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深海4

執筆:八束さん

 

 

 

深海4

 まだ名もない彼を引き取ってから、一ヶ月が経とうとしていた頃。
 食べることにほとんど関心を示さない子だが、やはり子どもで、甘いものは好みのようだ。ならきっとこれも好きなんじゃないかと、丁度期間限定で出店している洋菓子店を見つけたので、アップルパイを買って帰った。
 心なしか、浮かれていた。
 でも、ドアをあけるなり打ち砕かれた。
 玄関には複数の、男物の靴。
 中に入ると、見知らぬ男達。男達の脚の間から、膝立ちになったヤヒロの姿が見える。男達のものを咥えて、恍惚とした表情をして。
 一体何が起こっているのだろう。
 ここは本当に自分の部屋だろうか。
 けれどまったく見覚えがないというわけではない。まるで戻ってしまったみたいだ。あの島に。
 男達の荒い息に、ガラスを引っ掻いたような嬌声が混じる。
 一歩、奥から進み出てきたのは、見慣れた男だった。
「教授」
 この状況は理不尽だが、彼がここにいるということで、自分には何も言う権利がないのだと思い知る。
「これは一体どういうことですか」
「どうって、君がまったく仕事をする様子がないから、待っていられなくなってね」
「時期を見計らっていたんです。あまり性急に進めるのは得策ではないかと。彼の様子を見ても……
「その彼自身がもう待ちきれなくなっているんだけど」
 小さな口いっぱいに、男のものが出入りしている。目尻から涙が零れて、初めは苦しがっているのかと思った。けれどよく見ると、彼の方から積極的に頭を動かしている。引き離されると、また別のペニスを求めて喘ぐ。
「舐めてるだけで満足かい?」
 彼の頭を撫でながら、教授が囁く。
「欲しい……もっと欲しい……
 教授が手を下の方に滑らせると、わかりやすく腰をくねらせる。
「欲しい、欲しいの……ここにいっぱい入れてほしい……っ」
 そして自ら脚を広げて、穴を広げて見せる。
「ヒロト、頂戴?」
 名前を呼ばれて、どきりとした。
「ほら、彼もそう言ってることだし。ずっとお預けじゃあ可哀想じゃないか」
「駄目だ、君は何も分かっちゃいない。君は……
「ヒロトは僕のことあいしてくれないの」
 眉間に皺が寄り、今にも泣き出しそうだ。
 そんな彼につられて、自分も同じように途方に暮れた顔になってしまう。
 愛する。その本当の意味を理解する前に、そんなに簡単に口にしないでくれ。
「ヒロトは愛してくれないんだって。しかたないね。じゃあ他ので我慢するしかないね」
「嫌……おもちゃは嫌。アレは嫌……
「わかってるよ。ほら君、代わりに入れてやって」
 促された一人の男が、彼に覆い被さる。誰かは知らない。男を見上げる彼の目が心なしか潤んでいるのを見た瞬間、たまらず男を押しのけ、彼を抱きしめていた。
「わかりました。やりますから。私がやりますから。やらせてください」
 言いながらも身体は言うことをきかなかった。言うことをきかないどころか、息すらも上手くできないんじゃないかと思った。けれど彼のてのひらのぬくもりを背中に感じた瞬間、その瞬間だけは、すべてを肯定されているような感じがした。たとえどんな過ちを犯したとしても、すべて許されるような感じが。自分にはとんでもない力があるような感じが。
「ヒロト……
 うすくあいた唇。どれだけ見つめていても焦点が合わない。いつまでもゆらゆら揺れ続けている。
 ふれた唇があまりに小さく、醜い欲望を受け止めるにはあまりに頼りないことにたじろいだ。あっという間に壊してしまう。けれど壊されたのは、自分の方だったのかもしれない。理性の糸は一本じゃなくて、どうやら複数本あったらしい。唇を重ねるたびに、耳の後ろでぶちぶちと、それらしきものが、鈍い音を立てて引きちぎられていく音がする。
 寄せては返す波のように、互いの熱が行ったり来たりする。飲み込まれそうになったことに恐怖を感じて彼の性器にふれると、離れた唇から嬌声が迸った。予想以上の反応だったので慌てて手を引くと、潤んだ瞳がじっとこちらを見つめてくる。その視線に、新たな火種が自分の中に灯ったのを感じる。
「いい?」
 問いかけると彼は首を激しく縦に動かした。本当は問いかける前からずっと動いていたから、ヒロトの声がちゃんと届いていたかどうか定かではない。じゃあ何のために問いかけたのか。自嘲した瞬間、「いいわけがないだろ」と、誰もいない方向から声がした。理性のいる場所から声がした。
 こんなことをするためにこの子を引き取ったわけじゃない。死ぬのを思いとどまらせたわけじゃない。
 じゃあ助けなかっただろうか。死ぬよりつらい目に遭うとわかっていたなら、あのとき、助けなかったのだろうか、自分は、果たして。
「はあっ……気持ちいい、ヒロト、気持ちいいよおっ」
 挿入するとぎゅっとしがみついてきた。めりめり、と拡張するのに合わせて引き裂かれるような、でも悦びの混じった声を上げて。
 嫌がっていたのに。
 記憶をいじられる前、あんなに嫌がっていたことを、彼は嬉々として受け入れている。
 初めてで簡単に快感を感じられるはずがない。その矛盾に気づかないまま、ヒロトを求め続けている。
 彼の瞳に映る自分自身と目が合わないよう、ずっと彼の、ひくつく喉元あたりに視線を落としていると、唐突に前髪を引っ張られた。
「ヒロト、キス、キスして」
 そうか。こうしていると余計なものを見ずに済む。
 たぶん、それは今まで一番最低なキスだった。
「あっ、ああっ、ヒロトっ、イっちゃう、ああーっ!」
 自分が快感を与えた、という実感はまるでなかった。プログラミングされたように彼はイった。まあ実際、プログラミングされている、というのは間違いじゃない。
「おめでとう」
 教授が、イったばかりの余韻に震えている彼の頭を撫でて言う。
「これがずっと、君が憧れていた『セックス』だよ」
 頭を撫でていた手が、すっと顔の方に落ちてくる。瞼を閉じさせようとするように。
「君のパパもママも、君とはセックスしてくれなかったもんね。君に見せつけるばかりで。でもこれからはヒロトとずっとセックスできるよ。彼は君だけのものだから。嬉しい?」
「うん、セックス、やっとできた、嬉しい」
 息が整ってきたのか、したい、もっとしたい、と上体を起こしかけた彼の腕をすかさず掴み、教授は鎮静剤を打った。
「初めからあんまりがっつくとヒロトに嫌われちゃうよ。さて、と……
 教授は今までの暴虐をまるで感じさせない、心底患者の身を案じる医師のように優しく微笑みかけたあと、ヒロトに向かって言った。
「餌を与えたんだから、これで君が晴れて飼い主だ。責任感の強い君のことだから、途中で放り出すなんてことはないと思うけれど。ああでもペットで言うならそうだな、気まぐれな猫でも従順な犬でもない、彼は生まれて初めて目にしたものを親だと思う雛のようなものだから。君がどれだけ振り払おうとしても追いかけてくるよ。もう刷り込んでしまったからね」
 小さな身体を抱きしめる。と同時に、思いきり突き放したくなるもなる。この矛盾は何だろう。どちらも守りたい、という思いから出ているものには違いないのに。
「間違った親を親だと刷り込まれた雛は、そのあとどうやって本当の親を親だと思うんだろうね」