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最愛

執筆:八束さん

 

 

 

「おかえり、シバさん!」
 ドアをあけるなり、満面の笑顔を浮かべたイクミくんに迎えられて、どきりとする。自分の後ろ暗いところを照らし出されるような笑顔だったから。
 鞄を玄関に置くやいなや、イクミくんが中を見ようとしたから、
「ちょっ……駄目っ!」
 別に見られて困るものは何もないのに、やはり後ろ暗いところを暴かれるような気がして、慌てて制してしまう。制したあとすぐイクミくんと目が合って、しまった、と思う。
……きゅうり、買ってきてくれるって」
「あ、ごめん。そうだったね。ごめん、うっかりして、スーパー寄るの忘れてた」
 一緒に作った発酵生姜が食べ頃になったから、イクミくんの好きなきゅうりにつけて食べようという話を昨日、していたのだった。
「ううん、シバさん、『お仕事』忙しいもんね。わかってる」
 イクミくんの言動、すべてに裏を感じてしまうのが嫌だ。
 島に行ってからずっとまとわりついてるものを早く洗い落としたい。
 ジャケットをハンガーに掛けようとしたところ、イクミくんに先んじられた。いつものことだからここで断るのも変な気がして、任せてしまう。
「島に行ったの?」
「うん。月に一度は必ず行かないといけないから」
「ヤヒロさんに会った?」
 シャツのボタンを外そうとした指が滑る。
「うん、会ったよ。仕事だからね。向こうも忙しいみたいだから、そんなにじっくりとは話せてないけど」
「ヤヒロさんのにおいがする」
 後ろから抱きつかれた。
「ちょっ、イクミく……
「わかるんだ」
 今まで聞いたことのない声だった。
「僕もヤヒロさんと、……たことあるから、わかるんだ」
 そして今までにない力強さで押し倒された。倒れたとき派手な音がしたけれど、思ったほど痛みは感じなかった。それをも上回る衝撃にかき消されてしまったからかもしれない。
「イクミく、ん……んんんーっ」
 何をされているのか一瞬、理解できなかった。キスをされているということはわかる。でもそれをしているのがイクミくんというのが信じられない。だって、イクミくんはこんなことするわけない。イクミくんがこんなことを知っているなんて。
 舌がぬるり、と中に入り込んでくる。こんなことまで知っているなんて。いつ、誰に教わっ……
 いや、イクミくんと同じくらいの歳、自分だって知っていたじゃないか。
 自分の傲慢さと羞恥に力が緩んだ瞬間、何か、錠剤のようなものを流し込まれたのがわかった。抵抗しようとしたが、口と鼻を一気に押さえられてしまう。今までだったら簡単に振りほどけたはずなのに、何故かできない。
「な、に……
 飲み込み終えたのを確認すると、イクミくんの顔がスッと遠ざかる。イクミくんの目に映る自分は、正視に耐えない顔をしていた。
 熱い。ぼんやりする。そして熱が、一点に集中していくのがわかる。
「尚登に貰ったの、まだ残ってたから」
「尚登……
 イクミくんの指がベルトに掛かったのがわかった。でも腕に力が入らない。すべてがぼんやりしてくるのに、何故か、ベルトを外すカチャカチャという音や、ジッパーを下ろす音は妙に大きく響く。そして……
「イクミくんっ、何すっ……や、めなさ……ああっ」
 イクミくんによって、じゅるじゅると性器が吸い上げられる音。
「やめっ、イクミくん……イクミくんっ!」
 シバさんって不能……という尚登の言葉が唐突に甦る。ヤヒロを汚したくはないとあのときは突っぱねたけれど、でもやはり自分の中に欲望はあったのだと思い知らされる。こんな簡単に昇りつめてしまうなんて。
 あのとき抜かなかったせいか、イクミくんが上手いせいか、薬のせいか、よくわからない。とにかく、何かのせいにしようとしていることに気づいて、また自分が嫌になる。
 薬……
 もしかしたらこれも、尚登の差金なんだろうか。こうなることを見越してイクミくんに入れ知恵を……いや、そもそも見せつけるようにヤヒロとヤっていたときから、罠に嵌められたのか……
 いや、違う。
 因果応報だ。
 ただ、繰り返しているだけだ。
 誰のせいでもない、自分がやってきたことが、そのまま返ってきているだけだ。
 無理矢理ヤヒロを自分のものにした、あのときから。
「んっ……んくっ、うっ……
 苦しそうな声を出しながらも、イクミくんはしゃぶるのをやめない。
「駄目っ、イクミくん! それ以上はもう、本当に駄っ……出る、から……!」
「出して。シバさんの、全部出して。シバさんの、全部欲しい」
「あああああっ」
 中途半端に抵抗したせいで、イクミくんの顔に飛ばしてしまった。垂れ落ちたそれが、涙のようにも見える。
「イ、クミく……
 涙のように見える、んじゃない。本当にイクミくんは泣いていた。唇の端から精液を滴らせながら、目尻からは大粒の涙が零れる。
「ヤヒロさんのことは、好き。ヤヒロさんはきっと僕のことはそんなに好きじゃないだろうし、もう会えなくなっちゃったけど、でも、好きって気持ちは変わらない。シバさんのことも、好き。僕のことをこんなに大切にしてくれるのはシバさんしかいないから。ヤヒロさんもシバさんも好き。でも、好きなひと同士がくっついているのを見るのは嫌い。こんな風に考えちゃうの、おかしいかな。尚登は好きなひとが好きなものも全部好きになれるって言ってたけど、僕は違う。僕の入る隙間がなくなっちゃうから。僕は、こんな人間なんだ。好きなひとの好きなものも、躊躇いなくぶっ壊せるひどい人間なんだ」
