705と841⑾

執筆:八束さん


 

 

気がつけば薄暗い廊下で、ひとりでいた。

右を見ても、左を見ても、奥に続くのは漆黒の闇。どちらに進んでよいのかわからない。

途方にくれていると、微かに人の声がしたような気がした。

恐る恐る足を踏み出す。ひんやりと冷たい空気。しばらく進むと、僅かにあいたドアから漏れる明かりを見つけた。誰か中にいるらしい。ひとの声も漏れている。声……いや、違うこれは、喘ぎ声だ。

聞いてはいけないと思うより先に、つま先がドアにふれた。そのせいでドアがすっと動き、中の様子がよりはっきりと見えるようになってしまう。

白い部屋の中で絡み合う二匹の獣。

大人の男の上に少年が跨がって、腰を振っている。

見てはいけない。なのに何故か目を逸らすことができない。

喘ぐ少年につられるように、自分の息も荒くなる。

無意識のうちに、胸に手を当てている。

認めたくない。認めてはいけない。でも、認めざるを得ない。

あの少年を少し、羨ましいと思っている。

でもあの少年は一体……

 

誰。

と、思ったところで目が覚めた。

嫌な夢。

夢が現実を反映しているのだとしたら、あまりにもわかりやすすぎる。

もう二週間ほど、ナオコさんと会っていないから。だからあんな夢を見てしまった。

それまで一日たりとも欠かすことなく、ナオコさんは会いにきてくれた。なのに急に会えなくなって心が、身体が、悲鳴を上げている。目が覚めると下半身がぐっしょりと濡れている。

ナオコさんはどこにいるのか。今どうしているのか。誰かに訊ねようにも、誰に訊ねていいのかわからない。

一度主治医に聞いてみたことがあったが、そもそもナオコさんのこと自体、あまりよくわからない様子だった。

いや、わからないと言えば、自分も同じ。

一体ナオコさんの何をわかっていたというのだろう。

ひとりぼっち。

こんなときに限って海は、陸のものを拒絶するかのように激しい波を打ちつけてくる。

ひとりきりだと、一日はあまりにも長い。

ふらりと外に出、あてどもなく彷徨いながら、何故か脳裏によぎったのは、あの少年のことだった。そう……私のことを『母』だと言った少年。夢に出てきた、あの少年。

皮肉なことに私のことを知るのは今、あの少年しかいないのだ。

自然と足が、少年のいた場所へと向かっている。

白い壁、白い床、昼も夜も変わらず、等間隔に灯り続ける白色灯の明かり。時間も場所もわからなくなる。わからないどころか、時間も場所も失われてしまった迷宮に囚われたかのよう。

自分という存在もわからなくなりかけたそのとき、

「どこに行こうとされてますか」

現実に引き戻された。

目の前には、白衣を着た若い長身の男性。明かりの強い場所に来ると、金色に透けて輝く髪が綺麗。そのきらめきにみとれていると、もう一度同じことを訊ねられた。

どこに……

「あの子に会いたくなって」

「どうしてですか」

「え……」

一見穏やかで、人当たりの良さそうな風貌。けれど皆に対していいひとが、自分に対してもそうだとは限らないのだと思い知る。

「あの子って、セツナ君のことですよね」

セツナ……

そう、確かあの子は、自分のことをそう、名乗っていた。

名前……

ふと見上げると、彼の右胸のネームプレートには『KAJIYA』と刻まれていた。

カジヤ……誰だろう。

「今さら彼に会いたいって、一体どういうおつもりですか」

どうやら彼は、私にあまりいい感情を抱いていないらしい。知らないひとから、知らないうちに敵意を向けられている。怖い。

でも、自分ならやりかねないとも思ってしまう。だって自分が、自分じゃないみたいだから。知らないうちに、知らない自分が、とんでもないことをしでかしていても不思議じゃない。そんな自分を唯一現実に留めてくれていたのはナオコさんだった。ナオコさんがいなくなった自分は、制御を失ったロボットのようだから。

