。ナオコさんを感じすぎて苦しくなった。
 そう、わざわざこんなことをされなくても、いつも全身全霊でナオコさんを感じている。だからもう、感じすぎて苦しい。


 ナオコさんが帰ってきて、口紅が取れているのを知られたらきっと呆れられてしまう。なのに身体は言うことをきかず、せっかくつけてくれた口紅を洗い流すように液体を溢れさせる。ふと気づいたときにはシーツが真っ赤になっていて、無意識のうちに自ら擦りつけていたのだとわかったときには、自分が心底嫌になった。そんな中零す涙にも、いやらしい香りが混ざっているような気がしてやりきれない。ぐしゃぐしゃにかき乱して、シーツの波がより高くなる。溺れそうになって、ようやく身体を起こす。
 ナオコさんの帰りが遅い。
 私は待っているしかできない。でもせめて、一分一秒でも早く会いたい。
 地下の駐車場に行くと、ナオコさんの車が停まっていた。ああ、帰ってきてくれた。逸る気持ちを抑えられず、駆け足になってしまう。何故か足裏がひりひり痛むと思ったら、裸足だった。でもそんなのかまわない。
 駆け寄って窓の中を覗き込んで、でもナオコさんの姿が見えない。
 もう車を降りてしまったのだろうか? いや、だったらここに来るまでに必ずすれ違っているはずだ。ナオコさんが車に乗らずにどこかへ行くなんてめずらしい。
 そっと、車のドアにふれる。傷ひとつない、つやつやと真新しいボディ。もちろんナオコさんの肌の感触とは似ても似つかないのに、何故かナオコさんを感じてしまう。車のドアをあけるナオコさんの手を思い出す。その手の、きれいに整えられた爪を思い出す。ほとんど無意識のうちに、手を下半身へと伸ばしていた。
「あっ……
 止まらない。一度ナオコさんを感じてしまったらもう止まらない身体になってしまった。
 私は一体どうなってしまったんだろう。こんなんじゃもう元の生活には戻れない。いや、そうだ、別に戻らなくていいんだ。だってナオコさんのペットになったのだから。ナオコさんによしよしと頭を撫でてもらって、ナオコさんから餌をもらって、それでナオコさんが飽きてしまうか愛想を尽かしてしまうか、何にせよここへ戻ってくることがなくなったなら、飢えて凍えて、心が冷たくなって息の根を止めてしまう。私はもうそういう生き物なのだ。
 地下の駐車場に、ぴちゃぴちゃという音が響く。ボンネットに身体を預けるように……いや、むしろ胸を押しつけるように前屈みになって、一心不乱に指を動かす。伝い落ちた液体が、コンクリートの地面に染みこんでいく。車は駐車場の一番端に停まっているから、ここは出入りする人や車からはきっと死角になっているはずだ。いやもう、見られていたってかまわない。だってもう、止めることなんてできやしないのだから。
「ナオコさんっ……ナオコさ、んっ、ナオコさんっ」
 耐えられなくなって、ボンネットの上に片膝を載せるようにする。直接肌にふれるところが多くなって気持ちいい。あと少し、もう少しで……
「ああっ」
 腰を突き出すと、とうとう敏感な部分が直接ふれてしまった。すっかりボンネットの上に乗り上げて、これでもう、誰か来たら丸見えだ。
「あっ、あんっ、あんんっ」
 ぐちゅぐちゅと、割れ目が醜い形に押し潰されている。ナカから溢れる液体が止まらない。このまま溶けてしまいたい。ここがこんなにどろどろなのだから、全身どろどろになってもおかしくないだろうに。
 イきたい。でもずっとこのまま、絶頂寸前の快感を味わってもいたい。ナオコさんを感じていたい。
「んんっ、あっ、あっ、ナオコさんっ、ナオコさ……んんんーっ!」
 熱いものが迸る。身体も、思考もどろどろに溶けていく。溶岩流のよう。でも溶けていくのは私ばかり。ボンネットの丸みに沿って、溢れさせたものが垂れ落ちていくのが見える。
「はぁ……あっ……はあ……
 硬直した脚を何とか地面に下ろしたそのとき、ヘッドライトの明かりが見えた。別の住人が戻ってきたのか。運悪くその車は、ナオコの車の真正面に停めようとしている。
