執筆:八束さん
母は教育熱心だった。小さい頃与えられたおもちゃは、いわゆる知育玩具、と呼ばれるパズルやカードゲームが多かった。
それらをバラバラにするのが好きだった。バラバラにしたいがために急いで組み立てていた。
母がやって来るときは大抵もうできあがったパズルをバラしているときで、だから母は自分のことをずっと、集中力のない子だと思っていたに違いない。母に褒められたいとは思っていたが、どうアピールすればいいかまでは、幼い頃はわからなかった。
そんな母が近所のおばさん達と、野良猫について話しているのをたまたま聞いた。困っている母を助けたかった。武器と称して家の包丁を持っていったのは浅はかだった。動かなくなった猫もバラバラにしてみたが、流石に良心的なものが咎めたので、『戻して』おいた。血のついた包丁を洗っているところに丁度母が買い物から帰ってきた。怯えながら泣きながら激昂している母の表情は、血みどろの臓器のようにぐちゃぐちゃだった。どうしてそんなに怒るの、ちゃんと『組み立てて戻して』おいたのに。そう言った瞬間、頬に痛みが走った。母に手を上げられたのはそれが最初で最後だった。一週間後、『施設』に預けられることになった。
施設がある島では、バラバラにできるものは事欠かなかった。魚を釣り上げてバラバラにしても何も言われないが、猫をバラバラにすると奇異な目で見られる。その違いを理解してはいたが、納得はしていなかった。自分の考えがひとには理解されないことはわかっていた。だから常にひとりでいた。誰にも見つからない場所を見つけるのも得意になった。
動かなくなったカラスを見下ろしていたとき、背後に人の気配を感じた。振り返るとそこにいたのは、同年代の男子だった。スケッチブックを持っている。
「君がやったの?」
隠すようにカラスの死骸を背にすると、彼はわざわざ回り込んできてそう言った。
いくらでも誤魔化すことはできたのに、何故だか馬鹿正直に頷いていた。
「すごい、ねえ、見せて」
血がつきそうなくらい顔を寄せると、彼はおもむろにスケッチブックをひらいてペンを走らせ始めた。みるみる間にカラスが写し取られていく。死んだはずのカラスに命が吹き込まれていくような。ちょっとした魔法を見ているような感覚だった。
「君、絵、上手いね」
彼はふっと息を吐いた。きっと彼にとっては言われ慣れている、陳腐な言葉を掛けてしまったと後になって気がついた。
「そんなことより」
彼はスケッチブックを閉じると、今度はぐい、と夜紘に顔を寄せてきた。彼が目を輝かせる対象が死骸なら、自分もまた彼にとっては死んでいるに等しいのだろうか。口角の上がった彼の表情を見てそんなことを考える。
「よかったらこれからも僕に協力してくれないかな」
「協力?」
「そう、花とか果物とか海とか山とか、そんなものを描くのはもう飽きたんだ。先生はいつまで経ってもクソつまらない画題しか与えてくれない。でも君なら僕の描きたいものを『作って』くれそう。君にとっても悪い話じゃないだろ? 君が血まみれのところを誰かに見つかったとしても、野犬がうろついてたんですとか、適当なことを言ってあげるよ」
友達より先に、得たのは共犯者だった。
彼は怜次、と言った。
勉強ができることとひとを纏める能力があることとは関係がないと思うのに、勉強ができるがために目立つポジションに推されることが多かった。気づいてから、テストは手を抜くようにしたが、初めについたイメージを覆すのはなかなか難しかった。何か発すると調子に乗っていると、黙っていると馬鹿にしていると謗られた。
休み時間、ルービックキューブを得意げに回している男子がいて、ただそっちの方に視線をやっていただけなのに、お前ならどうせもっと簡単にやるんだろと投げつけられた。得意なわけではなかったが十秒ほどで一段揃えられた。チャイムが鳴って早々に奪い取られたが、あと九手で揃えられるところだった。
別の日、深海君が得意だと聞いたから、と、今度は別の女子がキューブを持ってきた。たいして仲がよいわけでもなかったから、何となく変な感じがしていた。人間関係に疎くてそのときは気づけなかったが、彼女は前に絡んできた奴と付き合っていたらしかった。
どうやっても揃わないと、何度目かのループに入ったときに気がついた。
