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43⑶

執筆:七賀

 

 

 

十月七日、空がどよめいている。嵐が近いみたいだ。
ナオトが地下で生活するようになって一ヶ月が経つ。努めて大人しく過ごしていたせいか、調子が良い日は建物の屋上へ出ていいことになった。
しかしヨミも同時に許可されたのは歯痒いというか、少々不満がある。それと、密かな高揚。
「さっさと来いよ」
階段を上ることすらもたもたしているので、手を引っ張って急かした。
ほんと、イオ並にトロいなぁ。
ドアノブが錆び付いた扉を開けると、久しぶりに仰ぎたくなるような空が頭上に広がっていた。生憎の曇り空だが、風が涼しくて気持ちいい。
「見ろよ、雲がすごい速さで流れてく」
ヨミは何も言わないが、横でこくこく頷いている。
屋上を囲うフェンスは非常に高く、とても上ることはできない。手を掛けるだけにして、遠くの水平線を眺める。
「今日は船見えないな」
……船」
「大体いるんだけど。お前も船に乗って島に来たんだろ?」
彼はきょとんとしている。そうか、こいつ記憶ないんだった。それをすぐ失念しまうのは、恐らく自分の中で重要度が低いせいだろう。
別に記憶なんかなくてもここでは困らない。全て忘れてることも忘れろ、とヨミに言った。
「ここから見える乗り物は船と車と、たまに飛行機……かな」
ぐるっと一周してみても、今日は飛行機も見えない。
急に思い至り、ポケットに仕舞っていた紙を取り出した。地べたに座って、しっかり折り目をつけて形を整えていく。
ヨミは佇み、その様子を不思議そうに見ていた。出来上がったものを見ても、それが何か分かってない表情だ。
「紙飛行機だよ。何かここの奴らは皆知ってる」
飛ばし方を見せると、思いの外遠く飛んだ為、小走りで取りに行く。
「今日は風強いからなー。……お前もやってみろよ」
初めは不安そうにしていたけど、ナオトがやったように紙飛行機を飛ばした。その瞬間強い風が吹き荒れ、紙飛行機は垂直ではなく上空へ飛ばされてしまった。
「あ……っ!」
フェンスを越えて落ちていく。ヨミはぎりぎりまで駆け寄り、紙飛行機が小さくなっていくのを静かに見ていた。
珍しく沈んで見えたので、また折ればいいじゃん、と声を掛けてやる。
「紙なんて部屋に腐るほどあるし」
ここは優しさで言ったのだが、依然として無反応な彼にイライラが募る。
ほんっとめんどくせーなこいつ!
立場は違うが、こっちの方が地団駄を踏みたくなる。ムカつくのでヨミの襟を後ろから引っ張り、強引に唇を塞いだ。
記憶を忘れても言葉が出なくても良いけど、思考をさっさと切り替える技術は持ってほしい。自分だけを見ろという気持ちで、わざと乱暴に口腔内を犯した。
「んっ……ふ」
脚を交互にもぞもぞ動かしているのが見えたけど、気付かないふりをしてキスを続ける。
こんな所を監視に見つかったらどうなるのか心配だったが、今さら引くこともできない。佇んだまま手を繋いで、ひとつになろうと藻掻く。
最近は彼も取り込めるような妄想に駆られている。中々面白そうだけど、やっぱ荷物が増えて大変か。
鼻先に冷たいなにかが当たる。次に頬、手。彼から離れて足元を見ると、小さな雫が跳ねていた。
「雨だ」
最初はぱちぱちと弾けていた雨が、大きな音を立てて降り注いだ。笑ってしまうぐらい一瞬でずぶ濡れになる。
二人で見つめ合い、言葉も交わさずに中へ戻った。
ようやくヨミから聞けた一言は「寒い」。幼児か、と思いながら浴槽に湯をためた。
先に入れと言いかけたが、やはり寒くて仕方ないので一緒に向かい合って入った。すごく狭いけど生き返る。
「あ~。久しぶりに風呂が有り難く感じた」
何故か端に風呂用の玩具があったので、湯船に浮かせてみる。動物の形をした、水鉄砲つきの玩具だ。ヨミに向かって水を噴射してみるけど、やはり無反応で非常に萎えた。
「お前は飛ばしっこの方が良いよな」と言いかけて、絶対伝わらない下ネタだと思い直す。ヨミとの毎日はこの連続だ。
ストレートに言わないと分からないから、ため息を飲み込んで言葉にした。
「触っていい?」
問いかけると、ヨミはゆっくり頷いた。まだ柔らかい、湯の中で漂ってる性器を握ってやる。案外滑って大変だったから、ちょっと強い力で扱いてやる。それが良かったようで、ヨミは小さく声を上げ始めた。
気分が上がったのか、ヨミもナオトのペニスに手を伸ばした。
無言で見つめ合い、無心で慰め合う。そういうエッチは初めてだ。
何だかんだで、ヨミとの生活は「初めて」が多い。
「く……っ!」
湯の中で出してしまったから飛ばしっこにもならなかった。二人して力尽き、互いの肩に顔を乗せて抱き合う。
……大丈夫?」
頬を撫でられる。見ると、ヨミの頬に雫が伝っていた。頭からぬれてるせいで、汗なのかお湯なのかも分からない。
でもどうでもいいや。……温かいから。
「大丈夫じゃない」
わざとそう答えると、彼はまた心配そうに抱き締めてきた。
その背中に手を回してしまうのは、もう反射的なものだ。