 車から降りてきた人物を見て、思わずあっと声を漏らしてしまう。その瞬間、その人物もこちらに気づいたようだ。
「ああ、君は……ヤヨイさん」
 ナオコさんの夫だ。ナオコさんの夫であり、夜紘さんの上司でもあるひと。
「ナオコも一緒なのかな」
 車の方に近づいてこようとしたので、慌ててこちらから駆け寄る。
「いえっ、あの、車の中に忘れ物を……忘れ物をした、ので、取りに来ていただけで……。ナオコさんは今、出かけておられます」
「ふうん、そう。どれくらいで戻るかな」
「すぐ戻られると思いますけど、よろしければお上がりください。……って、すみません、私の家でもないのに。ご挨拶も遅れまして……
「いや、君のことはナオコから聞いてるよ。ナオコがずいぶんと気にかけていたから。何も遠慮することはない。快復するまで無理しないで」
「はい……
 二人でエレベーターに乗るのはいやに緊張した。狭い空間に、さっきまでのいやらしいにおいが充満している気がする。彼が鼻を鳴らした。勘づかれてしまっただろうか。嫌な汗が伝う。彼を玄関に招いて、そういえば自分が裸足だったことに気づく。何事もなかったかのようにスリッパに足を入れる。彼も特に何も言ってはこない。
 紅茶を入れる。カップに口をつけると彼は、ふっとほころんだ笑みを見せた。ナオコさんの前で、彼はこんな顔をするのだろうか。
「美味しいよ」
「有り難うございます。でも、ナオコさんの用意してくださった茶葉が上等だから」
「君の入れ方が上手いんだよ。ちゃんと香りが立ってる。これは……
 種類を確かめようとしたけれど、手が滑って紅茶の缶を取り落とし、茶葉を床にぶちまけてしまった。
「すみませんっ」
「ああ、いいよ。こうやってあらためて茶葉の香りを嗅ぐと、いい香りだね。……嫌な臭いをかき消してくれる」
 慌てて茶葉を拾い集める。身を屈めたとき、テーブルの足元に口紅が落ちているのを見つけて、どきりとした。しかもそれを彼に拾い上げられてしまう。生きた心地がしなかった。
 駄目だ。そういえばナオコさん以外の人間と面と向かって話すのはどれくらいぶりだろう。私はまだ人間の仮面を保てているだろうか。タイムリミットがもうすぐそこに迫っている気がする。
「以前に比べてだいぶよくなったようだけど、でもまだあまり無理はしない方がよさそうだね。刹那君のことも気になるだろうけど、元気でやってるから心配しなくていいよ。子どもは新しい環境に慣れるのも早いから」
「刹那」
 そうだ。忘れていた。刹那。子どもがいたんだった。子ども。私に。変な感じ。どんな顔をしていたっけ。よく覚えていない。指先から、徐々に黒い靄のようなものが全身に広がっていく。
「いい機会なんじゃないかな。今まで夜紘君も刹那君に接する時間があまりなかっただろうから」

 夜紘。

 そうだった。私には夫がいたんだった。
 嫌だ。
 やめて。
 やめて。
 どうしてそんなことを言うの。
 思い出させないで。
 息ができなくなる。
 何も考えたくない。
 妻だとか母だとか、そんな役割はいらない。
 何も考えず、ナオコさんに抱かれている存在でいい。ナオコさんから与えられるものだけで生きてきたい。何も考えたくない。考えたくないのよ。もうあんな生活に戻りたくない。うまく笑えない、うまく泣きもできない。ずっとどこかが引き攣れているような、あんな自分にはもう戻りたくない。戻りたくないのよ。
「ナオコは……
 彼が、ナオコさんの口紅を矯めつ眇めつしている。
 彼もあの口紅を……あの口紅を塗られたナオコさんの唇にくちづけたのだろうか。くちづけて、いるだろう、もちろん。夫婦なのだから。ナオコさんは希薄な関係のように言っていたけれど、まったくないってことはないだろう。私たちだってしているくらいなのだから。自分のことを棚に上げて、でもナオコさんの唇が奪われているのを想像すると、くらくらする。私の知らないナオコさんの唇。
「ナオコは君のことを『満足』させられているかな」
 ことん、と、机の上に置かれる口紅。
 今、何て……
