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8と8⑴

執筆:七賀

 

 

 

初めて彼の瞳を見た時、吸い込んだ空気が急激に冷たくなるのを感じた。
射抜かれるとも違う。良くないものを見てしまった時のような、心臓に悪い衝撃。誰よりも美しいのに、誰よりも冷たい瞳をしている。そんな人と結婚するなんて考えられない。
二十四の誕生日を迎えた。初めてお見合いをした。
相手は父の古い友人の息子で、どうも気乗りには見えなかった。ヤヨイと同じく親に薦められて「仕方なく」やってきたようだ。
学歴も職種も、育った環境そのものが自分とは違う。共通の趣味などひとつもなく、分かり合いたいとすら思わなかった。生きてる世界が違い過ぎて。
同じ言語を喋ってるはずなのに、ヤヨイが投げた質問は全て複雑化した質問で返ってくる。くだらない雑談をしようものなら一蹴される。話しかけることが怖い、いやめんどくさい、できれば早く帰りたい……人生始めてのお見合いは、人生史上最も最悪なお見合いと言っても過言じゃなかった。
自分が我儘なのかもしれないが、反応が薄い人、というのがそもそも苦手だ。何をしたら楽しいと思うんだろう。いや、何が楽しくて生きてるんだろう。そんな失礼なことを思ってしまう。余計なお世話だろうけど。
洒落っ気などまるでない銀縁の眼鏡に、青みがかった黒髪が掛かる。結局最後までくすりとも笑わない人だった。
彼も自分といて退屈だっただろう。気が合わないイコール、もう会わない。それが普通だと思っていたのに、彼は老舗の菓子折りを持ってまたヤヨイの前に現れた。特別用事があるわけでもないのに、その後も数週間おきに会いにきた。
何を考えてるのか分からないし、行動も予測不能だ。常人には理解できない。
プロボーズも機械的で、脈絡がなくて、ヤヨイが夢見ていたものとは星と星の距離ほどかけ離れていた。
そんな人を選んでしまった自分も悪い。いくら親や周りのプレッシャーがあったとはいえ……若気の至りは、歳をとっても自分の首を絞める時がある。
ようやく眠ってくれた息子からそっと離れ、部屋の扉を閉めた。
二階の小窓から下を見下ろすと、ウチのセダンが停まっていた。珍しい。彼にしては早く……日付が変わらないうちに帰ってきたようだ。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様」
ヤヨイが玄関へ出迎えると、彼は一瞬視線を寄越し、また逸らしてしまった。しかし上着を差し出されたので素直に受け取る。
「ご飯は?」
……食べてきたから」
「そう」
夫は酒が飲めない。だから晩酌ではなく紅茶を淹れて近くまで運ぶ。仕事から帰ってから寝るまでのせいぜい三十分ほど……この三十分の為だけに、自分は起きている。
「刹那、今日は自分でスプーン持ったのよ。ほとんどこぼしちゃったけど」
……へぇ」
反応の薄さはとうに慣れた。しかしそれは、自分に対してだったからだ。今は誰よりも大切な我が子がいる。息子に無関心でいられることは、自分が突き放されるよりも辛い。
子どもが生まれれば、彼はもっと人間らしい一面を見せてくれるのではないか。そんな期待をしていた頃もあるけど、無残に打ち砕かれた。自分も浅はかだったし、「変わってほしい」と願うことこそ傲慢だったのかもしれない。人はそうそう変われない……そんなの腐るほど知ってるのに。
自分がそうだから。愛を渇望して、拠り所を求めて、辿り着いたのは普通とはかけ離れた関係だった。
夫は自分と息子以外の「なにか」に心を奪われている。だから自分も彼を欺く。プレゼントされた香水を手首につけ、リビングの戸棚に仕舞った。
その時夫がこちらに視線を向けていることに気が付いた。
香りが気に入らなかっただろうか……とヒヤヒヤしていると、存外彼は興味深そうに席を立ち、後ろへやってきた。
「モダンプリンセス。嫌いだった?」
「いや。どこかで嗅いだ気もする」
「ずっと仕舞ってたんだけど、出産祝いの時にお世話になってる人から頂いたの。林檎の香りって良いでしょう。安眠効果があって赤ちゃんにも良いから、刹那を寝かせる時に役立つかと思って」
控えめな笑顔で説明すると、腕を急に掴まれた。
「何」、と言う間もなく、腰元に手が回った。キスはしない。それが彼のやり方だ。
ソファに押し倒され、首筋を噛まれる。香りに興奮してるとは思い難いが、彼の中の何かを誘発したことは間違いない。
そういえばこの香水をくれたナオコさんは、自分もたまに使ってると言っていた。彼女の夫も気に入ってるとか……
そんなこと考えたくなくて、目の前の男に意識を戻した。自分がこれから汚されることより、彼女が汚される姿を想像する方が嫌だ。スカートを自ら脱ぎ捨て、パンティをずらした。
彼女のことを考えると簡単に濡れてしまう。夫は依然として眉を寄せたまま、そこへ自分のものを擦り付けていく。
別にしてくれなくてもいいのに、夫としての責務を全うしようとしてるのだろうか。一ヶ月に一回は、ルーティンのようにヤヨイと肌を重ねる。まるで誰かにそう言いつけられてるように。
「あっ、あんっ……ふふ……あっ、ああっ、あははは……っ」
次第に笑いが混み上がって、糸が切れるともう止まらない。
自分の夜が広がっていく。