「イクミくん……
 それは違う。
 本当にひどい人間は、自分のことをひどい人間だと涙を流したりはしない。
「信じて。僕は、イクミくんのことが好きだよ。ヤヒロのことも好き。でもその『好き』とは違う。他の誰を『好き』になっても、イクミくんに対する『好き』が変わったり、分量が減ったりすることはないんだよ」
 イクミくんがゆっくり顔を上げて、呟く。
「何でだろう」
「ん?」
「ヤヒロさんは僕のことを好きと言ってくれないから、だから悲しかった。でも今、シバさんに好きと言われても、同じように悲しいんだ」
 イクミくんの顔が近づいてくる。ぽたぽたと落ちる雫が頬に当たる。ゆっくりくちづけられる。止めなければならないはずなのに、そうすることが当然のように受け入れてしまうのは何故だろう。何故だろう、と、自分たちは今、二人して戸惑っている。考えている内容はまるで違うけれど。
 混ざり合う。
 抱きしめたことも裸を見たことも初めてじゃない。けれどふれるたび、においを嗅ぐたび、初めてのような戸惑いと興奮を覚える。ふと視線を下にやると、ぐったりした自分のペニスをまるで挑発するように、イクミくんの張り詰めたものが押し当てられている。
「ごめん、シバさん」
 膝裏を抱え上げられ、後ろの穴に先端を擦りつけられる。次の展開は嫌でもわかった。
 受け入れていいのか、受け入れたくないのか、自分ですら、自分の感情の整理がつけられない。
 自分が壊れていくぶんには構わない。でもイクミくんを巻き添えにしてしまうのは嫌だ。
「シバさん……シバさん、僕のものになって」
 そんなのもう、ずっと前からイクミくんのものだ。
 答えるより先に、突き上げられた。肯定の返事なんて返ってくるわけがないと、だからもう何も聞きたくないと、封じるみたいな動きだった。
 待って、待って、イクミくん、ちゃんと、伝えないといけないことがあるのに。
「っ、ああっ……!」
 こじあけられる感覚に肌が粟立つ。震えているのは痛みに、ではない。圧倒的な思いに、だ。
「ヤヒロさんのものになりたかった。でも、シバさん。シバさんは僕のものにしたい。僕だけのものに」
「イ、クミく……っ」
 こんな気持ちだったのか。
 いや、同じことをされているからといって、わかった気持ちになるのは傲慢だ。あのときのヤヒロの気持ちは、ヤヒロにしかわからない。
 でも、ずっと前から、決めていた。
 かつての自分と同じように、自分に思いをぶつけてくるひとが現れたなら。それを全力で受け止めよう、って。身体も、心も。同じように受け止めようって。
 今、わかった。
 同情からじゃない、使命感からでもない、どうしてあのとき、この子と一緒に暮らしたいと思ったのか。
 イクミくんの背中に手を回す。より密着しないと思ったところに手が届かないくらいに、またいつの間に、こんなに大きくなったんだろう。
 シバから距離を縮めてきたことに、イクミくんは意外そうな顔をしている。
「シバさん……
「イクミくん」
「ごめ、なさ……
「どうして謝るの?」
「だってこんなの、おかしいのに。シバさんを困らせるだけってわかってるのに。でも止められなくて」
 圧迫してくる凶暴さとは裏腹に、表情は小動物みたいだ。
 自分の呼吸も整えながら、イクミくんもそれに同調させるように頭を撫でてやる。
「イクミくん、僕は、イクミくんより長く生きているけれど、実は、胸を張って誰かに好きと言えたことがないんだ」
 イクミくんが、ぴくりと身じろぎする。
「告白するときは大抵、後ろめたさがつきまとった。誰かを好きになる自分のことを好きになれなかった。他のことは大抵うまくやってきたんだ。学校では優等生で通ってきたし、後ろ暗いようなことをした覚えもない。でも、ひとを好きになる、ということだけは違った。イクミくんにはそんな風になってほしくない。イクミくんが僕を好きになることで自分を嫌いになるのなら、そんな恋はやめな、って、思う。でも、自分を好きになってくれるのなら、ごめんなさいとかこれから絶対言わないのなら、それは間違ってないって、応援するよ。だって僕もイクミくんのことが好きだから」
 一番恥ずかしい部分、とっくに奥深くまでつながったあとなのに、まるでこれから情事を始めるかのように、柔らかいキスをする。ぐずぐずに溶けた下半身より、一瞬ふれたイクミくんの唇は、燃えるように熱かった。
「シバさん、もう一度言って」
「もう一度……って、えっと……
 恥ずかしい。かなり恥ずかしいことをべらべら語った気がする。
「それってどこから……
「『僕もイクミくんが好き』」
 ああ……
「好きだよ」
 さっきとはまた違う恥ずかしさがぶわっとこみ上げる。でも、嫌な感じじゃなかった。「僕も」と、イクミくんが顔を真っ赤にして、突進してきてくれたから。
 思いきり息を吸い込んだあと、もう呼吸なんてできなくていいというくらいの勢いでキスをした。
 まさかこんなことになるとは思わなかった。
 大抵のことはよくも悪くも計画通りで、計画より悪くなることはあっても、よくなるなんてことは滅多になかった。これまでもこれからも、淡々と、決められたことを決められたようにこなして、角砂糖一個分くらいの幸せをちょっとずつ摘まみながら生きていく。そんな人生だと思っていた。
 溺れる。
「んあっ……シバさんっ、イっちゃう……出しちゃうよおっ……
「いいよ、出して」
 イクミくんが遠慮がちに放ったものを受け止めながら、『幸せに溺れる』とはまさにこのことだ、と、実感する。
 一滴残さず、受け止める。