執筆:八束さん
何でそんな話題になったのかは覚えていない。
ゼミに入れる学生を選ぶ際のグループディスカッション。
選ぶ、と言っても、定員オーバーするような人気ゼミでない限りは、ほぼすべての学生が希望したゼミに入れることになっている。もちろん自分のゼミも人気ゼミとは程遠い。だからそれはほとんど顔合わせのようなものだった。
トロッコ列車の問題。
線路上を走るトロッコ列車が制御不能になり、そのまま進むと線路にいた五人の作業員が死ぬ。五人を救うためにポイントを切り替えると、別の進路にいた一人の作業員が確実に死ぬ。その状況下で、ポイントを切り替えられる人物(自分)はどう行動すべきかを問うという、よく知られた思考実験だ。
何もせずに五人を見殺しにして一人を救うか、一人を犠牲にして五人を救うか。五人を救うために一人を犠牲にすることは許されるのか。功利主義に基づくなら一人を犠牲にすべきだがしかし……とおきまりの議論が展開されかけたとき。
まだひとり、声を発していない学生がいることに気がついた。
ずっと下を向いていた彼は当てられてようやく顔を上げたが、
「どうして」
しかし誰とも目を合わさないままに、こう言った。
「どうして殺すのは一人の方って前提で話が進んでいるんですかね」
彼の声は、動いているその口からは発せられていないような、妙な浮遊感があった。
「僕だったら『すすんで』五人の方を殺しますけど」
ゼミ室は水を打ったように静まり返った。
ただでさえディベートするのが苦手な学生達。この状況を打破できるのは自分しかいなかった。努めて穏やかに。『理解ある』教授のフリをするのは悪くない。
「今までにない意見だね。どうしてそう考えたんだい?」
「だって五人を生かしたら、くだらない議論を吹っかける奴が必ず一人は出てくるに決まってるんです。そう、今のように。一人を殺すことはかまわないのか、罪悪感は感じないのか。挙げ句、そんなことまでして助けてなんてほしくなかった……なんて。でも助けたのが一人だけだとしたら。その一人は感謝し、畏怖し、きっと生涯、自分に忠誠を誓ってくれるでしょうね。もし刃向かってきたとしても、一対一ならどうとでもなりますよ」
人間なんて少なければ少ないほどいいんだ、という彼の呟きは、チャイムにかき消された。いや、そこにいた皆、聞こえないフリをした。
翌週、彼がやって来るかどうかは賭けだった。
たとえ来なかったとしてもどうということはなかったが、だがしかし、一度見つけた目新しいおもちゃを手放すのは惜しかった。
誰もいないゼミ室で煙草を吹かしていると、始業のチャイムの音が消えかかった頃にようやく彼がやって来た。
彼の視線が部屋全体を舐め、そして自分に固定されたのがわかる。
「さあ、ゼミを始めようか」
「でも、まだ誰も」
「合格したのは君だけだよ。あとは皆不合格だ」
ふうん、こういう目もできるんじゃないかと思いながら、煙草を灰皿に押しつける。
「『生かされた』ひとりになった気分はどうだい? 深海夜紘君」
研究室のソファで彼が熟睡している。毛布の代わりにしては心許ない、白衣だけを掛けた格好で。
日がすっかり落ちてしまった。
作業を中断させ、彼の肩を揺する。うっすらと瞼をひらく、夢うつつにいるようなこのときが一番、彼に人間味を感じるから不思議だ。
「おはよう、夜だよ」
「……僕の耳がバグってるんですかね。おはよう、の後に続くのは朝だと思うんですけど」
「でも実際夜だからねえ。まったく君は深刻に夜型だね」
「だから教授のゼミを選んだんですよ。四限だったから。一限なんて絶対無理」
「四限の時刻ですら間に合ってないよ」
「じゃあ夜に開講してください。どうせ僕ひとりだけなんだから」
「深夜手当を払ってくれるならね」
「十時までには終わるでしょう」
「終わっていいのか」
言葉遊びを拒むように彼が唇を近づけてくる。応えるためにソファに身体を沈ませると、ぎりぎりの状態で引っかかっていた白衣がパサリと床に落ちる。壁にかかっている時計。今までだってちゃんと動いていたはずなのに、今になってようやく動き出したかのように音が聞こえる。
