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41⑻

執筆:七賀

 

 

ナオのやつ出てこないな。

 

ヨミも、まるで息絶えた貝のようにうんともすんとも言わない。聞いてもないことをぺらぺら話すのは彼の兄、宵だけだ。

起床から就寝まで五分も黙ってられない。イオが宵と同じ時間喋り続けたら喉が枯れて大変なことになるが、彼はまだまだ喋り足りなそうに絡んでくる。イオの食べ方や喋り方にも一々感想を挟むし、観察されてるようで気分が悪い。

大人からすれば彼だって実験動物だというのに、同じ檻の中で優劣がついたようだ。世話焼きなところも無駄に腹が立つ。兄なんて存在、生まれた時から望んでないのだ。

「イオ、姫毛が乱れてるよ」

「うわ! ちょ、触んな!」

まだお互いを認識してから日が浅いのに、宵は平気でスキンシップしてくる。今日は突然前髪に触れてきた。

「大体姫毛ってなんだよ!」

「顔の両側にちょっと垂れてる毛束」

宵は即答した。真顔で言うのはやめてほしい。

「俺もそれ何なのかなー、って思って尚登さんに訊いたんだよ。そしたら姫毛って言うんだって。すごく可愛いからずっとそのままでいてほしい、って言ってたよ」

余計なお世話だ。っていうか。

「お前、尚登とよく話すの」

「んーん、ヨミと入れ替わって、この前久しぶりに話したんだ。それが二……三回目かな」

腰に両手を当て、何故か得意げに答える。対するイオはナオと替わってから一度も尚登と会っておらず、妙な悔しさを覚えた。

「お前ら、随分お兄さんと歳離れてるんだな。何歳離れてんの?」

「お前に関係ないだろ!」

じっとしてるには広いけど、逃げ回るには狭い部屋。ストレスでおかしくなりそうだった。せっかくナオと入れ替わったのに、宵がうざすぎて家出したい。

二十四時間彼と一緒にいるとか地獄だ。何とかして離れられないか……

そうだ。昼間なら中庭に出ていいことになってるし、宵を置いてひとりになろう。

翌日、さっそく喋る宵を放って足早に中庭へ出た。ちょうどいいほうきを見つけ、中から戸を開けられないように立て掛ける。引き戸で良かった。ドアだったら何にもできないもんな。

「はあ~。ひとりって最高」

久しぶりに思いっきり背伸びして、空を仰いだ。清々しい気持ちに浸って見上げていたが、ふと壁に伝っている排水管に目がいく。

ちょうど足を引っ掛ける部分が所々にあって、二階の屋根に上がれそうだった。

ちょっとぐらいなら……バレないかな。

辺りを見回し、ガラス越しに職員がいないことを確認する。静かに壁に忍び寄り、排水管に手をかけた。ぎしぎしと音を立てて心許ないけど、半分以上のぼることができた。後は屋根に手がかかれば、反動で上がることができる。

「く……っ」

運動不足がたたったものの何とか上体だけ屋根の上に乗せる。イオは息切れしながら建物の向こう側を眺めた。

見慣れた森が広がり、その先に果てしなく広がる海がある。ここは逃げ場のない孤島なのだと、改めて絶望を教えてくれる。

閉じ込められている建物自体は小さく、頑張れば逃げ出すことも可能に思えた。もちろん昼夜問わず人感センサーや監視カメラが作動して、逃げだらすぐにバレてしまうけど。

捕まる前に、あの先に停められてる船に乗り込めたら……

そんな淡い希望が一瞬だけ光ったけど、外へ出ても仕方ないことを悟る。外に味方はいない。連れ戻されてもっと惨いことをされるのがオチだ。

重いため息をついた瞬間、下で音がした。

「君、何してるんだ!」

「うわあぁぁっ!」

どすの効いた怒声に心臓が止まりそうになる。ぶら下がった脚をばたつかせるうちに後ろへずり落ち、草木に落ちてしまった。全身痛くてしょうがないけど、幸い怪我はしてないんだ。

「ご、ご、ごめんなさ……

逃げようとしていたと思われたら大変な仕打ちをされる。蒼白のまま人影を見上げると、目の前の人物は腹を抱えて笑った。

「あっはっは! 落ちるとは思わなかった。イオってビビりなんだ!」

「宵!」

情けない格好で倒れるイオを見て、宵は楽しそうに手を叩く。わざと職員の真似をしたことも察し、震えるほどの怒りが湧き上がった。

「この……お前ほんとにぶっ飛ばすぞ!」

「イオが勝手に驚いたんだろ。っていうか俺に感謝してほしいなぁ。向こうの屋根から下半身がだらんと落ちてる状態でさ、見つかったら大変なことになってたよ?」

今度は可哀想なひとを見る目になり、口元を手で覆ってみせた。

「立てる? どっか擦りむいてんじゃない?」

「立てる……離せ」

全身が痛いわ宵に騙されるわ、最悪だ。戸に立て掛けたはずのほうきは倒れてるし、何の意味もなかったらしい。

「あ~、もう最悪! お前なんか大嫌い!」

「面と向かって嫌いって言えるの、良いよな」

「良くねえよ!」

どこまでも頭の螺子が緩い宵に一喝し、部屋のシャワー室に入った。シャツとズボンを脱ぎ捨て、ひとしきり全身を確認する。ふと鏡を見ると宵が映っていたので、振り返りざまに怒鳴った。