「あなたはナオコさんさえいればいいんでしょう」

思考を読まれたようだ。

彼は一体何者なのか。

「あなた、もしかしてナオコさんのことを知っているの」

答えない。でも、彼しかいない。敵かもしれないけれど、ようやく見つけた手がかり。

「教えて。ナオコさんはどこにいるの。今どうしているの。ずっと会えていなくて。不安でたまらなくて……」

だけど彼はつれなかった。

「だから今度はセツナ君に縋るんですか? 自分から捨てたくせに」

吐き捨てる口調で、視線で、このひとはもうずっと前から、自分を断罪することを心に決めていたようだ。

「捨てたなんて、違う」

違う。その方があの子のためにいいと思ったから。いいと思ったのは何故? そうよ、確か、ナオコさんに勧められて……

「あの子によりよい環境を与えてあげたかったら」

「そうやって都合の悪いことは忘れてしまえるなんていいですね。これだけ上手く記憶改竄が効いた被験者もそういないですよ。いいことも悪いことも、決して消えない記憶に苦しめ続けられているあの子とは正反対だ。いっそ逆ならよかったのに」

得体の知れない敵意が怖いと思うのと同時に、理不尽な攻撃に怒りもこみ上げてくる。どうして見ず知らずの人に、そこまで言われないといけないのか。

「あなたに何がわかるっていうの。ひとの苦しみは他人にはわからないわ」

「仰るとおりですね。言い換えましょう。あなたの苦しみは私にはわからない。あの子の苦しみも、私はわかっていないかもしれない。でも私は、あの子のことは救ってあげたいと思うし、あなたのことは救う価値がないと思う。失礼いたしました。全部、私の主観です」

 

ぐらぐらする。

まっすぐ立っていられない。世界がもの凄い勢いでうねっているから、一瞬でも目をひらけただけで意識が吹き飛ばされてしまいそう。私は、私自身は何も変わっていないはずなのに、どうして。

また、あの夢を見た。

白い肌、艶めかしい声。

あの少年の痴態。

後ろから男に貫かれている。あきっぱなしの口から漏れ続ける、ごめんなさい。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、お父さん」

ああ、可哀想。

どうしてあんなことになっているのかしら。ひどい、やめさせないと。可哀想。

可哀想……?

本当にそうかしら。

だって、あの子は悦んでいる。

その証拠に、下半身は萎えていない。

まだ幼いのに、一人前に欲望を溜め込んでいる。

ごめんなさいと謝りながら、快楽の沼から這い出ようとはしないのがわかる。そう、だって、

私も同じだから。

どうしてだろう。あの子のことは、手に取るようにわかる。

息が、次第にあの子と重なっていく。

下半身の疼きが重なっていく。

「ごめんなさい、お父さん、許して、苦しいの、それ以上は、もう嫌」

あの子を貫いているのは、あの子の父親のよう。

許されざる行為のはず。頭ではわかってる。でも、実感がない。ああそうなんだ、と、ストンと受け入れてしまう。何が正しいのか、間違っているのか、すべてがあやふやで、ふわふわしている。思考が、倫理観が、輪郭がぼやけていく。

「嫌? ふざけるな。嫌なのは俺の方だ。何でお前なんかのためにこんなことしなきゃならないんだ。教授が言うから仕方なくお前の開発を手伝ってやってるんだ。手間かけさせやがって。ほら、奥の方、感じてきてるだろ。感じてるって言え」

「感じてるっ……感じてる奥っ」

「だったら早く射精しろ。お前が射精しない限り、俺は教授に抱いてもらえないんだからな」

「ごめんなさい、しゃせい、できなくて、ごめんなさ……っ」

……ああ、そうね。その気持ち、痛いほどわかるわ。快感を受け止められる容量はとっくに超えているはずなのに、何故か解放できないもどかしい気持ち。気持ちいいはずなのに苦しくて。穏やかな波間に漂っていたはずなのに、いつしか上下左右めちゃくちゃな波に飲み込まれて、水面に顔を出すのに必死になって。