 彼と目が合う。ずっと見ているとそのまま動けなくさせられてしまいそう。このひとは、たぶん、すべて知っている。私とナオコさんのことを。
「はい、ナオコさんはとてもよくしてくださっています」
 声が震えないようにそれだけ言い切ると、彼は少しだけ口の端を持ち上げたように見えた。
 そこから先の記憶がない。
 気がついたときには、ナオコさんの胸に抱かれて、頭を撫でられていた。
 ナオコさんの胸。柔らかくて大好き。ナオコさんは、あなたの方が素敵よと言ってくれるけれど、やっぱりナオコさんの胸の方が好き。谷間に顔を埋めると、香水のいい香りがする。ナオコさんのにおい。安心する。このままずっとこうしていたい。優しく頭を撫でられていると、まるでご主人様の膝の上で丸くなっている猫のようだとも思う。
 もっとナオコさんに埋もれたい。ナオコさんの胸に唇を寄せる。ふに、と柔らかく押し返される。乳首を吸う。胸も、乳首の形も、ナオコさんのものはすべてきれい。
「ナオコさんの赤ちゃんになりたかった」
「赤ちゃんはそんな吸い方したりしないわよ」
 乳首から唇を離して見上げると、ナオコさんの頬は少し赤らんでいた。
「ナオコさんも感じてくれていますか」
「確かめてみたら?」
 促されるまま、ナオコさんの秘部に顔を近づける。甘い蜜を啜った瞬間、今自分が何をしているのか、どんな格好をしているのか、そんなことはどうでもよくなってしまう。頭上で、かすかにナオコさんの息が聞こえる。ナオコさんの顔が見たい。でも、初めて許された場所の中毒性から逃れられない。
「一緒に気持ちよくなりましょう」
 ナオコさんの指が、ずっと待ち焦がれていた部分に宛がわれる。それだけで軽くイってしまいそうになる。
「ナオコさんっ、駄目っ、駄目、ああっ」
 ナオコさんの唇を感じる。理性がすべて吸い出されてしまう。ナオコさんに気持ちよくされたい。ナオコさんを気持ちよくしたい。残った感情はそれだけだ。ナオコさんの舌の動きを感じながら自分も必死に舌を動かすけれど、自分の嬌声がうるさくてナオコさんがどんな風に感じてくれているのかわからない。
「ナオコさんも一緒に気持ちよくなって……ううん、私、ナオコさんと一緒になりたい、ナオコさんとひとつになりたい、ナオコさんと……っ、んんんーっ」
 ご褒美のように突き立てられたナオコさんの指を食い締めてイってしまう。
「ひとつになってるわよ」
「あ、あ……
「私の指、あなたのナカでどろどろに溶けちゃったわ」
 どこもかしこも熱い。でも、ナオコさんにふれられている部分が一番熱い。熱すぎて逆に、ナオコさんを感じることができないのがもどかしい。ナオコさんが欲しくて。欲しくて欲しくて激しくひくついているソコは、本当に、ナオコさんを溶かしてしまっているのかもしれない。それくらい私は、どうしようもない、恐ろしい生き物になってしまっているのかもしれない。
 ナオコさんの手が、下腹部に宛がわれる。宛がわれて初めて、びくびくと波打っていることに気づく。熱い。ナオコさんの五本の指、それぞれの感触を鋭敏に感じ取る。
「感じる? 溶かされた私がね、あなたのここまで上がってきてるの」
 お腹が熱い。子宮が熱い。外からも内からも。初めての感覚。どうなってしまうんだろう。いや、そんなこと考える必要なんてない。どうなったって別にかまいやしない。ナオコさんから与えられるものを受け入れていればいいのだから。
「ここでずうっとずうっと、ひとつになるの」
 円を描くようにお腹を撫でられる。
 そういえばあの子を宿したときはどんな感覚だっただろう。あのひととセックスしたときは。思い出せない。いや、思い出せないようにしようとしている。つながっていた糸、一本ずつ鋏を入れていっているみたい。糸の先に引きずっていた鉛のような記憶。それが落ちて、音もなく吸い込まれていく。深い深い海の底。
 ああ、そうか、私、ようやく、わかったわ。
 私、今までこのために生きてきたんだわ。
 どうしてもっと早く気づかなかったんだろう、ナオコさんと一緒にいられる方法。

 私、ナオコさんとの子どもが欲しい。