執筆:八束さん
深海3
ヤヒロは最近、定期的に下宿先を抜け出している。束縛するつもりはないけれど、本部に見つかって大ごとになるのだけは避けたかった。
大学へと向かう道から逸れて、ヤヒロは閑静な住宅街へと入っていった。ただでさえひとけのない、その中でもひときわ、ひとけがない、というよりむしろ、来訪を拒んでいるかのような場所にヤヒロは向かっていく。
蔦の絡まった、周囲の家よりひとまわり大きな家。その中にヤヒロは、インターホンも鳴らさず、勝手知ったる様子で入っていく。
十分経っても二十分経っても出てくる様子はない。ここまで来た以上、ヤヒロが出てくるまで引き返すという選択肢はなかったが、それにしてもいつまで待っていたらいいのだろう。ぼーっと立ち尽くしていても不審に思われてしまう。
とりあえず、家の周囲の様子を窺うことにした。
家を一周し、何の気なしに窓を見て、飛び込んできた光景に目を疑った。白く揺らめくものが初めは一瞬何なのかわからなかったが、あれはヤヒロの肌だ。しどけなくソファに横たわるヤヒロは、何も身に纏ってはいない。
いてもたってもいられず、玄関に向かう。馬鹿正直にインターホンを鳴らしてから、訴えられようが何しようが無理矢理押し入った方が早かったのではないかと思い至る。しばらく待っても応答がないので、耐えきれず門扉に手を掛けたところで、玄関のドアがあいた。出てきたのは四十代半ばくらいの男性だった。服に赤い飛沫が飛んでいるのが見え、ぎょっとしたが、よく見ると絵の具のようだ。鮮やかな色に魅入られ、思わず言葉を失ってしまう。
「どちら様ですか。何かご用ですか」
「あ……えっと、知り合いがお邪魔しているようなんですけれど、約束の時間があるので、迎えに来ました」
「迎え……そんなことは言っていなかったけれど」と男が小首を傾げる。ここで引かれてはまずいと食い下がろうとしたが、男は拍子抜けするほどあっさり、「立ち話も何ですし、どうぞ」とヒロトを中へと誘導した。
「お時間、あとどれくらいなら大丈夫ですかね」
「えっと……」
「そんなにお待たせはしませんが、あと十五分くらいはお待ちいただけると助かるのですが。何せ筆が乗ってきたところで。できれば今日、描き上げてしまいたくて」
「描き上げる……」
部屋の中に入り、まず目に飛び込んできたのは、大きなキャンバス。そこに描かれているのは……
「な、これ、は……」
「ああ、丁度よかった、ヒロトさん」
ソファに横たわっていたヤヒロが、ゆっくりと身体を起こす。まるで絵が動いたかのように錯覚する。
「ヒロトさんも一緒に描いてもらおうよ」
「何を……一体何をしているんだ、ヤヒロ」
「何って、絵のモデルだよ。たまたま彼……レイジさんがキャンバスで僕を見かけて気に入ってくれて。ずっと描きたくても描けなかったものが、ようやく具現化できたって喜んでくれたから。僕の方も、初めて知った感覚があるんだ。気持ちいいんだ。真っ白なキャンバスの前にすべて投げ出してさ。いいものも悪いものもぜーんぶ、吸い取ってもらえるみたいで。真っ白になれる」
酔ったように話すヤヒロが、首に腕を絡めてくる。息が当たる。思わず顔を背けた先に、キャンバスがある。ぼかすことなく描かれた局部。こちらもやはり直視できず目を背けた際、ヤヒロの唇が当たった。
「ねえ、ヒロトさんも描いてもらおう。ちょうど思ってたところなんだ。ヒロトさんとセックスしてるところ。ねえ、いいよね、レイジさん。こんなの、なかなか描けないでしょ」
「馬鹿言っ……」
「上も下も、つながってるところぜーんぶ。ねえ、他のひとの目線で見たら、僕たちの関係ってどう映るんだろうね」
「ヤヒロ!」
ヤヒロを抱え起こし、上着を羽織らせる。
描きかけの絵は廃棄してもらうように、そして口止め料代わりの金を、レイジとかいう画家に突きつけ、抵抗を見せるヤヒロを無理矢理外に連れ出した。
「あーあ、悪いことしちゃったな」
車に乗るなり、これみよがしにヤヒロが呟いた。
「失礼はお詫びしておくから。だからもう彼には会わな……」
「違うよ。彼に対してじゃない。彼の子どもたちに対して」
言っている意味がよくわからなかった。
「彼は俺を描くことでかろうじて欲望をコントロールできていたんだ。でも俺がいなくなったら、それは間違いなく子どもたちに向かうだろうね。まあ、時間の問題だったかもしれないけれど」
「でも」
ヤヒロの手が頬にふれてくる。その艶やかさに目を奪われて、ふれたい、と、思った、まさにそのタイミングだった。
「でも私は嫌なんだ。あんな風にヤヒロが切り売りされるのは」
「何を今さら」
キッ、と、頬に爪を立てられた。このままではいけないと思うのに、動くことができなかった。どこかその痛みを、心地いいと感じてしまったから。
「ずっと切り売りしてたじゃないか」
もっともっと、その痛みを与えてほしいとすら。
「むしろ売らなかったことなんてなかったじゃないか。初めから。俺たちのセックスはずーっと衆目に晒され続けてきたじゃないか。他ならないあんたがずっと、売り続けてきたじゃないか。だから今さら、絵の一枚二枚増えたところで、どうってことないだろ」
思考が止まるのと同時に、動きも止まる。それを見計らったかのように、ヤヒロの爪が離れていく。
自分は何にショックを感じているのだろう。
自分のやってきたことの愚かしさに対してか。
ヤヒロがそこまで知ってしまっていることに対してか。
ヤヒロを救おうとするたびに、過去に足を引っ張られることに対してか。
コン、と、ヤヒロが窓に額を当てる音がする。
顔は向こうに向いているのに、強烈な視線を感じる。車に仕込まれた監視カメラは、石像のように動かない自分たちを捉え続ける。