9.75(705)

執筆:八束さん

 

 

 

 勉強も運動も人格も、すべてにおいて兄は優秀だった。

 そんな兄と比べられ続けた幼少期。けれど不思議と、嫉妬心は芽生えなかった。何もかも当然なことだった。兄が優秀なことも、ナオコが決してそれを越えられはしないことも。当たり前の、今までもこれからも決して変わらない事実だった。

 兄は人格も優れていたから、できない妹を決して見下したりはせず、さりげなくサポートをし、尚かつ恩を売るような、ナオコの劣等感を刺激するような態度は決して見せなかった。そんな兄が自慢だった。そんな兄の妹でいられることが誇りだった。

 ナオコを利用して、兄に交際を申し込みたがる女子は数え切れないほどだった。ナオコが密かに心を寄せていた子もそのひとりだと知ったときは、ショックでなかったといえば嘘になる。けれどその子から言付かった手紙を、密かに握り潰すような真似はしなかった。兄に渡したところで、兄は決してどの誘いも受け入れないことを知っていたから。

 誰のものにもならない。その潔癖さが、ますます兄のカリスマ性を高めていった。

 努力しなかったわけじゃない。

 飲み込みが悪い分、おそらく兄の倍以上は机に向かっていたと思う。

 けれど平均点より十点上回ればいい方で、大体いつも、平均点より少し下回るぐらいの成績だった。

 部活は兄と同じ、陸上部に入った。当然のように兄は大会上位常連だったが、ナオコは準決勝にすら進めなかった。兄の専門は短距離で、ナオコは棒高跳。入部時、兄と同じ種目を選ぼうとしたら、部長から止められた。

「同じ種目だとつらくならない?」

 どういう意図でそう言われたのか、そのときのナオコにはまったくわからなかった。わからないから答えようがなくて、口をぽかんとあけたままでいると、部長はバツが悪そうに言った。

「ごめんね。でも、ナオコちゃんはナオコちゃんのいいところを伸ばした方がいいと思うの」

「私のいいところは短距離じゃ伸ばせないんですか」

「そういうわけじゃないけど。ナオコちゃんがつらくならない?」

「つらい?」

「大変じゃない? お兄さんがあれだけ何でもできちゃうとさ」

 そうか。

 ああ、そうか。そうなんだ。

 普通は、つらく、なるものなんだ。大変、なんだ。できる兄を持つと。比べられると。普通は、嫉妬したり、憎んだり、離れたくなったりするもんなんだ。それが普通の感情なんだ。

 感情をインストールされたアンドロイドみたいに、じわじわと理解した。

 そういえばどうして今まで、一度たりとも、兄に嫉妬なんてしなかったんだろう。それどころか、わざと比べられようとするみたいに、兄と同じ学校に、部活に入って、兄と同じことをしようとしたんだろう。

 コンクリートの壁の隙間に入った種が芽吹いて、育って、それはほんの小さな種だったはずなのに、いつのまにかコンクリートに亀裂を走らせるほどに、小さな疑念はあっという間に膨れあがった。

 何故。

 才能、という言葉で片付けるのは簡単だ。でも何故、同じ努力を重ねて何故、こうも兄との間に差がうまれてしまうのだろう。才能。才能だとしたら、多少なりとも遺伝の要素があるはずだ。まさか両親の素晴らしいところだけを抽出してできたのが兄で、劣ったところだけを抽出してできたのがナオコだとでもいうのか。そんな都合のよい才能の、遺伝の振り分け方があるものか。

 勉強、運動、それだけが才能じゃない。でも何をやっても……たとえば料理だったり、裁縫だったり、ピアノだったり、ゲームだったり、犬の世話だったり……何をとっても兄にかなうところがひとつもない。それって何かおかしくないか。人間、ひとつくらい、取り柄があるものじゃないだろうか。

 嫉妬でも憎悪でもなく、わきあがってきたのは純粋な疑問だった。まあでもそれが才能ってやつでしょう、二物も三物も与えられたひとってのはいるものだから……それで片付けられない、心当たりがあったからだ。

 何か、頑張ろうとすると、急に頭に蓋をされたような感覚がする。

 自然と眠くなるような、お腹がすくような、そんな人間の生理とは違う、どこかでスイッチをオンオフされているような、強制的にシャットダウンされているような不自然な感覚。

 それを上手く言語化することはできない。

「あーあるある」「何やってもやる気出ないときはあるよね」と同意してくれるひとはいるけれど、根本的に通じ合っていない感覚がする。

 

