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決壊

執筆:八束さん

 

 

 

 いつまでもベタベタと、他人につけられた手垢が肌の上に残っている。

 かき消したくて、でも結局、自分の手でふれたところが一番気持ち悪い。

 目を閉じて行為に没頭する。

 一心不乱に扱いていると、ぐちゃぐちゃいう音が、脳みそを掻き回しているようにも思えてくる。あのひとならやってくれるんじゃないか。いや、もう既にやっているかもしれない。脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回してスープにして飲み干すくらい。比喩ではなく、そんな荒唐無稽なこともここでは平然と罷り通ってしまう。

 親指と人差し指の間に、先端から零れ落ちた液体が溜まる。透明なようにも、白く濁っているようにも、真っ黒なようにも、真っ赤なようにも見える。ぼんやりしていると固まって、皮膚に貼りついて、より気持ち悪くなることはわかっているのに、それでも何故か動くことができない。自分を慰める? これが? 鼻からふっと息が漏れる。快感で自分を傷つけているようなものじゃないか。いや、それに逃避しているのだから、それもある意味で慰める、行為なのか。

「いつからそんなに我慢がきかなくなった?」

 手首を掴んで持ち上げられる。初めは逆光でわからなかったが、その表情は少し苛立っているように見える。つい、いつもと同じような皮肉めいた笑みを浮かべてばかりいると思っていたのに。

「何を今さら。ずっとですよ。ずっと前から飢えてどうしようもないんです」

 教授は素早くゴム手袋を嵌めると、後ろの穴に指を挿入してきた。

「っ、く……!」

 突然の刺激に喉が詰まり、背中を弓なりに反らせてしまう。息を整えることすら許されず、快感を叩き込まれる。お腹が空いたと訴えた子の口にパンを無理矢理突っ込んで窒息させた……そんな虐待に似ていると思う。あれはいつ見たニュースだったか。それとも遠い自分の過去か。

「あっ、あ、あっ……

 ぐい、ぐい、と押されるたびに、ぷしゃっ、と液体が迸る。気持ちよさはないが、やはり自分で自分を傷つけるよりは、他人の手で傷つけられた方が楽だとは思う。

「めずらしいですね」

 ゴミ箱に手袋を捨てた教授の背に向けて言う。

「こんなに早くイかせてくれるなんて。案外我慢がきかなくなったのはあなたの方じゃないですか」

 教授が苛立っている理由はいくつか察することができる。実験の進捗がどうやら芳しくないらしい。ひとつに合体させるはずだった人格が、結局元通りに別れてしまった。今は二人の子どもの中に四人の人格が宿っていて、しかも面倒なことにそれぞれコミュニケーションを取り始めてしまっている。

「思いどおりにいかないことが続くと、思いどおりにいくものに縋りたくなりますよね。僕なんか打ってつけじゃないですか。あなたの思うとおりに反応させて、あなたの思うとおりにイかせることができる。こんなに都合のいい人形もないですよね」

「思うとおりか」

 教授が鼻で笑う。

「私の思うとおりにすべて運ぶなら、この世はとっくに滅びてなくちゃおかしいからな。思うとおりにいくなんて望みは遠い昔に捨てたさ。ただ時々、面倒にもなる。私が右へやりたいと思ったものは左へ、上へやりたいと思ったものは下へ動こうとする。こういうことが続くとね」

 もうひとつ、ヒロトさんを尚登に奪われてしまったのも、彼を苛立たせている要因のひとつだろう。時々探りを入れてこられるが、わからないものはわからない。教授なら、ヒロトさんを連れ戻すことなど造作もないことだと思うが、もしかしたら敢えて泳がせているのだろうか。

 机の上に散らばっていた薬瓶を、ひとつずつ等間隔に並べながら教授が言う。

「それぞれがよいところへ、あるべきところへ置いてやってるだけのことなのに。目を離した隙に勝手に倒れたり、転がったり、割れて粉々になっていたりする。まったく理解に苦しむ」

「よいと思って置いた場所でも、実は微妙に傾いていたからかもしれませんよ」

「私が一番思いどおりにならないと感じているのは君のことだ。どうしてヒロトを救うような真似をした」

「救う? 知りませんよ、彼が今どうなっているかなんて。病院からいなくなったようですけど興味もないですし。僕よりもっと詳しいひとが……

「どうして殺さなかった?」

 言葉の棘は増していっているのに、口調も、瓶を並べる手つきも、何も変わらない。

「殺すことが目的じゃないからです。僕の仕事はあくまであのウイルスの構造を明らかにすること。そして技研へ被験体を斡旋することです」

「憎んでいるんじゃなかったのか」

「憎んでますよ。彼に余計な感情を教えられたせいで僕の人生は大きく狂いました。だから死ぬよりつらい目に遭わせてやりたかっただけです」

「直前になって被験体を差し替えたと聞いた。別の人間を身代わりにしたそうじゃないか。それでも庇ったわけではないと?」

「殺したところで憎しみは消化できない。消化できないものを抱え込まされるなんてゴメンです。だから彼にはずっと苦しみ続けてもらわなきゃならない。それでようやくほんの少しだけ、慰められるんじゃないですか。海からスポイトで水を吸い出すようなものですけど」

