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結界


執筆:八束さん

 

 

 

 螺旋階段を下っている。
 一歩、二歩、三歩……進めば進むほど、光が強くなっていく。弾き返されそうなほど強い光に歩みを進めるのがむしろ恐ろしく感じられたそのとき、一番下へと辿り着いた。
 がらんどうとした白い部屋。中央に置かれた椅子。こちらに背を向けるように誰か座っている。
「ヤヒロ」
 呼びかけるより先に、呼びかけられた。目が合う。それでも何故か、彼が確かにここにいる、という実感が持てなかった。
「ヒロトさん」
 彼が微笑んだのを見て、じわじわと実感がこみ上げてくる。
「ヒロトさん……ヒロトさん、ヒロトさんっ!」
 たまらず駆け寄り、抱きついていた。
 ヒロトさんの目に映る自分はひどく子どもっぽい顔をしていて、それを隠すようにくちづけていた。
「んっ、ん、んんっ」
 少しかさついた唇、宥めるようにゆったりとした舌の動き、熱、におい。ヒロトさんだ。確かにここにいるのはヒロトさんだ。その確信を補強するように、背中に回された腕の力が強くなる。もっと。もっと強く抱きしめてほしい。背骨が軋むほど強く抱きしめてほしい。ヒロトさんの手の熱で溶かされて、形をなくして、べったりとくっついてしまいたい。
「ヒロトさん、もう、離れたくない」
「もう? 今までだってずっと一緒にいたじゃないか」
「嘘。ヒロトさんは嘘ばっかり言う」
 優しい顔をして大丈夫と言って、次の瞬間には火だるまになっている。彼はそういうひとなのだ。
「嘘じゃない。私はずっとここにいた。離れていってしまうのは君の方だよ、ヤヒロ。ここにいる限り、私たちはずっと一緒にいられる。ここにいる限り」
 唇にそっと、ヒロトさんの指が宛がわれる。返事をするようにそれにしゃぶりつく。根元まで深く。舌を絡めて。吐息を絡めて。時に爪先を強く吸い上げて。ヒロトさんの手の甲を伝って手首まで唾液が垂れ落ちていくのが視界の端に映る。ヒロトさんが優しく頭を撫でてくれる。それだけで身体の奥がジンと痺れる。そういえば昔からずっと、こうやってヒロトさんをねだっていたような気がする。ぐちゃぐちゃに濡れたヒロトさんの指。それにも増して自分の前はぐちゃぐちゃで酷いことになっている。隠すように、知らず知らず体勢が前のめりになる。でもこれは逆に、ねだっているように映るのかもしれない。
 ヒロトさんの指が後ろに宛がわれる。それだけでイったときのような声を漏らしてしまう。
「ぁあっ、ヒロトさ、あ、あ……
「すごい、熱いね、ヤヒロ」
 そんな耳元で囁かないで欲しい。卑しく反応して、きゅう、とナカを締めつけてしまう。様子を見るように、ヒロトさんの指の動きが止まる。ダメだ。こんなところで音を上げていては。もっと大きい、ヒロトさんのものが欲しいのに。もっともっと、ヒロトさんが欲しいのに。
 ヒロトさんの指の動きに合わせて腰が揺れる。ナカを押し広げるように指を動かされた瞬間、軽くイってしまった。自分の前から溢れ出たものがヒロトさんのシャツをよごす。
「ヒロトさん、もう……ヒロトさんが欲しい」
 今にも泣き出しそうな顔になっているのを自覚できる。けれどヒロトさんはゆったりとした微笑みを崩さない。
「いいよ、あげる。ヤヒロに全部あげる。だからヤヒロも全部頂戴?」
「ふあっ……ああっ」
 ヒロトさんのものが入ってくる。ヒロトさんでいっぱいになる。身体の中から、頭の中まで。ヒロトさんで埋めつくされる。ああ、これさえあればいい。これが幸せ。他には何もいらない。だから、
「ここにいる? ヤヒロ。ずっとここにいれば、ずっと一緒にいられるよ。他の何もかもを捨てられる?」
 ヒロトさんが何故そんなことをわざわざ問うのかわからない。ヒロトさん以外に欲しいものなんてない。逆にヒロトさんがいなかったら、何もないのも、死んでいるのも同然だ。
「もうずっとこうしていたい、ずっとヒロトさんと結ばれていたい!」
 ヒロトさんの首根っこにしがみつく。自分から腰を振っているのか、揺らされているのか、よくわからない。視界がぼやける。仰け反って、神に捧げる歌でも歌うときのような心境で声帯を震わせる。またキスをする。すべてがヒロトさんで満たされていく。
「ヒロトさん……ヒロトさんっ!」
 ずっと緩くイき続けているから、絶頂というものがどんなものか忘れてしまった。でも別にいい。だって昇りつめたら必ず下らなきゃいけないじゃないか。それならずっと、互いの境界がわからなくなるような快感の海を漂っていたい。ぐちゃぐちゃいう音が寄せては返す波の音のようにも聞こえてくる。
「ヒロトさんっ、好き、ヒロトさん」
「好きだよ、ヤヒロ」
 好き、好き、とそれしか言葉をインプットされていないロボットのように繰り返しながら、そういえば何故、いつ、このひとのことを好きになったのだろうと、ひやりと思う。このひとのことを好きになるきっかけは一体何だったのだろう。どうして、いつからこのひとのことが好きなんだろう。顔も、声も、性格も、立ち居振る舞いも、全部、自分が求めていた、自分の中にある凹みにぴったり嵌まるような存在。こんなひとがいるだなんて。こんな奇跡が起こっていいのだろうか。世の恋人たちはこんな劇的な出会いを皆、果たしているのだろうか。
「ヤヒロ」
「ひっ、あんっ」
 乳首をきゅっと摘ままれる。そんなことをされるともう、自分の考えていたことなどすぐにどうでもよくなる。
「ヤヒロはここも好きだね」
「好き……ううん、ヒロトさんにさわってもらえるならどこでも気持ちいい」
 そうだ。この気持ちは本当だ。ヒロトさんにふれられて気持ちいいと思う、ヒロトさんに微笑まれて嬉しいと思う、この気持ちに嘘はつけない。
 ヒロトさんの手が胸を、脇腹を、首筋を、背中を、そしてだらだら涎を零しているペニスを這う。自分もヒロトさんのものにふれたいと焦れて、とっくに後ろの穴で咥え込んでいることに今さらながら気づいておかしい。
 ヒロトさんの手の動きが速くなる。
「あっ、あっ、ヒロトさっ、イくっ、イくっ、イっちゃうー!」
 息が苦しい。目の前が真っ白になる。痙攣しているのは自分なのかヒロトさんなのか、その境目もよくわからない。
 ナカにどくどくと注がれたのを感じる。ヒロトさんを感じる。熱が引くのが惜しくて、ナカが疼く。もっともっとと求めれば求めるほど、だらだらと液体が溢れ出ていってしまう。ヒロトさんのものを一滴たりとも零したくはないのに。
 頭を撫でながらヒロトさんがキスしてくれる。媚薬を流し込まれたみたいにぼーっとしてしまうけれど、これは終わりのキスだ。わかる。始まりのキスがあるように。終わりもこんな風にさりげなく、すっとヒロトさんはいなくなってしまう。そんな予感がする。
「やだ、ヒロトさん、ずっとこのままでいて」
 ぎゅうっとしがみつく。
「いるよ、ヤヒロ、ずっと一緒。だから約束して。もう二度とここから出たりしないって」
「ヒロトさん」
「約束できるよね? ヤヒロはいい子だもんね」
「うん、ヒロトさん、約束する。もう二度とここから出たりしない」
「絶対?」
「うん、絶対、絶対出ないよ。何があってもヒロトさんと一緒にいる」
「そう、ヤヒロは本当に……