「間違いなく君は今までで一番コストがかかっている学生だ」
「でもあなたは、出来損ないの学生を見返りもなしに引き取るようなお人好しじゃない」
ゆるゆるとキスをし、手を這わせる。これは前戯だろうか、後戯だろうか。朝でもない夜でもない、活動するとも休むとも定まらない、中途半端な時間を持て余しているような。解けそうで解けない公式を前に、しかし不思議と凪いだ気持ちで鉛筆を削っているような。
「教授、どうして僕を選んでくれたんですか」
彼の身体をなぞる自分の手の動きに僅かばかりの法則性を見出しかけたとき、すっと彼に手を取られた。意図がわからなかったが、そのままにしておいてやる。
「皆から回収したレポート用紙をなくしてしまってね。唯一見つけられたのが君のだけだったから」
「つまらない」
「『早く起きられないから四限のゼミを選んだ』と同じくらいのレベルに設定したつもりだけど」
「僕は何も設定なんてしちゃいないですよ。教授のゼミを選んだのは本当に遅い時間だったから。でも、選び続けようと思った理由は違います」
「それは気になるな。君だって、畏怖して忠誠を誓わなければならないような相手の傍に、黙って居続けるようなガラじゃない」
「確かめたかったんです」
「何を」
「教授の嘘を」
「嘘なんてついちゃいない」
「僕は殺されたんでしょう」
手を首元に誘導される。あえて力を込めずにいると、彼は唇の端を吊り上げて笑った。
「一対一で向かい合ったときにわかったんです。僕は生かされたんじゃない。殺されたんだって。でも、他の五人を救うためじゃない。あなたは『殺したいから』殺した。違いますか」
問いかけておきながら、答えを期待してはいないのが……いや、どんな答えを言ったところで、跳ね返してやろうと構えているのが透けて見えた。
「そうだと言ったら?」
「満点です。僕は殺されたかった。このひとの傍にいれば生きながら死ねる。ずっと望んでいた夢が叶った。最高じゃないですか」
小賢しい子どもが、大人を戸惑わせようと逆張りの回答をするのとは違う。彼は本心からそう思って言っているのだ。
自由に生きろと羽ばたかせられたところで、彼にとっては不自由でしかない。ならばいっそ進んで不自由になりたい。そんなところか。
キスをしながら中心を緩く扱き上げる。生きたいと言われたら殺したくなるし、死にたいと言われたら身体中の臓器すべて取っ替えてでも生かし続けてやりたくなる。そんな自分の本性まで彼は見透かしているのだろうか。生かさず殺さずな愛撫を続けていると、瀕死の重傷を負った小鳥を何もせずにただ観察しているだけのような気がしてくる。太腿を痙攣させながら、しかし彼は喉の奥で笑ってみせた。
「やっぱりあなたは嘘つきだ。いや、嘘を利用するのが上手いですね」
「死にたいと望むような人間が、そんなにごちゃごちゃと思い巡らせるんじゃないよ」
「知ってるんですよ。あなたは他の学生を落としたんじゃない。全員が希望を取り下げたんだ。僕と一緒のゼミにはなりたくないって」
強く扱き上げると、狭いソファの上で彼は激しく身をよじらせた。イく寸前で手を止めてやる。脚が跳ね、ローテーブルの上に載っていたプリントの山が床に落ちる。
「おあずけですか」
「君が何を期待しているのかわからなくなった。わからないから与えてあげることもできない」
しかしちっとも落胆した表情を見せずに、散らばったプリントを指して言った。
「そこの……そう、一番奥に落ちたやつです。それの三段落目の実験データ。数字間違ってますよ」
パッと見ただけではわからなかった。初めに戻って検証すれば、確かに彼の言うとおりだ。
「よかったですね。明日までだったらまだ修正ききますよね。早くやってください。重要な論文を差し置いて自分の指導をしてほしいなんて、そんな僕、物分かりの悪い学生じゃありませんから」
困った。どうやら自分は動揺していたようだ。
彼の精液で濡れたままの手で貴重な資料をさわっていたことに、滲んだインクを見てようやく気づいた。