執筆:八束さん
地震のせいでぶちまけてしまったぬか漬けは雑菌が入ってしまったのか、結局うまくできなかった。
蓋が割れてしまったので新しい壺に替えようかと思ったけれど、そうしたらイクミくんがひどく自分を責めるであろうことがわかった。正直イクミくんが思うほどこの壺に強い思い入れがあるわけじゃないけど、イクミくんには自分を責めてほしくはなかった。
しかし漬物壺の蓋だけ、というのは、そう売ってるものじゃない。
悩んだ末、同じサイズの漬物壺をもう一個買い、そこから蓋を拝借することにした。新しい壺は今、野菜ストッカーになっている。
ぬか漬けを作ろう、と思い立ってからかれこれ二ヶ月。ようやくなすときゅうりのぬか漬けが完成した。
今日食べよう、と言うとイクミくんは、いつもより多くご飯をよそっていた。漬物のおかげで、以前と比べて健康的な食生活になった。
きれいに小皿に盛り付けたぬか漬け。
初めの一口は同じタイミングで口にした。
「美味しい。すごいよく漬かってるね」
「うん、美味しい」
なすを一口、きゅうりを一口、またなすを一口……無限ループに陥ってしまう。量を食べられるようになったのはいいけれど、塩分過多はよくない……と思ったとき、イクミくんがぽろりと言った。
「ヤヒロさんにも食べさせてあげたいなあ」
ヤヒロ。
そうだね、と応えたものの、何だろう。もやもやしたものが広がる。
イクミくんの記憶はそのまま、島にいたときから何も手を加えられていない。だからヤヒロのことを覚えているのは当然なのに、そのことを意外に感じている。島の外に出てから、イクミくんがヤヒロのことを話題に出さなかったからだろうか。
「ねえシバさん」
「ん?」
「シバさんは島に行ってるんだよね?」
「え、ああ……まあ……仕事だから」
「じゃあヤヒロさんにも会ってるんだよね?」
「会ってる、というか……」
「もし……もし会えたらでいいから、僕が作ったこれ、ヤヒロさんに渡してくれないかな」
適当なことを言って誤魔化すこともできたのに、何故か断ることができなかった。
薬と一緒に、ぬか漬けのタッパが入った紙袋。もし中身を見られてしまったら言い訳に困る。早くヤヒロに渡してしまおう。
しかし医務室に向かう途中から、不穏な物音が聞こえてきた。
引き返すべきだった、と気づいたときには遅かった。
「あれー、薬屋さん? ごめんねえ、センセイ今お取り込み中で」
「すみません出直し……」
医務室で全裸の男が二人。誰だろう……初めて会う彼と……ヤヒロ。
「大丈夫、もうちょっとで終わりますよ。ね、ヤヒロさん」
「あっ……あああっ」
甲高い声を上げて、ヤヒロが痙攣する。後ろから突かれていたヤヒロは、そしてどっと前に倒れこんでいた。
昔も幾度となくこんな光景を目にした。
ヤヒロは今もまだ囚われているのか。
ぞっとするのと同時に、やはり快楽に溺れているヤヒロは美しいと思ってしまう。
いけない。あの頃の思い出は封じ込めたはずなのに。
「よかったらあなたも混じります?」
「はっ?」
栗色の髪をした男は突拍子もないことを言った。
「いいですよ、センセイのナカ。試してみません? ああそれとももう、とっくにやったことあるのかな。ここに来る男はたいていヤヒロさんと関係があるから」
一体何なのだろうこの男は。何をどこまで知っているのか。冷や汗が背筋を伝う。
「たまには3Pってもよくないですか、ねえ、ヤヒロさん? たまには違うことしないと飽きちゃいません?」
死んだように動かなかったヤヒロが、パンッ、と彼の手を払いのけた。
「……そういうの、あなたには似合わないですよ尚登さん」
すると彼は両手をあげておどけてみせた。
「やっぱりヤヒロさんにはお見通しですか。そうです、ちょっとフィクサーぶりたかっただけです」
ヤヒロがのそりと起き上がる。
「……いつもの薬ですよね。置いていってください」
「あの、これ」
場違いだとは思ったけれど、紙袋からタッパを取り出す。
「イクミくんが初めて作ったから。ヤヒロさんにも食べてほしい、って」
「へええ」
ヤヒロより先に彼の方が近づいてきてタッパを覗き込む。
「すごい本格的な漬物。美味しそうですよ、ヤヒロさん。しかしヤヒロさんは本当に子どもたちから愛されてますよね」
何となく彼にはあまり見られたくなくて、紙袋の中に戻す。
「しかしイクミくんって……もしかしてあなたがあのイクミくんを引き取ったってひとですか?」
あのイクミくん……?
「……あなたもイクミくんを知ってるんですか」
「知ってるも何も、一緒にお散歩した仲ですから」
お散歩……
そういえばイクミくんは、一度島の外に出たことがあると言っていた。まさか彼が……。でもそれこそ一体何のために、だ。
すると彼は腹を指して言った。
「彼の面倒を見るのはなかなか大変でしょう? 俺みたいに噛まれないように気をつけた方がいいですよ」
見ると彼の腹には、刺し傷のようなものが見えた。
まさかイクミくんがやったとでも言うのだろうか。
「大変……どんな子でもそれなりに大変なんじゃないですか。イクミくんはいい子ですよ」
彼は意味ありげな笑みを浮かべた。
「そうですか。それならいいんですけど。あなたもヤヒロさんと同じ、子どもに好かれるタイプなんですね、『シバさん』」
桟橋まで出てようやく、息を吐くことができた。
自分がいたときから建物は改修が加えられているが、海だけは変わらない。
ヤヒロとはロクに話もせずに出てきてしまったが、またあの『尚登』とかいう男と身体を繋げているのだろうか。
変わってしまった部分とそれでも変わらない部分がヤヒロにも、この島のように同居している。
一方自分はどちらにも中途半端に足を掛けたまま。どっちつかずなのだ。
とりあえず今は早く家に帰ってイクミくんに会いたい。
そう、思った。