「本当にいい子」
 動いていたバイブを止めると、彼は電池の切れた人形のように動かなくなった。人形のよう、というか、もう人形なのだ。ヒロトと違って身体は生身の肉体だけれども、心はもう、フカミヤヒロとしての形を失っている。
 でも彼にとってはこれが最良の世界なのかもしれない。ここにいる限り彼はずっと、思い人と幸せに浸り続けることができる。偽りの幸せであっても。
「似てない」
 バイブを咥え込んだままぐったりと力尽きたヤヒロを、ナオコは表情ひとつ変えず見下ろす。
「やっぱりヤヨイさんとは似てないわ」
 壁や床に張り巡らされたコードをかき分けるように行く。ヒールの音がコツコツと響く。
「まさか自分からまた『この』実験室に戻ってくるなんてね。あの頃あんなに嫌がっていた……自分から逃げ出した部屋に自ら」
 夫の長きにわたる実験が成功したとみてよいのだろうか。一度檻から出た実験動物が、果たしてもう一度檻の中に戻ることがあるのかどうか。
 ドアをあけたとき、スッと足元に影がよぎった。猫だ。北斗七星のような模様が背中にあったが、『手術』のあと何故か星がひとつ増えていた。もしかしたら『彼女』の意思の表れか。それもあり得ると思わせてくれる意思の強さが、彼女にはあった。
「心配しなくていいわよ」
 返事をするように、にゃあ、と鳴き声がする。
「あなたも彼も、一番幸せな形に変えてあげたんだから」
 見ると猫は、ヤヒロの足元で丸くなっている。
 その様子を見届けながら、重い鉄の扉を閉め、鍵を掛ける。

「今日くらいはいいでしょう。親子水入らず、ゆっくりすればいいわ」