懐かしい。

懐かしいあの感覚。

味わいたい。

狡いわ、あなただけ楽しむなんて。

私だって、ずっとずっと我慢してきたの。

もう耐えられないの。

行きなさい、と、声が聞こえたような気がした。

行って、ほら、あなたの思うがままにすればいい。

子宮に響く、あれはきっと、ナオコさんの声だ。

踏み出す。

狂宴の中に。

一歩。

「ほら、どうすればいいのかわかるわよね」

咽び泣いている少年の下に潜り込む。

パンパンとぷつかりあう肌の音が大きくなる。彼らは私などに目もくれず、当然のように行為を続ける。

それでいい。

ここはそういう場所なんだ。

首を、胸を伝って、背後から伸びてくる二本の腕。気まぐれに脇腹を撫で、乳房を持ち上げ、乳首を摘んでくる。ああ、わかる。振り向かなくてもわかる。これはナオコさんの腕。

指が鼠蹊部に沿って降りてきて、しなやかに、容赦なく肉を割りひらく。

「あっ」

どろっとしたものが流れ落ちたのを感じ、思わず声が漏れる。

痙攣などお構いなしに限界まで割りひらかれたせいで、こぽこぽと愛液が止まらない。

首を振って、放してほしいと訴える。

でも、まるで膣鏡のように、がっちりと固定されて逃げ場がない。ああ、こんなことをされたらもう、早く入れてもらうことしか考えられない。

もう限界なのに、それなのにナオコさんは、

「ひっ……ああっ」

人差し指で肉襞を割りひらきながら、親指で陰核をひと擦りした。

電流のような快感が背筋を走り、ぷしゃっ、と、飛沫を撒き散らしてしまう。

「せっかく見えやすいようにひらいてあげたのに、こんなに白く泡立ててしまったら駄目じゃない」

ひらききった形のいやらしさを教え込むように、くる、くる、と穴の周囲をなぞる指。

「ほら、もう限界でしょう。楽になっていいのよ」

しかしそれは、ヤヨイに向けられた言葉ではなかった。

「ほら、坊や」

 

「駄目じゃないか夜紘」

また別の声がする。

影の中から現れた男は不意に、父親……夜紘の尻をまさぐった。その瞬間、彼は今までにない、甘ったるい声を上げた。

「子どもには優しく教えないと」

「は、い……教授」

「いつも私がしてあげてるようにしてやりなさい。わかるだろう?」

「はい、やります。やります、から。ちゃんとできたら教授、ご褒美くれますよね」

「まだできてもいないのに褒美をねだるのかい。助けてあげようかと思ったけれど、気が変わった。この子をイかせない限り、君はイっては駄目だよ、夜紘」

「教授っ、ごめんなさい、ごめ……んあっ、あああっ」

尻にねじ込まれたローターが、鈍い音を立てて動き出す。仰け反った彼の口は半びらきのまま。垂れ落ちた唾液が少年の背中に落ちる。少年もまた、同じように口をひらけたまま、ヤヨイの乳房にむしゃぶりついてきた。

「ああっ、感じる……っ、イっちゃう、イっちゃう……!」

そう叫んでいるのは、一体誰?

どろどろの蜜壺を満たしているのは、一体何?

視界が揺れる。内股が痙攣する。快感に咽び泣いているのは本当に私?

これは夢?

わからない。

首を傾けると、ナオコさんの顔があった。たまらずキスをねだる。ナオコさんとふれている部分が、一番熱い。

「イきなさい」

命じられたら簡単に果ててしまう。

「ほら、皆一緒にイきなさい」

命じられたら、そのとおりになる。

その瞬間、気づいた。

私たちは、誰かの玩具という点で繋がっている。

同じボタンを押せば同じように反応するようにプログラミングされた玩具。どこにいても、誰といても抗えない。私たちは……

 

目が覚めたとき、いつものベッドの上にいた。

身体が重くて起き上がるのが億劫だ。

あれは夢? でも、今もまた夢のような気がする。

目を閉じれば黒い夢。目をあければ白い夢。どちらも等しく夢には変わらない。

何とか身体を起こして、窓の外の海を眺める。

そうしてぼんやりしているうちに、一日がまた、終わる。波が寄せて、返す。その一往復だけで、時が猛烈に過ぎ去っていく感覚。

お腹が重だるい。

何か、蠢いている感覚。

気持ちが悪い。

お気に入りだったはずの香水のにおいに頭痛がする。何も喉を通らない。

当たり前か、だって、赤ちゃんがお腹の中にいるんだもの。

赤ちゃん。

そう、あの子を産んだときもそうだった。つわりがひどくて。

いや……

ありえない。

いつか、誰かに言われた言葉がよみがえる。

ありえない、妊娠したとか。

そう、ありえない。

ありえない。

ナオコさんとの子どもを授かるとか、ありえない。

わかってた。

そんなこと、わかってた。

窓ガラスに映る、青ざめた自分の顔。

いくら現実から逃げたくなったって、そんなことわからなくなるくらい、おかしくなったわけじゃない。どんなに。どんなに心が壊れても、歩き方まで、呼吸の仕方まで、そう簡単に忘れることなんてできやしない。どうやったら子どもができるかなんてことまで、忘れることなんてできやしない。