「何で入ってくるんだよ!」

「お前が落ちたのは俺のせいだからさ。一応怪我の状態見ておこうと思って」

そう言った直後、下着を脱がせてきた。

「おいおいやめろ! 手足の方が擦り傷だらけだし!」

「でもお尻も怪我してるかもじゃん。あ、大丈夫そうだな」

宵は安堵の笑顔を浮かべ、それから前に回った。ぎょっとして彼の髪を掴んだけど、まるで怯まず覗き込んでくる。

「うん、ここも怪我してないね。内腿も」

太腿を掴まれて、ぐっと脚を開かされる。後ろの秘部まで見えてしまいそうで、慌てて彼の頭を叩いた。

「どこまで見てんだよ、変態!」

「ちゃんと手足も見てるよ。汚れてるといけないから、まず洗い流そう」

イオの下着を部屋の外へ投げ、シャワーヘッドを向ける。温度を気にしてないせいで、初めは悲鳴を上げるほど熱かった。

宵は服を着たままの為、お湯が跳ねてどんどん変色してしまっている。

「服、ぬれてる」

「大丈夫大丈夫」

こっちの心配をよそに、彼は楽しそうに傷口を洗い流していった。どれも大した怪我じゃない為、お湯を当てた瞬間色が薄くなっていく。

とりあえず、捻挫や骨折をしなくて良かった。

「そーだ。知ってる? イオ。ヨミと、君のお兄さん……ナオは何回もエッチしてるって」

「エッ……

口を開けたまま固まった。

理解はできたものの、頭の中で処理しきれなかった。何で今それを言うのか分からない。宵という人間にますます拒否反応が強まる。

「最初は同意じゃなかったのかもしれないけどー、最後の方は楽しそうだったよ。俺ちょっとだけ記憶があるんだよね」

頭から首、やがて胸にシャワーヘッドを押し当てられる。足元に溜まるお湯。嫌なことを思い出しそうで、思わず目を逸らした。

「つまり……俺と君も、身体だけは繋がったことがあるってこと。不思議な感じだよね」

「だから何だってんだよ……俺はそんなの知らないし……!」

不快だ。彼が言っていることは事実だけど、繋がったのはナオとヨミ。イオと宵ではない。

宵の熱なんて知らない。手つきも匂いも、イく時の表情も何も知らない。ならセックスなんてしてないも同じだ。

「どけよ!」

一刻も早くこの場から逃げたくてドアへ向かったけど、宵は笑顔を浮かべたまま腕を掴んできた。いつもなら殴ってでも振りほどくところだけど、今は何故か恐怖を覚えている。宵が何を考えているのか分からなくて、怖い。

「そんな嫌がらないでって。俺は、どうせ死ぬなら……死ぬ前に、君と仲良くしたいって思っただけ」

「はあ? 仲良くなって……何になんだよ? 死ぬのにさ!」

宵もヨミもいずれ死ぬ。自分とナオの為に。

自分とナオのせいで、死ぬ。自分を殺す相手。憎い相手。なのに、何故彼は仲良くなりたいなんて言うのか。

自分だったらそんな思考にならないと断言できる。なんなら不慮の事故を装って殺したいぐらいだ。宵は生への執着がないのか。

分からないから、やっぱり怖い。力で勝てる気もしなくて、わざとその場に崩れ落ちた。

このまま食われる気がしたけど、意外にも彼は横を通り過ぎ、部屋へと戻ってしまった。

恐る恐る中をシャワー室を出ると、彼はてきぱきと着替えをしていた。何だろう……どういう思考回路してんだ。

何も言わず見ていると、彼はまた笑顔で振り返った。

「で、どうだった?」

「え。何が……?」

「屋根の上! 外がどうなってるか見たくて上ったんだろ?」

まさか中庭のことを気にしているとは思わず、しばらく呆けてしまった。

「えっと、……森と、ちょっと先に海が見えた」

「ふーん。イオは行きたいの?」

「さあ……お前は?」

「もちろん、行きたい」

宵は着替え終わると、目の前まで歩いてきた。

「死ぬ前にもう一回、ヨミにも海を見せてやりたいんだ。俺達ずっと汚い街の中で生きてて、海に憧れてたから。それが叶ったら、こんな身体すぐ君にあげるよ」