705と841(10)

執筆:八束さん

 

 

 

ああ、帰ってきた。
 寄せては返す波を目にして、一番初めにそう思った。
 どうして。ここに来たことなんて一度もありはしないのに。
 ザッザッ、と、砂浜を歩く音が近づいてくる。振り向かなくてもわかる。それが誰の足音か。
 確信を得る前に、後ろから肩を抱かれた。ふわっと甘い香水の香り。耳元にかかる息。
 音とか、においとか、空気とか。
 手のぬくもりとか優しい言葉とか安心させてくれる微笑みとか、そういった直接的なものではなく、間接的なもので、最愛のひとをより深く感じるようになってしまった。
「こんなところにいたの。風が強いから、身体にさわるわ」
 そっと下腹部にふれられる。
「あなただけの身体じゃないんだから」
 ナオコさんにふれてもらうことで、ここに確かに、もうひとつ命があることを実感できる。むしろナオコさんから、命を分け与えてもらったみたい。
 分け与えてほしい。
 ナオコさんと一緒にいるとき一番感じるのは、「分け与えてもらっている」という感覚。今だってそう。ナオコさんの柔らかな微笑みを見ると、ひだまりの中に身を置いているみたいにぽかぽかする。どれだけ本物の日差しが照っていても、ナオコさんがいなければ曇天と同じ。ナオコさんの光が欲しい。欲しい、と素直に言えることが気持ちいい。
「私、ちゃんとお母さんになれるかしら」
「そのためにここに来たんでしょう。ここの先生たちに任せておけば、何も心配することはないわ。それに検査の結果も良好だったし」
「よかった」
 ナオコさんの知り合いがいるということで紹介された、「島」にある病院。島の景観のほとんどを埋めつくしているような、巨大なコンクリート造りの建物の中には、病院だけでなく学校や研究所もあるようで、子どもたちや、白衣の集団をよく目にする。けれど、ここまで来るひとはほとんどいない。たぶん、こんなところまで足を伸ばすのは、よほどの海好きか、暇人か、それとも……
「あ、今、赤ちゃんが動いたわ」
「えっ」
「ほら、ここ」
 ナオコさんに手を誘導される。
 お腹の上で、ふたりの手が交わっている。
 そういえばここにこうやってふれられるときは、胸の膨らみや、脇腹や、足の付け根をなぞられるときとセットになっていたな、と思い出す。お腹だけ。こうやって何気なくふれられることなんて今までなかった。
 そんなことを思っていると、じわじわと身体が熱くなってきた。
 ナオコさんは、嬉しそうに赤ちゃんの動きを伝えてくれるけれど、正直、そんなことはどうでもよかった。その手があと少しだけ上に、いやあと少しだけ下に、動いてくれることを願ってしまう。
「ナオコさん」
「何? どうしたの。顔が赤いわ。やっぱり風邪をひいたんじゃないの」
「違う。違います、その……
 ナオコさんに見つめられると、言葉が出てこなくなってしまう。そういう呪いにかけられている。だからうつむきながらしがみついて、決死の覚悟で、顔を上げるのと同時にキスをする。波音よりも大きく響く、唇と唇が奏でる水音。
「ダメよ。これからママになるひとに、そんなことはできないわ」
 だったらママになんてならなくていい……
 なんて、ちょっとでも思ってしまった私は、何て最低なんだろう。
「だから、ママになる練習をしましょう」
「えっ」
 ナオコさんの意図を汲み取るより先に、ブラウスのボタンを外される。そのままブラジャーも外されて、露わになった乳房が海風にさらされる。品定めするようなナオコさんの視線に、肌がひりつく。こんなところで上半身だけ裸にされて、まともに立ってなんていられない。でも、何てことだろう。縋ろうとしたのに、胸にナオコさんの息を感じる。
「何っ、あっ、あーっ」
 そのままちゅうっ、と吸いつかれ、あまりの刺激に、口をぱくぱくさせるしかできない。
「ナオコさんっ、やめてっ、それだめっ、やっ、ああっ」
 舌でぬるりとねぶられて、あっという間に臨界点を超えてしまう。
「ほら、いいお乳が出せるように練習しましょう」
「やっ、そっち、も……ひんっ」
「右と左、あなたはどっちの方が出るタイプかしら」
「そんなの、わからな……あああっ」
「こっちはあんまりってとこかしら。じゃあ今のうちに、準備を整えておきましょうか」
 乳首の根元を摘ままれ、そのままぐりぐりと搾り取るようにされる。弱い刺激と強い刺激、指の感覚と舌の感覚を交互に与えられて、こんなの、まともでいられる方がどうかしている。
「もうっ、もうダメっ、ナオコさん、イっちゃう……イっちゃいますっ」
「イっちゃう? どうして? おかしいわね。いやらしいことなんて何もしていないのに」
「は…………ごめん、なさ……
「あなたが出すのはいやらしい液体なんかじゃなく、赤ちゃんのための大切なミルクなんだから。ミルクならいくらでも出しなさい。ほら」
「ああっ」
 胸を持ち上げられ、揉みしだかれる。ナオコさんの細くてきれいな指がめりこんで、胸の形を歪ませる。乳首を両方摘ままれて、何度も引っ張り上げられる。
「あっ、出ちゃうっ、出ちゃいますっ……ミルク出ちゃうっ」
 どろりとしたものが溢れ、太腿を伝って、砂浜に染みを落としてしまう。どんなに大きい波が打ち寄せたとしても、ここまで届いて消し去ってくれることはないだろう。
「ママになってもあなたは何も変わらないわ」
 抱きしめられ、頭を撫でられる。
 この言葉が欲しかったんだと、目を閉じながら思う。

