705と841(9.5)

執筆:八束さん



 ひとつになりたくて。
 ひとつになるためにセックスってするものかしら。
 どちらかというと逆ね。
 物理的な距離を近づけるほど、精神的な距離は、反発する磁石のようにすうっと離れていくのを感じる。
 愛情を確かめるんじゃない。むしろ、愛情がないことを確かめるため。
 愛情。そんなふわふわしたものに流されない。ただの反射。予定調和。擦れば勃起するし、勃起したものを押し当てられれば濡れる。それだけのことだ。

 

「めずらしいな」


 形ばかりのキスをして彼が言う。
「何が」
「君の方から求めてくるなんて」
 そんなつもりはなかった。
 いや、無意識のうちに、ヤヨイさんとの行為が後を引いていたのかもしれない。あれは迂闊だった。うっかり、ペットと飼い主の一線を越えてしまった。何とか途中で踏みとどまったけれど、彼女に中途半端に昂ぶらされた熱が、実はまだ残っていたのかもしれない。清純そうな顔して獣の本性を隠し持っていたのは知っていたけれど、まさかあんな風にむしゃぶりついてくるとは思わなかった。旦那に対しても同じようにしていたのだろうか。いや、それは考えにくいか。あの旦那に、あそこまでさらけださせる力があったとは思えない。彼女を変えたのはやはり自分の力だ。
「あら、いつだって私はあなたを求めているわよ」
 彼に跨がり、昂ぶらせたものの上に腰を落とす。
「私のコレを?」
 どうやら茶番に付き合ってくれるらしい。
「あなたの地位、あなたの財力、あなたの頭脳、そしてあなたの、ひとをひととも思っていない冷徹さを」
「より悪いな」
 薄く笑いながら、ナオコの腰に手を回してくる。でもまだ自分から腰を突き上げようとはしてこない。
「身体だけ求めてくるより悪い」
「好きでしょう? そういう方が」
 ナオコが彼の冷徹さを好ましく思っているように、彼も同じように思っている。互いの切っ先が互いに向けられていることは承知している。けれども平然としていられるのは、まだ他に切っ先を向けるべき相手が無数といるからだ。互いに構っている暇はない。
 淫婦を装って腰を振ると、彼は早々に達した。
「めずらしいわね、随分と早いじゃないの」
 腰を上げる。ずるりと抜けていく感触に思わず身震いして背中を反らせると、下から乳房を揉まれ、戯れに乳首を吸われた。痣が残りそうで残らない絶妙な力加減。比べてもしようがないけれど、やはりヤヨイさんとは違う。
「考えていたからさ」
「何を」
「君がこんな風に回りくどい手を使ってくるのはめずらしい。言いたいことがあるならはっきり言えばいい」
「他人のペットに勝手に餌を与えるのはルール違反よ」
「何のことかな」
「ほら、はっきり言ったところであなた、はぐらかすから無意味じゃない」
「言っておくけど君とは趣味が違う。君のペットには何の興味も関心もないし、わざわざあげるような餌もない」
 彼は達したが、快楽に浸りきった呆けた顔はしていない。相変わらず、忌々しい男だ。
「私もあなたのペットに何の興味も関心もないわ。でも自分のペットに傷をつけられたら、傷をつけ返すくらいのことはできるわよ」
「だったら新しいペットにすげ替えるまでだな。君と違って一匹に執着はしない」
 萎えたペニスを押し潰すように腰を動かしてみたけれど、自分の尻が汚れただけだった。
 執着しているわけじゃない。しかしムキになっていると思われるのは心外だ。
「子どもができたって言うのよ」
「それはめでたいじゃないか」
「茶化さないで」
「他の男に食われたのか? なら君が怒るのも理解できるが」
「その方がよっぽどわかりやすくていいわ。というか、初めはそれを疑ったのよ。私の留守中に勝手に忍び込んでくる不届きな輩もいることだし。元々、ちょっと誘惑されれば簡単に堕ちてしまうタチなのはわかっていたし」
 手に入れやすいペットというのは、これだから面倒なのだ。手に入れたら今度は、他人に奪われることを警戒し続けなければならない。
「調べてみたけれど、子どもなんてできちゃいない。でも身体は妊娠の兆候を示している。つわりが来て、お腹も膨れてる。それで私は、顔面蒼白で耐えている彼女の背中を優しくさすってやってね、『大丈夫よ、きっと元気な赤ちゃんがうまれてくるわ、一緒に頑張りましょうね』って励ましてあげてるの。まったく何の茶番かしら」
「それで彼女は一体誰の子どもを身ごもっているんだ」
「あら、私のよ」
 一拍置いたあと、彼は弾けるように笑った。
「本当に信じてるのよ、私との子どもができたって。おそらくそれが唯一、私をつなぎとめる手段だと思っているの。学習しないわね。夫との間でも同じことをやって失敗しているのに」
「まったくどうしてこう、親になるのに相応しくない人間の下にほどできるんだろうな、子どもってやつは」
「本当ね、人畜無害そうな顔して意外と闇が深いのよ。まぁそういうところも含めて可愛いからいいんだけど」
「君のことも言ったんだけど」
「あら。私は、用済みになるなり実の子どものことを記憶から消去して、逃げてしまうような無責任な真似はしないわよ」
「自分の欲望を子どもで満たしているという点では同じだろう」
「希望を託していると言って」
 彼の唇の端が僅かに持ち上がる。彼の瞳の中に、すでに彼と同じような表情をした自分が映っている。
「憎んだ兄と同じ名前を子どもにつけておいて?」
「親や祖父母の生まれ変わりとかいって名前をつけるのはよくあることでしょう。志半ばで道を絶たれた彼の無念にちょっとは報いてあげたいもの。それに私は子どもに関心がある。憎しみでも嫌悪でも、ちゃんと関心を注いでいる。無関心よりはマシよ。可愛がっているように見えて、あなたはペットに対しても無関心ね。それはいつか見破られて、手酷いしっぺ返しを食らうわよ。いつか餌を貰えるはずと期待を膨らませたペットほど厄介なものはないわ」
「私のペットは、私に関心を寄せられることを期待してすり寄ってくるわけじゃないからね。君がその最たる例だ」
「そうね。そうだったわね。昔から変わらないわね、『先生』」
 今も変わらず、『先生、先生』と寄ってくる、無知な学生しか相手にしていないのだろうこのひとは。そして大多数は、このひとと見ている世界が違うことに気づき、打ちのめされ、去っていく。理解できない、そして理解してもらえないことに絶望する。自分が左を指し示せば彼は右へ動く、そのことを理解し、むしろ心地よく感じて一緒にいられるのは自分くらいなものだろう。
 シーツを身体に巻きつけて、起き上がる。
 ああいけない、長く喋りすぎてしまった。
 シャワーで洗い流せば、まとわりついた汗も精液も消えていってしまうように。
 この時間もどうせすぐ、流れ消えていってしまうのに。