「それほど憎んでいる奴の名前を呼びながら自慰するのか」

 カマをかけられているのだと思う。けれど一瞬答えにつまった時点で、負けは確定したようなものだ。

「ひとの趣味はそれぞれだから勝手にすればいいが。痛めつけられるのが好きな奴もいれば、あえて好きな相手とはやらない奴もいる」

「知ってるでしょう。僕の性癖はあなたがずいぶんと歪めたんですから」

「私は水を与えただけだ。そこからどう育つかは知らないよ」

「赤色の水を与えたら赤に、青色の水を与えたら青に染まることくらいはわかっていたんじゃないですか」

「生憎、今日は君と楽しくお喋りをしに来たわけじゃないんだ」

 無防備になっていたペニスを不意に握られ、扱かれる。こっちだって好き好んで言葉を使っているわけじゃない。身体で話してくれた方がよほど楽だ。

 痛めつけられるのが好き、というのも当たっている。あえて好きな相手とはやらない、というのも当たっている。こんなときに不意に、尚登に言われたことを思い出した。

『ヤヒロ。会いたい』

 諦念が混じった喘ぎが漏れた瞬間、猿轡をかまされた。ゴムの臭いに吐きそうになる。垂れ落ちた唾液が顎を伝う。

「実験動物を失った責任を取ってもらおうと思って来た。いろいろ考えたんだが、やはり君自身が実験動物になるのが一番いいんじゃないか。なる……いや、違うな、実験動物に『戻る』のが一番手っ取り早いじゃないか」

 これはいつもの言葉遊びじゃない。

 しかしそう気づくより、教授が注射器を手にする方が早かった。

 恐ろしい薬剤が注入されていくのに、痛みも違和感もまるでない。そのことがより恐ろしい。

 腕から抜かれた針。針先が光るのが視界の端に映る。

 そこから先の記憶がない。

 

 

「ヤヒロさん……ヤヒロさんっ?」

 医務室の簡易ベッドに、ヤヒロさんが全裸で横たわっている。

 ヤヒロさんが全裸なのは今さら驚かない。いや驚くべきなんだけれど、感覚が麻痺してしまっている。いろんなものに雁字搦めになっているようなひとだから、もう何も身につけなくていいんじゃないかとも思う。

 白衣より白いヤヒロさんの肌。対照的に真っ赤なペニス。それに添えられた手。お楽しみのところを邪魔してしまったかと思ったが、どうも様子がおかしい。手は微動だにせず、代わりに腹と喉が、限界を訴えるように痙攣している。

 ヤヒロさんの口に押し込まれていた無粋なものを外してやる。あのひとのやることはまったく趣味じゃない。ヤヒロさんのきれいな鳴き声を消してしまうなんて。零れた唾液をすくい取るようにキスをする。しかしヤヒロさんからの反応はない。いつもみたいに、あえての無反応ではなく、魂を抜き取られたように、ただ、反応がないのだ。

「ヤヒロさん?」

 息はあるが何故か、生きている、という実感がない。

「な、お、と、さ……

「どうしたんですか。そんな状態じゃつらいでしょう。ヤヒロさんがセルフ焦らしプレイが好きだってのは知ってましたけど、それにしたってやりすぎじゃないですか」

 ヤヒロさんは何も答えない。おかしい。いつもだったら、惚れ惚れするほどの速さで皮肉が飛んでくるのに。

「ヤヒロさんがしないのなら、俺がやってあげましょうか」

 ふとふれたヤヒロさんの手が、ひどく強張っている。代わりに握ってあげようとしたが、手をのけてくれる気配がない。かといって、抵抗するわけでもない。

 蝋人形みたいだ。

 後ろから抱え、ヤヒロさんの手ごと握り、ゆっくりと動かしていく。ねちゃねちゃと濡れた音が響き、呼吸を確認しても感じられなかった生きているという実感が、こんなところで感じられるから不思議だ。

「一体どうしたんですか。やり方忘れちゃったんですか?」

 やはり返事はない。弱々しく首を横に振るだけだ。

 十分に濡れてきたので、動きを速める。親指で先端をぐりぐりすると、白い液体が吐き出された。

「よかった、感じ方は忘れてなかったみたいですね」

……じ、ない」

「え?」

「感じ、ない。何も」

 ヤヒロさんの目尻から涙が伝う。それなのに口元に浮かんでいるのは笑みだ。

「尚登さん」

「ヤヒロさん……

「どうやら、ヒロトさんと同じになったみたいです」

 問い質すより先に、狭いベッドから脚がだらんと落ちる。腕も、尚登が支えていないと同じように落ちてしまいそうなのを感じる。その瞬間、ヤヒロさんの手脚が、血の通わない機械に置き換えられたように見えた。

「ヤヒロさん、まさか」

 わからないようにこっそり、ヤヒロさんの腕をつねってみる。けれど何の反応もない。

 しまった。

 あのひとがまさか最終手段に及ぶとは思っていなかった。かつて愛した男の息子だから、オモチャにすることはあっても、手放すことはないだろうと甘く見ていた。

「ヤヒロさん、疲れてるんですよ。ちょっと休みましょう。そうしたらすぐによくなりますよ」

 ヤヒロさんは軽いから、簡単に抱えることができる。こんなこと、今までだったら許してくれなかっただろう。ヤヒロさんを自室に運び、広いベッドに寝かせる。ヤヒロさんはすぐに目を閉じ、寝息を立て始めた。薬の力でも、セックスに疲れたからでも、何でもいい、とりあえずは眠っていてほしいと切実に思う。できれば、すべてが解決するまで、ずっと。

 とりあえず、ヤヒロさんに投与された薬について調べないといけない。ヒロトさんも、どこか別の場所に移動させた方がいいか。サクヤとクレハに連絡するか……

 

 逡巡したのがいけなかった。

 次に部屋を訪れたとき、ヤヒロさんは忽然と姿を消していた。