「なぁんだ、一分くらいでできちゃうもんだと思ってた」
聞こえよがしに彼女は言った。
「そうだね、前できたのはまぐれだったみたい」
その答えで彼女が満足したようだったから、売られた喧嘩をわざわざ買わなくてよかった。キューブが分解され、どうやっても揃わない、誤った場所に嵌め直されていたことに。
けれどひとりで消化できるほど大人じゃなかった。堪らず怜次に愚痴ると、放課後、彼女の机の中から絵の具で真っ赤に塗られたルービックキューブが転がり落ちて、騒動になった。
「馬鹿、何であんなことしたんだ」
「いいじゃないか、あいつらとてもひとりじゃ揃えられっこないんだから。どうせ置き物になるんだから、綺麗な色で染めてやったんだよ」
皆と交わることができないのは、自分も怜次も同じだった。でも自分が浮いて悪目立ちするのに対して、怜次は静かに消えていた。
やりたいことしかやらず、テストも堂々と赤点を取る。それでも決して馬鹿なようには見えないから不思議だった。
体育のときも、ちゃんと運動している姿を見たことがない。もちろんマラソン大会も堂々とサボる。自分もそれに便乗して木陰で時間を潰していると、目の前を走っていた奴が転んだところを丁度目にした。そんなに変な転び方をしたようには見えなかったが、起き上がるのに苦労している。そこへ近づいていったのは怜次だった。助け起こすなんてめずらしい真似をして。でも不自然に、掴んだ腕を離さずに膝から流れ出る血を凝視している。そんな怜次を引き離すのは、骨の折れる作業だった。
「何で邪魔したんだ夜紘!」
転んだ奴を保健室に連れて行き、戻ったときには、怜次は今までにないくらい感情を剥き出しにしていた。
「滅多に見られるものじゃなかったのに。あの血の流れはとても芸術的だった。写し取っておく価値があったのに」
「お前はちょっとは人の目を気にしろ」
「人の目なんて気にしたところで何になる。そんなことばかり気にしてる奴は、ロクなものを生み出せやしない」
「そのお前が生み出す『ロクなもの』を鑑賞するのは、そんなことを気にする一般人なんだよ。せめてお前のゲイジュツサクヒンが通るくらいのパイプは世間と繋いでおけって言ってるんだ」
「夜紘は何もわかっちゃいない。俺は作りたいんじゃない。吐き出したいんだ。繋がりたいなんて思っちゃいない。苦しくて苦しくてたまらない。もうどうにかなってしまいそうだ」
「気づいてないのか。お前はもう、とっくにどうにかなってる」
筆箱からカッターナイフを取り出し、刃を手のひらにあてる。横に引く。血が流れ始めるのは、思ったより遅かった。
「そして俺も」
真っ赤なてのひら。
それを一心不乱に写し取る怜次はまるで、生き血を啜らないと生きられない吸血鬼さながらだった。
みるみる形作られていく自分のてのひら。手首から切り取られてそこに置かれたかのように錯覚する。衝動にまかせた行為だったが、じわじわと不安になってきた。鉛筆がなぞるところを見ていると、本当に肌をなぞられたように感じてくる。てのひらが熱い。傷ついているから当然か? いや、違う。不安でもない、痛みでもない。これは、そう、快感だ。血が固まってもなおじわじわと、流れ出てくるような。
自分は今まで彼のことを、何もわかっちゃいなかったのだ。
不意に怜次が、てのひらの中心に円を描き始めた。釘だ。途端にそれは、単に傷を負った手ではなく、磔された手へと変わる。手が動かない。あれは絵の中のことなのに。恐怖が迫り上がってくる。でもその恐怖すらも心地いい。
「綺麗だね」
こんなに気味悪く響く言葉を、今まで知らなかった。せめて心の中までは写し取られまいと、賢明に全身に力を入れた。
「今まで見た人間の手の中で一番綺麗」
その夜、久しぶりに自慰をした。
血にまみれた左手と。精液にまみれた右手。
まったく、趣味が悪すぎる。
手を洗いに行ったところで、廊下の窓際に佇んでいる怜次を見つけてどきりとする。やましい気持ちを見透かされているんじゃないか。
しかし怜次の視線は、窓の外に注がれていた。
「夜紘も見に来たの?」
「え?」
「ほら、月」
空には、不気味に真っ赤に染まった月が浮かんでいた。
「そういえば今日は月蝕だったか。地球を回り込んだ太陽の光が月を照らすから。青い光は散乱するけど、赤い光は波長が長いからこんな風に赤く見えるんだ」
