執筆:八束さん
朝起きて洗面を済ませたら、玄関脇の、漬物壺のところに行く。
シバさんはもう仕事に出ていて、いない。
ごとり、と、漬物壺の蓋をあける。
「おはよう、シバさん」
平日はほとんど、シバさんに「おはよう」と言えることがない。だからぬか床に挨拶をしていると、だんだん何だかそれ自体がシバさんのような気がしてくる。
底の方からかき混ぜると、なすが顔を出した。「おはよう」と取り出し、すりすりと撫でる。さらにかき混ぜると、きゅうりも出てきた。どっちもあともうちょっと漬けた方がいい。早く食べたいけれど、でもずっと壺の中にふたつ、並べて入れておきたい気もする。
なすときゅうりをくっつけてすりすりする。
名残惜しいけれどまたぬか床の中に戻そうと思って、ふと、ぬか床が水っぽいことに気がついた。ぬかを足した方がいいかもしれない。
食品棚のところに向かったとき、突如、グラッ、と揺れを感じた。
めまい……? いや、違う。グラグラグラ、と揺れは長く続いている。
(地震……っ!)
どうしよう、どうしよう、どうしよう……
どうしよう、ばかりで何をどうしたらいいのかわからない。とにかく揺れが収まってくれれば。でも願いとは裏腹に揺れはなかなか収まらない。
ガシャン!
耳をつんざくような音が玄関の方から聞こえてきた。まだ少し揺れているような気がしたけれど、怖さは吹き飛んでいた。それよりも大事なものがある。
(壺……!)
玄関に行くと、壺が転がって中身が外に溢れていた。その上中途半端に棚の上に置いていた蓋が玄関に落ちて、無残に割れてしまっている。
どうしよう……どうしようシバさんの大切なものが、どうしようどうしよう……
目の前が真っ暗になる。こんなんじゃまた嫌われちゃう。捨てられちゃう。あんな思いはもう二度としたくないのに。
揺れは収まったみたいだけれど、自分の視界はぐらぐらと揺れている。呆然と立ち尽くしていたそのとき、ピリリリリ! と携帯が鳴った。シバさんからだった。
島を出たときに、それまで使っていた携帯端末は没収されてしまったから、シバさんに新しく買ってもらった。これにはシバさんの連絡先しか登録されていない。
「シバさんっ」
ごめんなさい、と、言おうとして、でもうまく言葉にならなかった。しゃくりあげるだけになってしまう。
『イクミくん、大丈夫っ? さっき、大きい地震があったでしょ。怪我とかしてない?』
「僕は、大丈夫……でも……壺、が……」
『壺?』
「壺が……わ、割れちゃった……かき混ぜようとしたとき揺れて、それで、一瞬目を離しちゃって……ごめんなさい……」
『イクミくんのせいじゃないよ。それよりも、割れた壺にはさわっちゃ駄目だよ。玄関から離れて、ちゃんとスリッパを履いてて。どこに破片が飛び散ってるかわからないからね』
そうは言われたけれどそのままにしておくわけにもいかないので、そろそろと片付ける。一旦は壺の中に、溢れたぬかを入れ直したけれど、もう食べられないかもしれない。
割れた蓋の応急処置に、ラップをかける。
どれくらいそうしていただろう。
何もする気力がなくて、壺を抱えたまま蹲る。ぽたん、と、涙がラップの上に落ちる。
大切なものだったのに。
視界が滲んで何も見えなくなった、そのとき、
「イクミくん大丈夫っ?」
その声に顔を上げると、シバさんがいた。
「シバさん、どうして……仕事だったはずじゃ……」
「たいした用事じゃなかったからすぐ終わらせてきた。それよりもイクミくんの方が大事。どうしたの泣いて……地震、怖かった? それとも具合でも……」
「ごめんなさい」
「イクミくん」
シバさんの両手に両頬を挟まれる。おそるおそる見上げると、シバさんはいつもと変わらない笑顔だった。シバさんの瞳の中に、みっともない顔をした自分がいる。
「大丈夫だよ。イクミくんが毎日毎日大切に面倒みてくれていたことは知ってるから」
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
シバさんの顔を見て、今まで流れていた涙が一度引っ込み、でも、また違った種類の涙が溢れて止まらなくなった。
ごめんなさい。
シバさんは謝らなくていいと言ったけれど、他に言葉が出てこなかった。それと同時に、ごめんなさいと言いながらシバさんの胸に飛び込んで泣くことが少し、心地よかった。