執筆:七賀
宵と外の話をしてから、じっとしているのがますます苦痛になってしまった。せめて以前のように学校へ行きたい。退屈な授業も今なら喜んで受けて、最後まで真面目に話を聴く自信がある。
イオは島に来る前から何もしない生活を送っていたので、今さらこんなことに悩むとは思っていなかった。自分以外の人間が近くにいると謎の焦燥感に駆られるらしい。なにかしなくては、このままではいけない、という使命感に襲われる。
何故か尚登も教授もしばらく会いに来ない。まさか自分達の存在を忘れてしまったんだろうか。
ないと信じてるけど、優先度が下がった可能性は充分ある。イオや宵が霞んでしまうほど大きな事態が組織内で起きているのでは……。
「イオ、見ろ。深海魚って卑猥な形したやつ多いぞ!」
しかしこちらの心配をよそに、宵は真剣な顔つきで深海魚図鑑を広げている。これこそ深海と南国並の温度差だ。
多少の苛立ちはあるが、宵は今のナオトをイオと呼ぶ。それだけで百点をやりたい。宵は恐らくヨミよりは頭が回り、また行動力がある。
そうだ、これは最初で最後のチャンスだ。
「宵。俺とお前が表に入れ替わったことで、また実験が保留になってるのかもしれない」
「へ?
あ~、うん。むしろそれしかないだろうね」
宵はまるで男性器のような形をした深海魚のシルエットを指でなぞる。そしてこちらも見ないまま笑った。
「ブレブレの器じゃ実験の成功率が低いままなんだよ。あと実行に移せない理由があるとすれば、外部から邪魔が入ってるか」
「……俺は後者だと思う。今教授達は他のことで手一杯なんだ」
すくっと立ち上がり、ベッドの上に飛び乗る。それから小さな虫かごほどの窓を覗いた。
「やるなら今かも」
「やる?」
「脱走」
だっ……と声をもらし、宵はようやく目を見開いた。
「イオ、島から逃げたかったの?」
「違うよバカ。お前が海を見てみたいって言うから……」
船もないし、本当にこの島から出られるはずがない。逃げたところで生きる術もない。ハナからそんな希望は抱いてなかった。でも。
「こそっと抜け出して、海を見るぐらいならできるかもしれないだろ。真夜中じゃ暗くて何も見えないだろうから、夜明け前にやればいい」
「……見つかったらタダじゃすまないと思うよ。それにイオを付き合わせるのは、あんまり気が乗らないかな~」
「何だよそれ。弟に見せてやりたいって言ってたろ。その程度の気持ちなのかよ」
振り返り、思わず壁を叩いた。見張りに気付かれると面倒だからかなり手加減したけど。
宵がヨミを大事に思ってることは、本当に何となくだけど分かっていた。
「お前は俺らの心配なんかする必要ないんだよ。多分そんな簡単に殺したりしないだろうし」
「物騒なこと言うなぁ。……でも、俺は何かあった時に責任とれないよ? きっと、イオを守れない」
「守ってもらわなくて結構だよ」
わざと冷たく言い返すと、彼は肩を揺らして笑った。
全然怒らないし、気さくだし、普通の生活を送っていればどこでも上手くやれそうな奴だ。自分とは違うところが羨ましく、そして勿体ないと思う。
こんな場所で、誰にも気付かず消えてほしくない。
「オーケー。でも、ちょっとでもやばいと思ったらすぐやめる。でいいかな?」
「うん。……問題はこの部屋か」
部屋から出ることができればすぐに中庭へ行けるのだが、食事や実験の為の移動以外は常に施錠されている。夜の消灯から朝食までの長い時間、二人は闇に埋もれるしかなくなる。
「無理やりぶっ壊したら」
「次の日にばれるだろ」
それから数日脱走について会議したものの、良い案は生まれなかった。ただ中庭へ出た際は必ず外へ続くルートを探し、カメラがついてそうな場所を確認した。
赤い紐をたまたま落ちていたので、壁の配管に括りつけた。夜中は位置を見失う可能性もある。これを目印にすれば目的の屋根へ上れる。あとは鍵だけなんだけどな。
昼間は見張りをしている職員が多いし、さすがの俺も行動に出ようとは思わない。
見つかった時になにかされるのは多分俺じゃなくて、……の方だから。
「うんともすんとも言わないね」
ある夜更け、寝る直前に宵は背伸びした。脱走の件ではなく、恐らく実験のことだろう。
「何の動きもなく毎日餌だけ与えられてる。嵐の前の静けさみたいで嫌だな」
「ま、実験動物ってみんなそんな感じなんだろな」
訳が分からぬままゲージに入れられ、暗い部屋の中に押し込められる。やっと外へ出してもらえたと思ったら実験台へ運ばれ、注射を打たれる。