「知識って諸刃の剣だね。情緒を失う」
「何だ。血で赤く染まっているとでも思っていたか」
「何かを訴えたがっているように見えない?」
「何を」
「そうだな。ついていたお餅が赤くなっちゃってどうしようって、ウサギさんが」
やっぱりバレているんじゃないだろうか。無意識のうちに右手をぎゅっと握りしめていた。
「っていうのは冗談だけど。あんなに綺麗なのに皆見向きもしないもんだから。夜に。この夜に対して、切り裂いてやりたくなるような思いを抱えているような気がするな」
不思議な共犯関係は続いた。
共犯といっても、第三者に悪意をぶつけるわけじゃない。自分たちの間だけで完結する関係。互いに抑えきれなくなった膿のようなものを擦りつけ合うような関係。不自然に傷が増えたらメディカルチェックで目をつけられてしまう。大袈裟なことを控えるようになってから、怜次の視線はより粘着性を増した。授業中、隣の席の怜次が不意に手を伸ばしてきて、何をするのかと思ったら、薬指にできたささくれをめくってきた。どうにかしている。でも、そんなことでいちいち感じてしまう自分の方が、もっとどうにかしていた。
冬になると乾燥がひどくなる。唇の皮がめくれたのは果たして、めくれた、のか、めくった、のか、もはやよくわからない。
「美味しそう」
本当に純粋に美味しい食べ物に口をつけるみたいに、怜次が唇を近づけてきた。
舐めとられ、しゃぶられる。
自分ひとりだけ昂ぶることほど情けないものはない。けれどもう誤魔化すことができなかった。舌を絡め、自分のものを押しつけるように、怜次を押し倒していた。
先のことはまったく考えていなかった。
一瞬の迷いを、怜次の鋭い視線が突いた。
「夜紘」
夜紘の唾液がついた唇を拭おうともせずに怜次は言った。
「夜紘、ごめんねえ。俺はね、『自分が作ったもの』にしか欲情しないんだ」
互いに進路が決まり、島で過ごすのもあと僅かという日。キャンプファイヤーの火が暮れかかった空を舐めているのを、肩を揺らしながら歌う同級生越しにぼんやり見ていた。横並びにいた怜次も、夜紘と同じように体育座りをして、微動だにせず、ひとことも発しなかった。怜次が何を考えているかは、手に取るようにわかった。
「俺が火だるまになったら夜紘、俺のこと描いてくれる?」
「俺の芸術的才能が壊滅的なのを知ってるくせに」
「心の中だけでいいよ」
「情緒も感性も壊滅的なの知ってるだろ」
表面を滑る言葉とは裏腹に、重りのようなものがひとつ、またひとつと投げ込まれていくようだった。いや、どちらかというと、どんな穏やかな川でも一点に留まりつづけることはできない、逆らえない流れがあるのだと思い知らされるように、川に一枚、また一枚と落ちていく枯れ葉の行方を眺めているのに近いのかもしれなかった。もう二度と、こうして怜次と時間を共有することはない。他人事のように別れを察した。
自分は、選ばれなかったのだ。
初めからずっと、そうだった。
親にも、一番近しいと感じていた怜次からも、選ばれなかった。
孤独が嫌なわけじゃない。
群れるのはむしろお断りだ。
それでも誰かに選ばれたかった。ひとりでもいい。いやむしろひとりに。誰かひとりに、選ばれたかった。
殺されてもいい。無差別でなく、自分を選んで殺してくれるのだとしたら、それでよかった。
教授との関係はおそらく研究室内に知れ渡っているだろう。それでいい。見返りもないのに利用されている馬鹿だと思われているだろう。それでいい。むしろ骨の髄までしゃぶりつくしてほしい。深海夜紘としての功績が失われることなんて別に何とも思っちゃいない。自分なんてどうでもいい。自分が考えつくようなことは、どうせいずれ他の誰かも考えつくようなことだから。しゃぶり尽くされて空っぽになって死にたいんだ。
ああそうか。
バラバラにしたいのは他でもない、自分自身だったんだ。
そんなことに今さら気づくなんて。
奥の奥まで突かれて、のけぞる。奥の奥まで、全部ふれてほしい。自分の身体で、教授がふれていない部分がなくなればいいなと思う。いずれ腹をかっさばいて、骨も血肉も臓器もすべて。教授に遊ばれるパズルのピースになりたいんだ。
あいにくだな、怜次。
火だるまになって朽ちるのは、きっと俺の方が先だ。