わかりながら、偽ってた。

どうしてこんな、と思うような稚拙な犯行がある。

どうしてこんな、すぐバレるような嘘を。どうしていけると思ったのか。杜撰すぎる。いつか必ずバレるに決まっているのに。ちょっと考えればわかりそうなことなのに。あのときは自分も、あちら側の人間だった。でも、対岸に辿り着いてしまった今となっては、その気持ちがとてもよく、わかる。

今しかなかった。

今、偽れればそれでよかった。

偽れなくなるときのことなんて、どうでもよかった。

ずっと偽り続けられると思っていたわけじゃない。

偽り続ければ本当になると思っていたわけじゃない。

それでも、今、この瞬間、偽れればよかった。

コップに水を注ぎ続ければいつか溢れることはわかっていても、注ぎ続ける手を止めることはできなかった。

だって、もはや溢れていても、誰も、何も、言ってくれない。

優しい嘘の世界を保ち続けてくれる。

どうして、どうして、どうして。

だから甘えてしまった。ここまで来てしまった。

ナオコさん。

どんな顔をして会えばいいの。

愛して、なんて、愛してる、なんて、とても言えやしない。

なのにこんなときに限って、ナオコさんは目の前に現れた。

優しく抱きしめられる。

「身体の調子はどう?」

「ナオコさん」

「無理しちゃダメよ。あなたの身体はもう一人のものじゃないんだから」

「ナオコさん、やめて」

「ごめんなさい、苦しかった? 横になった方がいいかもね」

「やめて、やめてください、もう、そんなに優しくしないでください」

「当然のことをしているまでよ」

「やめてください、もう、わかってるんです。もう、ナオコさんが作ってくれた世界にはいられない。わかってるんです。お腹に赤ちゃんなんていやしないって。当然なんです。ナオコさんとの子どもなんて作れるはずない。そんなこともわからなくなるくらい、私、おかしくなってない。いっそ、おかしくなってしまいたかった。でも、どうしても」

「あなた、何を言ってるの」

「ただ、ナオコさんの気を引きたいためについた嘘だったんです。ごめんなさい、ごめんなさい」

「どうして謝るの。あなたのお腹に赤ちゃんがいるのは本当よ」

「やめてください」

「あなたの体調がよくないのだって、そのせいなんだから」

「やめて。どうして、どうしてそこまで……」

ナオコさんと目が合う。そのとき初めて、このひとのことが怖い、と、思った。

自分がずっとナオコさんに嘘をついていたように、このひとも私を欺こうとしているんじゃないか。

古代の遺跡の、ずっと動かされることのなかった石の扉をあけたときのような、黴臭い冷気を感じる。

他人のことなんてわからないと言い切ったのは、ほかでもない、自分自身じゃないの。

ナオコさん。

このひととの出会いは何だったかしら。

そういえばどうして、いつの間に、このひとなしじゃいられなくなっていたんだろう。

「ほら、あなたがちゃんと妊娠してるって証よ」

そう言ってナオコさんは、どこからか取り出してきたエコー写真を見せてきた

「……わかりません」

「そうね、確かにわかりにくいわね。でもこの黒く丸いのが胎嚢。その中の白い輪が卵黄嚢で……」

「そうじゃない! こんな写真だけじゃ、私に赤ちゃんがいる証明になんてならないじゃないですか。もうやめて。もう帰して……もうこんなところ嫌。帰ります。帰してください!」