命を何だと思ってるんだろう。……いや、でもその実験のおかげで助かる命がある。たくさんの命を犠牲にしたからこそ医療は飛躍的に進歩した。目的の為なら何も厭わない残酷な心があったから、人間は生物の頂点に立った。
なら教授みたいに残酷さを極めた人間がのし上がるのも当然だな。皮肉に考えて思わず笑った。
「イオ。俺も今日隣で寝ていい?」
「何だよ、気持ち悪い」
しかも答える前に布団の中に潜り混んできた。宵がこんなことをしてきたのは初めてで、つい狼狽える。
「何かさ……時間が惜しくなって」
宵は枕半分を奪い取り、瞼を閉じた。
「俺ら元々母親がいたんだけど、ホストにハマって借金いっぱいしてたんだ。借金取りが家に来るのが日常だった。家にいることがバレたら困るから学校に行かないように言われてね。でも俺は反抗期だったから外に遊びに行ってたけど」
唐突な身の上話が始まり、寝ようとしていた頭が一気に回転した。こっちは目を覚ましたというのに、宵は目を瞑ったままだ。
「あいつおっとりしてるし、母さんが酒の飲み過ぎて死んだ時も全然反応しなかったんだ。後は死ぬだけみたいな顔してるのが嫌で、二人で家を出たんだよ。生きる為に盗んだり変態に体を売ったり、何でもした。……そこでたまたま拾ってくれた人についていったら、いつの間にか一つになってた」
「拾ってくれた人?」
「うん。あまり覚えてないけど、組織のおじさん。最初は良くしてくれた。何でも買ってくれたし、食べさせてくれたし。だから俺も言っちゃったんだよね。何でもする、って」
宵は深いため息をついた。
「ヨミは最初から何も言わなかったよ。逃げたいとかお腹空いたとか、組織の人間と一切口をきかなかった。俺だけがたくさん要求して、恩返ししようとした。ヨミを巻き込んだことが一番後悔してる。俺は死んでもいいけど、あいつには生きててほしいんだ。記憶を全部なくしてるみたいだけど、俺を殺す権利がある」
「……」
どう返せばいいか分からず、口を噤む。それに気付いた宵が瞼を開け、唇に指を当ててきた。
「重い話してごめん。イオはそれを知る権利があると思って話したんだけど、もう忘れて」
「忘れられるわけないだろ? 勝手だな」
ごめんごめん、と彼は可笑しそうに笑った。心の底では全然悪いと思ってなさそうだ。
「……ヨミは、多分お前のこと憎んでないよ。例え記憶が全部戻ったとしても、今まで通りふらふら生きてそう。ちょっとしか話してないけど、案外誰かといるのが好きなんじゃないか」
宵の手をどかし、横たわりながら彼の顔を見返した。宵の瞳は飴のような色をしていて、綺麗で美味しそうだった。
「イオは良い奴だなあ」
少し冗談ぽく笑い、宵は再び瞼を閉じた。
「ありがと。今度はイオの話聞かせてよ……」
しばらくして、微かな寝息が聞こえてきた。本当はかなり眠かったようだ。
良い奴は彼の方だ。昔は過ちを犯してしまったとしても、今は心の底から後悔をしている。弟の為にやりたいことがある。
“俺達”もそうなりたかった。
宵の寝顔を眺めながら布団を被る。眠りの波に攫われかけた時、部屋の前で靴音が鳴った。
誰だ……?
鼓動が速まり、反射的に寝たふりをする。布団の中で宵の手を握った時、鍵が開く音がした。
扉が開いた。誰かが部屋に入ってくる。
イオは瞼を伏せたまま、できる限り規則的な寝息を立てた。
部屋に侵入してきた人物は扉の前で一旦止まり、イオと宵が寝ているベッドの前まで歩いてきた。
一体誰だろう。研究室の人間なら宵になにかする可能性がある。呑気に寝ているふりはできない。
鼓動が速くなり、音と空気に神経を研ぎ澄ました。もしこの人物が宵に手を出そうとしたら、その瞬間に蹴り飛ばしてやる。
近くに武器になりそうなものがあったかどうか思い出しながら、相手の出方を待った。ところがいくら耳を澄ませても聞こえてくるのは宵の寝息だけ。
やがて靴音は遠のき、静かに廊下の方へ消えていった。行きよりもずっと小さな音で、集中していないと聞き取れないほどだった。
……行ったか。
せいぜい三、四分ぐらいの時間だろうけど、すごく長く感じた。額から大量に汗が伝い、襟までぬらしていた。
しかしいつもは互いに別々のベッドで寝てるというのにタイミングの悪い相手だ。宵とべったりくっついて寝てるところを見られた。いや、恥ずかしいわけじゃないけど……何かやだな。
ゆっくり起き上がり、改めて扉の方を見る。その時あることに気付き、隣で寝ている宵の頬を思いきりはたいた。
「いったーい! な、何?」
「起きろ!
