執筆:七賀
「聞いた? この前小学校の近くで変質者が出たの。しかも男なのに男の子に付きまとってんだって! 怖いわねぇ。そういえば先月もそんなニュースやってたわよね」
「えぇ……」
朝、ゴミ捨て場までのちょっとの距離ですら知り合いに捕まってしまう。急いでることをすぐに伝えられない自分にも苛立ち、尚さらむしゃくしゃした。
普段ならともかく、今はくだらない世間話を聴く余裕はない。
「ウチの子も去年小学校に入ったから心配なのよ。どうせ塾に通わせるつもりだから、スマホを持たせようと思ってるんだけど……先生達はちゃんと考えてくれてるのかしら。しばらくは集団下校するとか、通学路を見回りするとか」
「あっ! ごめんなさい、私朝ご飯を作ってる最中で。火を消し忘れたかもしれないので、また後で!」
無理やり感は否めないけど、今はなりふり構っていられない。ヤヨイは深々と頭を下げ、三軒先の自宅に飛び込んだ。
女性はどうして意味のない長話ができるのだろう。自分も女だけど、「人に話す価値がない話」しか持ってなくて、喋ることがない。
それに引き換えあの人の話はどんな小さなことも意味がある様に思え、惹き込まれる。何が違うんだろう……。
会いたい、会いたい、会いたい。
絶望的で、何もかも投げ出したい時ほど強く想う。
食事の支度中というのは嘘なので、一番にリビングへ向かった。部屋の中心で四つん這い状態の刹那が泣いている。
「どうしたの、転んじゃった?」
すぐに抱き起こし、背中をさすってやる。意欲的に歩こうとすることが増えた息子だが、まだ転んでしまうことがある。顔を怪我したら大変なので、長時間目を離すことはできない。
夫は太陽が昇りきらないうちに出勤する。夜まで騒いで、動き疲れた息子がぐっすり寝てる間……まるで彼の顔を見ないようにする為に。
「よしよし……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を綺麗にして、息子の前で大きなため息をついた。
今までは会社員として業務をこなせば存在価値が見い出せた気がした。けど母親は、専業主婦は、密接な関係となる相手に認められるまで充実感が得られない。息子と旦那に求められる日までひたすら耐えて、耐えて、耐えないといけないのだ。
経過を報告したい。仕事のように「ここまでやった」という結果をまとめたい。それで誰も褒めてくれなくても、自分が落着する。
泣き止んだ刹那を膝に載せながら日記をつける。これが自分らしくいられる唯一の時間だ。
五年後、十年後は納得のいく生活を送っていることを願い、ぐっと唇を噛み締める。
働いてないからこそ休日も存在せず、子育てに奔走する。夫の休日もやはりないようなもので、日曜日も自主的に会社へ向かっているようだった。彼に仕事とプライベートの境界はない。だけど今日は珍しく出掛ける支度もせず、昼まで読書をしていた。
「夜紘さん。今日は休息日?」
熱い珈琲を淹れてサイドテーブルに置くと、深海のような瞳がこちらへ向いた。
深海は黒。光の粒さえ届かない。
この人の心も同じ様に思えてきてしまう。
「毎日会社にいるとそれはそれで心象が悪くなるから」
「そう……」
たまには家でゆっくり、妻と子どもと過ごしたら……などと誰かに言われたのだろうか。もしそうなら、その時の彼の不機嫌そうな顔が容易に想像でき、可笑しくて仕方なかった。
これ以上傍にいても鬱陶しいと思われるだけだろう。トレイを持ってキッチンへ戻ろうとした時、彼が徐に立ち上がった。
「散歩に行く」
「あ、えぇ。気をつけて」
道を空けようとすると、何故か彼は隣に並び、不思議そうに首を傾げた。
「君達は行かないのか」
君達?
まさか自分が……いや、自分達が誘われるとは思わず、少し呆けてしまった。
「い、行くわ。少し待ってて」結局キッチンへ急ぎ、手を洗ってから寝室で眠る息子を迎えに行った。
駅からほど近い住宅街は、利便性とは裏腹に息が詰まりそうだ。けど唯一の救いは、都会の喧騒を感じさせない自然公園があることか。子どもが遊ぶアスレチックコーナー、ランナーが走るのに絶好なコース、夏は涼しげな水辺空間がある。平日も昼間は子供連れでいっぱいだった。
休日、夫と一緒に公園を歩く。至極当たり前のことが、久しぶりで緊張する。ベビーカーは刹那が乗りたがらない為家に置いてきた。近所だし、夫も歩かせればいいと言いたげな目をしていた。駄々を捏ねるようなら最悪抱っこをして帰ろう。
でも刹那は外へ出たことで機嫌がよく、手を繋いでいても先へ進もうとした。屈みながらこっちも転ばないようにするのが大変で、周りの親子を度々観察する。
皆子どもの扱いが上手い。一人目じゃないのかもしれないけど、ここでは自分が一番新米に思える。
走り回った後刹那が広場のクローバー探しに夢中になってくれたので、ようやく一息つくことができた。
「はぁ……家の中を駆け回るのとはわけが違うのね。こんなに運動したの久しぶり」
「子どもは体力が余ってるから」
すぐ側のベンチに二人で腰掛ける。彼にも父親らしく刹那と遊んでほしかったのだが、期待するだけ無駄みたいだ。
「ちょっと飲み物買ってくるわ」
近くの自動販売機へ行き、三人分の飲み物を買った。
相変わらず刹那に無関心だ。いてもいなくても構わないといった態度で、全く声をかけようとしない。
散歩に誘ってくれたのも気紛れに過ぎないのね……。
ため息をついて彼らの元へ戻る。すると何故かベンチは無人で、夫は広場に移動していた。どうしたのか様子を見に行くと、うつ伏せから起き上がろうとしている刹那の姿が見えた。
「刹那! どうしたの!」
「転んだんだよ」
そんなの言われなくても分かる。そうじゃなくて、何故早く手を貸さないのか。もどかしさに違う種類の怒りを覚えていると、夫は息子の頭にぽんと手を置いた。
「絶対泣くと思ったのに、泣かなかった」
「……え」
この前は転んでぎゃんぎゃん泣いてただろ、と言い、刹那の汚れた頬を指で擦った。結局最後まで抱き起こそうとはしなかったけど、刹那も嬉しそうに立ち上がった。
手を貸さなくてもいつかは立ち上がる。だから手を出しすぎるな、と言われてるようだった。
でもそれは男性的な教育論だ。母親の気持ちからすれば、そもそも転ばれること自体が恐ろしい。怪我させたくないと思うのは当然のこと。
息子の成長に驚く彼に怒りと優越感が生まれるのも、まぁ仕方ないだろう。
今日は何がなんでも、彼に言わせたいと思った。
「この子も毎日強くなってるのよ。偉いでしょう」
「……そうだな。偉いな」
例え本心では思ってないとしても、初めて認めさせた。今日は密かな記念日になりそうだ。