「そういうわけにはいかないわ。不安定なあなたを放り出すことなんてできない。あなたにはちょっと、時間が必要かもしれないわね」

「いや、帰して。帰して。私を『現実』に帰して……!」

ナオコさんを突き飛ばして逃げ出した。

どこへ向かおうとしているのだろう。

ここではない、どこか。

……なんて、いつもそうだった。

いつも、ここじゃない、ここじゃないと思って、逃げ続けてきた。

ざんざんと、荒れ狂う波が見える。

そんな波以上に荒れ狂っている自分の心。

ここじゃないと逃げ、でも結局、どこへも行けないと諦める。そんな人生だった。

「おかあさん」

か細い声。なのにその声は、周囲のざわめきを貫いて鮮明に耳に届いた。

振り返ると、あの子がいた。

名前を。

呼びたいのに、呼べない。

私にはその資格がない、という思いと、あの子はそれを望んでいない、という思いと。

でもあの子は、不思議と笑みを浮かべていた。いつも、哀しみだったり、偽りだったり、何かしらまだらに入り混じった表情を見せるあの子が、曇天の下、何故か一点の曇りもなく、心の底からの喜びを表して……

そして、言った。

「よかったね、おかあさん。赤ちゃん、できたんだね」

「どうして……」

どうしてそれを知ってるの?

どうしてそれを喜べるの?

あなたが。

「お母さん、ずっと、赤ちゃん、欲しがってたもんね。あのひとに愛されるために、赤ちゃん、欲しかったんだもんね。よかった、僕、ちゃんと、お手伝いできたんだね」

「お手伝い……どういうこと?」

「僕、ちゃんと、しゃせい、できたんだね」

音は聞こえるけれど、意味が理解できない。

ただ、子どもが、こんな朗らかな顔で言うべき言葉ではないということはわかる。

悪いことをした子は叱るべきだ。

よいことをした子は褒めるべきだ。

でもこの子に、どういった態度を取っていいかわからない。

息ができない。

時間よ、止まって。

ただ絶望に進むしかない時間であるならば、そんなもの、進める意味なんてないじゃない。

自分が息を止めることでそれが叶うのであれば、いくらでも止めておける。

息を吸って、吐いた瞬間に、誰にとっても平等であるはずの時間が、自分たちにだけ牙を剥く。

「僕、ちゃんとおかあさんとセックス、できたんだね」

限界まで上がった高波が、自死するように海面に落下する。

白い血飛沫。

 

 

望まなければよかった。

褒められたいなんて。

救われたいなんて。

愛されたいなんて。

ずっと海の底に沈んだままのゴミと、岸辺まで流されてくるゴミ。その分かれ目は一体どこにあるのだろう。

たまたま流されてきたゴミを拾い上げたら、とんでもない毒物だった。

数多の記憶の中から、よりにもよって何でこんなことを思い出してしまったのか。

運が悪い。でも、そんなこともあるだろう。

あれだけ多くのものを捨て続けてきたら、いつか限界を超えてすべて岸に押し寄せてくる日も近いんじゃないか。

毒に侵された手を清めようと海に浸したあとになって、海も同じく汚染されていることに気づいた。

何であんなこと、母に言ってしまったんだろう。

自分の言葉が、母に身投げさせる最後の一押しとなった。

でもあのときは、疑わなかった。

本当に母を、喜ばせられると思った。

出来もしない子どもを望む母に、自分ならその望みを叶えられると。

いや、君は悪くない、と声がする。

君は何も知らない子どもだった。悪い大人に操られていただけなんだから……

でも、頭ではわかっていても、心には何も響かない。

洗っても洗ってもよごされるくらいなら、いっそもう、汚れきってしまった方が楽なんだ。

にゃあ、と猫の鳴き声。

唯一動く眼球だけで、何とか声の正体を捉えることができた。

背中に北斗七星の模様がある黒猫。

母さん。

望まなければよかった。

愛されたいなんて。

何ひとつ通じることのなかった母だけど、唯一その思いだけは、十数年の時を経て、通じ合うことができている。深い海に沈んでいった母に重ね合わせるように、自分の思いも沈んでいく。

万にひとつ、もし、それでも、まだ、僕を愛してくれているのなら。どうか僕を愛さないで、ヒロトさん。

愛なんて厄介なものに苛まれることなく、うまれてくることのできなかったあの子が、今は、ただ尊く、羨ましい。