人が覚悟決めてる時にぐーぐー寝やがって!」
熟睡していた宵の襟を掴み、強引に叩き起した。彼は何が起きたのか分からず、周りをきょろきょろと見渡す。
「何だよぅ。トイレにひとりで行けないとかだったら、さすがの俺も怒るぞ」
もう一発目覚めのビンタを入れたいと思ったけど、ぐっと堪えて扉の方を指さした。
「扉が開いてる」
「えぇっ?」
宵は布団を蹴り上げ、軽快に扉まで駆け寄った。扉は中途半端に開いた状態で、簡単に外へ出られるようになっている。
「どうして。誰が……」
「分かんない。俺達が寝てる間に誰か入ってきてさ。ちょっとしたら出ていったんだけど、開けっ放しだったんだ」
本当は薄目を開けて姿を確認したかったが、そんなことをする余裕はなかった。全力で寝たふりをしなければいけないぐらい、見えない圧を肌で感じていたから。
唾を飲み込み、佇む宵に問いかけた。
「どうする。出て行く?」
「でも……罠かもしれない」
寝起きのわりに宵は冷静で、イオを制するように片手で道を塞いだ。
「リスクを冒して俺達を外へ逃がして、何の得がある? この島に味方なんていないのに」
イオ自身同じことを思った。だがこの機を逃していいのだろうか。
明日の朝、最終実験が行われる可能性だってあるんだ。そしたら宵は……!
「逃げよう!」
「わっ……イオ!」
一分一秒も無駄にはできない。靴だけ持って宵の手を引いた。非常灯の赤と緑だけを頼りにひたすら走り、中庭へ出る。以前用意したロープ代わりの紐を使い、無事に屋根の上へのぼった。
ここまでは予定通り。後は向こう側に下りられたら……。
「もう後戻りはできない」
宵は谷底のように真っ暗な屋根下を見つめ、無表情で呟いた。自身に言い聞かせてるのか、イオに忠告してるのか分からない声音だった。
どちらにしてもくどくて、足場を確認しながら舌打ちした。
「しつこい。分かりきったこと何度も言うなよ。この根性なし」
「だって俺はイオを危険な目に合わせたくないし」
「そりゃどうも。でも俺は勝手に行くけど」
宵の為ではなく、ヨミの為だ。ヨミに海を見せてやる為。
でも……そういえば何で、ヨミの為にそこまでしたいと思ったんだろう。ヨミはナオと仲が良いけど、俺はナオが嫌いだし。嫌いなカップルじゃん。
「イオ」
紐を外庭へ向けて垂らした時、不意に襟を掴まれた。
危ないからやめろと言いたかったけど、無理やり唇を塞がれて思考が止まる。
「んっ……う」
キスに嫌悪も羞恥もない。むしろほっとしている。時間や場所のことも忘れ、ずっとこうしていたい。
微睡みそうな時間の中でうっすら理解した。宵が好きだ。だから彼の大事な弟を喜ばせたいんだ。
ナオと分離できなくてもいい。こんな施設から抜け出して、ただ宵と笑いたい。
「……行こ」
口元を隠して向こうを指さすと、宵は笑って頷いた。
物音を立てないよう慎重に足をかけ、壁の向こう側へ降り立った。森の中は明かりがないと何も見えなくて、洞窟の中にいるのとさして変わらない。
一歩ごとに足元の木枝が折れる音がするから、静かに進むことは不可能だ。それでも宵が傍にいてくれるから、怯まずに前だけ見ることができた。
実験動物に戻ることが一番恐ろしかったのに……今のナオを自分が見たら何て言うだろう。
考えるだけアホらしくて、思考は閉ざして足を動かした。時々泥濘にはまったり枝に引っかかって転んだり、それなりに大きな音を立ててしまうこともあったけど、人の気配を感じることは一度もなかった。
「そういやこの島、熊とか猪はいないよな? もし会ったら死ぬぞ」
「聞いたことないけど。昔、誰かが人工島なんじゃないかって言ってたなぁ。それなら大きな野生動物はいないんじゃない?」
能天気だけど、あまり悪いことは考えたくない。疲労で歩くペースも落ちているので、漠然と楽しいことだけを考えた。