 病室は海が見える、きれいで大きな個室だった。
 贅沢は言えないけれど、入院するなら景色がいい部屋がいいと密かに思っていたから、ナオコさんの心遣いが嬉しかった。ソファや小さなキッチンもあり、病室というよりもはやホテルのよう。
 海の様子を眺めていると、飽きることがない。下手をすると一日中窓辺のソファに座りっぱなしになってしまう。少しは身体を動かさないといけないと思い、お昼のあとは散歩に出かけるようにした。
 行ってはいけない場所について特に何も言われなかったけれど、そこここに鍵がかかっている場所があって、自然と歩けるルートは限られていた。
 外へと向かう廊下を歩いていたとき、普段あかないはずの扉から、人影が飛び出してきた。
「あっ」
 避けようと思ったが避けきれず、尻餅をついてしまう。
 飛び出してきたのは、手術着のようなものを着た少年だった。少年は転ばずに済んだようだが、呆然と立ち尽くしている。
「僕、大丈……
「おかあさん」
 少年の言葉に耳を疑った。聞き間違いかと思った。けれど少年はもう一度、
「おかあさん」
 はっきりと、そう言ったのだ。
 おかあさん?
 それって一体何?
 言葉の意味はわかるけれど、理解が追いつかない。この子はどうして、私を見て「おかあさん」なんて言うの。
「おかあさん。おかあさんだよね。おかあさんおかあさんおかあさん!」
 そしてしがみついて、わあわあと泣き出した。
 どうして泣いてるの。可哀想。小さい子が泣いているのは可哀想。でも。どうして。この子の感情を素直に受け止められない。何なのこの違和感は。違和感。違う。嫌悪感だ。ダメ。この子に関わっちゃダメ。本能がそう告げている。
「やめて!」
 思わず、激しく突き放していた。
「やめてよ! 私はあなたのおかあさんなんかじゃないんだから!」
 よろよろとよろめいたあと、その子もぺたんと尻餅をついた。
 ああどうして。子ども相手にムキになってしまったんだろう。私は元々あまり、感情を表に出すような性格じゃない。自分が怒ったところでどうしようもないことが多いから、怒る前に諦めてしまう。でも一体何なのこの拒否反応は。妊娠しているからかしら。そういえば妊娠すると、食の好みや性格が変わることもあるみたいだから。
「嘘。おかあさんだよ。絶対おかあさんだよ。ねえ、ヤヨイお母さんだよね? 僕だよ。刹那だよ」
「セ、ツナ……
 あけてはいけない箱があって。その鍵が今、差し出されたようだった。
 これを一体どうしたらいいのだろう。
「忘れちゃったの? ねえ、おかあさん!」
 どうしたらいいのかと迷っている間にも、誘導されて、もう鍵穴に鍵を差し込んでしまっている。
「ここは嫌だよ。寂しかったよ。ねえ、迎えに来てくれたんでしょ。そうでしょ。こんなところ早く出ようよ!」
「ダメ……ダメよ……
「どうして!」
「だって私、赤ちゃん……赤ちゃん産まなきゃいけないんだもの」
「赤ちゃん」
「そうよ。お腹に赤ちゃんがいるの。この子こそが私の子だもの」
「嘘……おとうさん……おとうさんそんなこと何も言ってなかった」
 お父さん……
 ダメ。
 それ以上は言わないで。
 それ以上、余計なものをあけようとしないで。
「お父さん? 何? 知らないわ。この子は私とナオコさんの子なんだから」
 すると少年は、まるで化け物を見るかのような目で私を見た。
「おかあさん。何……言ってるの」
「何言ってるの、って、それはあなたの方でしょ。私は、ナオコさんとの子どもを産むためにここにいるの。私はずっと、ナオコさんとの子どもが欲しかったの。あなたなんか知らない。男との子なんて知らない。知らない、知らない、知らない! 知りたくないの!」
「ヤヨイさん!」
 ひらきかけた禁断の箱を、すんでのところで閉じてくれた、ナオコさんの声。
「ヤヨイさん、大丈夫。大丈夫よ。あなたは何も心配せずに、自分の身体を大切にすることだけ考えていればいいの」
 ナオコさんに支えられながら、病室を目指す。
 振り返らなかったから、あの子がその後、どうなったかは知らない。知りたくない。
 何も、何も。
 そう、本当のことなんて何も、知りたくなかった。
 その晩眠りにつくまで、ナオコさんはずっと傍にいてくれた。
「ナオコさん、どうしよう、私、どうしよう……
「どうしたの」
「ナオコさんが傍にいてくれて、私、これ以上の幸せはないはずなのに。怖いんです」
「怖がることなんて何もないわよ」
「でも」
「強いて言うなら、幸せすぎて怖いのね。そういうのは誰にだってあるわ」
「ふとした瞬間に、この幸せが終わってしまいそうで」
「何言ってるの。始まるのよ。これから。新しい幸せが」
 でも、と言いかけた唇を、ナオコさんの唇でふさがれる。
「あなたの不安は全部私が吸い取ってあげるから。吐き出しなさい、全部」
 ナオコさんは、狡い。
 ナオコさんに命じられたら、そうするほかなくなってしまう。息を吸うたび、与えられるナオコさんの熱。吐き出した不安が快感へと変換されて、血液に乗って全身へと行き渡る。
「いい夢を見なさい」
「はい」
 眠りに誘うようにそっとまぶたの上に置かれる、ナオコさんのてのひら。ああ、ずっとこのまま、こうしてほしい。
「いっそそのまま現実にしてしまいたくなるくらい、素敵な夢を」

 それ以降ナオコさんが、会いに来てくれることはなかった。