 私、何か、おかしいんじゃないかしら。

 でも、健康診断の結果はいたって普通だし、成績だって、下を見ればキリがないのだから、世間一般的には標準的な方だろう。兄が飛び抜けてできるだけで。

 そんなときに『先生』に出会った。

 大学受験に失敗して、見かねた親が家庭教師として連れてきたのが、椎名先生。

 大学の講師で、父とは仕事上の付き合いがあったらしいけど、詳しくは知らない。初めて会ったはずなのに、そんな気がしないのが不思議だった。「一目惚れしたんじゃないのか」と兄にからかわれたけれど、これを恋と言っていいのかは疑問だった。ただ、彼には強烈な引力があって、それに惹きつけられてしまうのは確かだった。惹きつけられる。そう。彼は何か知っているような気がしたのだ。彼といれば、ひょっとしたら何か、掴めるんじゃないか……

 先生の教え方はわかりやすかった。とっても頭がいいんだろうけど(という感想がとっても頭悪そう)、ナオコのレベルに落として説明してくれているのがわかる。模試の成績はみるみる上がった。でもやっぱり、あの『頭に蓋をされている』ような感覚は拭えなかった。志望校の判定はAだった。でも、兄が行った大学に比べたら偏差値は十以上低く、そのことがどうも引っかかった。そう、初めて引っかかったのだ。

 私、本当にこんなレベルなの……

 ああ、まただ、また……

 思考が澱みかけたそのとき、シャーペンを持っていた手を先生に握られた。

 年上の異性に手を握られている。

 でも、不思議とそれは、いかがわしさやときめきとは無縁の行為に思えた。

 薄ぼんやりとした視界が、先生と目を合わせるとクリアになる。

「君は『気づいて』いるね」

「せんせい……

「そう、君の能力はこんなものじゃない。君の本当の能力を解放したい? 契約違反になってしまうけれど」

「どういう意味。わかりやすく説明して」

 先生はいつもわかりやすく説明してくれるのに……

 いや……私がわかろうとしていないだけ?

「君の能力はずっと『抑えつけられて』きた。君のご両親によってね。今まで疑問に思ったことはないかい? どうしてお兄さんと比べてできないのか。どうしてお兄さんを追い越すことができないのか。勉強も運動も、すべて、どんな些細なこと、ひとつたりとも」

「嘘……

「生まれたときから、君の能力がお兄さんに比べて秀でていたことがわかっていた。ご両親はお兄さんに跡を継がせたかった。そのサポートとなるきょうだいは必要としても、取って食うようなきょうだいは必要じゃなかった」

「そんなことできるはず……

 いや。

 知ってた。

 そう、先生の言うとおり、心のどこかで気づいていた。

 本当はずっと、その答え合わせを誰かにしてほしかったのだ。

 ナオト(710)

 ナオコ(705)

 私に与えられた名は、兄の半分。

「先生はどうしてそれを教えてくれるの。実験動物には、できるだけ何の実験かわからせないようにした方がいいんじゃない?」

 霧が晴れていく。

 見えなかったものが、見えてくる。

 自分を守るものも、他人を攻撃するものも、いくらでも自由に手に取って、操ることができる。鉛のように重かったものを、発泡スチロールのように軽々振り回すことができる。粉々にすることができる。私にはそれだけの力がある。あったんだ。

 不思議と怒りや悔しさは感じなかった。

 ひとは自分の力でどうにもならないからこそ、怒ったり悔しがったりするのだ。

 でもこれから私は、自分の力でどうとでも運命を変えてやることができる。だから怒ったり悔しがったりしている暇なんてない。

「僕はもっと壮大な実験がしたい。こんなチンケな実験に手を貸すのが嫌になったんだ」

 このひとの腹の内はすぐにわかった。ナオコを足がかりに、ナオコの家の財力や権力に手を伸ばそうとしている。それを隠そうともせず、耳障りのよい懺悔や救いの言葉で誤魔化したりもしない。そんな彼のことを、何故かその瞬間、好ましく思っていた。

「先生。私もよ。抑えつけられていた能力が解放されたときどれほどのものになるのか、最後まで見届けたくはない?」

 相応しい。

 それが一番しっくりする言葉かもしれなかった。

 共に歩むのだとしたら、このひとが一番、相応しい。

「これからは私が、共同研究者になるわ」