「宵。普通の生活に戻れたら、なにかやりたいことないの」
「ううん。強いて言うなら普通になることかな。どこにでもいる、普通の人間になりたい」
視界が上下左右に揺れる。いや、単に自分が揺れているだけだ。
息する度に脇腹が痛んで、自然と顔が上に向くようになった。まるでゾンビみたいだな、と内心可笑しくなる。
「イオは?」
一歩遅れながら宵が尋ねる。自分で質問しておきながら何のことか分からず、一瞬呆けた。
あぁ、やばいな……もう全然頭働かない。
何時間も足場の悪い森を歩き続けた為、心より体に限界がきていた。それは宵も同じはずだけど、彼は一言も弱音を吐かなかった。
意外と体力あるし、根性もあるよ……宵。
「イオ、あそこ見て!」
「うん?」
計画を立てた手前、もう歩けないとは言えず葛藤していた。けど宵の指さした方を見て、思わず歓喜の声を上げる。
木々の隙間から光が差し込み、初めて歩きやすそうな道を照らしてくれていた。
朝が近付いているだけじゃない。最後の力で緩い坂道を上り、木の影から乗り出す。そこに広がる光景を見て、ようやく報われた気がした。ここがゴールじゃないのに。
「これが……海」
隣に並んだ宵も、いつもより瞳が潤んで見える。
「この島に連れてこられた時と全然違う。真っ黒で大穴みたいだったけど……太陽と同じ金色をしてるね。不思議」
「夜明けだからな。もっと日が昇ったら空色になるよ」
今は水平線に顔を出す太陽が、海を燃やしている。宵の想像とは少し違ったかもしれないけど、ここまで来れたことに心から安堵した。
「どう? ヨミも見てる感じする?」
「うん。見てるよ。……絶対」
宵は泥だらけの袖を軽くはたき、目元を擦る。
しばらくその場に佇み、しかしまだ空が薄暗いうちに海岸へ向かった。全方位見渡しても何も見えない孤島で、泳いで逃げるという選択肢はない。
「宵、とにかくミニボートを探すぞ。俺達でも何とかなりそうなやつないか?」
「ミニボートだって何も知らずに動かしたら危険だよ。第一そんな都合よく停めてないでしょ」
海岸は見晴らしがいい。ということは遠くにいる者にも自分達の姿が丸見えになる。あまり長い時間うろうろすることはできない。
小型船なら少し離れた場所に見えるが、宵の言う通り絶対無理だろう。半ば諦めがちにため息をつくと、その船の方から誰かがやってくるのが見えた。
まずい。人がいたのか……!
岸の先端にいた為、ここが行き止まりになる。逃げるには海に飛び込む他ない。
「宵、誰か来る!」
「ふえっ!」
人影に気付いていなかった宵は青ざめ、あからさまに怯えた。
最悪だ。……けど連れ出した以上、自分が宵を守らないと。
彼を後ろにやりながら、目の前を歩いてくる相手と向き合う。その人は男性で、施設や学校でも見たことがなかった。こちらが警戒していることを察したようで、笑いながら両手を上げる。
「こんにちは。いや、おはようかな……いやいや、初めましてか!」
青年は挨拶を考えながら、改まって後ろのボートを指さした。
「すごく心配だったけど、無事に逃げ出せたみたいで良かった。じゃあ誰かに見つかる前にちゃっちゃと島から出よう!」
「えっ。ち、ちょっと……!」
男の人は自分と宵の手を掴むと、躊躇いなく歩き出した。宵と同じ珍しい銀髪だ。知らないはずの人なのに、何故か懐かしい匂いがする。
訳が分からないまま船に乗せられ、危ないからとライフジャケットをわたされた。
「でもな~、毎回タクシー呼ぶみたいに軽いノリで使われるからかなり大変だよ。君のお兄さんは本当人使いが荒いんだから……」
青年はサングラスをかけ、周りを見回しながら船のブリッジへ向かった。
「兄って……」
「まぁ、無事に帰ってからゆっくり話すよ。よろしくね、ナオト君」