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慈愛⑴

執筆:八束さん

 

 

 イクミくんを正式に島から出す手続きを取った。
 こっそり連れ出すことができないあたり、自分はやっぱりつまらない『優等生』なのだ。
「尚登のときはすぐに出られたのに」とイクミくんがぽつりと呟いた。
「ナオト?」
「前に島の外に連れ出してくれた、大人」
「島の外に……って、イクミくん、島の外に出たことあるの?」
 イクミくんはこくんとうなずいたきり、口を閉ざしてしまった。何となく深く訊いたらいけないような気がした。
 手続きは簡単に通った。
 イクミくんが施設にとって『有用』な人材ならば、きっとそうはいかなかっただろう。イクミくんには絶対真実は話せない。肝心なところは黒塗りされていたが、どうやら彼はある実験の『器』としてキープされていたらしい。しかし幸か不幸か、自我が芽生えた彼は『適合性』を失った。
『不適格』『破棄可』と書かれた彼の資料は見るに耐えない。
 島から追い出される被験者には必ず『処置』が施されると聞く。ひらたく言えば、島での記憶は消去される。イクミくんも当然そうされるはずだった。書類には処置をした医師のサインがある。けれど実際、彼の記憶は消されなかった。ヤヒロのサインをそっと指でなぞる。
 彼も大切なひとの記憶を消された。だからわかるのだろう、イクミくんの気持ちが。
 けれど、島から出て一週間経っても「ヤヒロさんヤヒロさん」と泣き続けているイクミくんを見ていると、いっそ記憶を消してやった方がマシだったんじゃないかと思えてくる。
「イクミくん、ご飯にしよう」
 子どもは皆大好き唐揚げ。けれどイクミくんは一向に食べようとせず、箸でころんころんと転がしているだけだ。宥めてもすかしても、彼はまともに食事を取らず、どんどん痩せ細っていっている。
「ちょっとずつでも食べていこう? ね?」
 促すと味噌汁の碗を一応口につけた。けれどちょっと唇を湿らせただけで置いてしまって、箸で具材をぐるぐるとかき混ぜているだけ。
 覚悟はしていたつもりだった。
 けれど、子どもと一緒に生活することがこんなに大変だとは思わなかった。いや、大変、というより、『想定していた』大変さ、に当てはまるものじゃない、ということが。
 今となってみると、どうしてあんなに切実に、イクミくんを引き取らなければならない、と思ってしまったのかわからない。ほとんど衝動に近い。周囲の人間からも散々驚かれ、あれこれ忠告されたが、確かにご尤もだ、と思う。自分も逆の立場だったら同じように忠告しただろう。消される寸前だった問題児を引き取るなんて、いつ爆発するかわからない爆弾を自分の首にくくりつけるようなものだ。
 どうしたものかなぁ、と、きゅうりの浅漬けをぼりぼり囓りながら嘆息する。
 ふと、イクミくんと目が合った。
 目……違う。
 イクミくんが、シバの口元を凝視している。
 もう一度きゅうりを箸でつまんで、ゆっくり口に入れる。ぼりぼりといい音が響く。
……やってみる?」
 漬物の載った小皿をイクミくんの方に押しやる。
 彼はぶすり、と箸で漬物を突き刺し、そして口に入れた。彼が食べ物を口に入れた、その貴重な瞬間を見られてまるで、ウミガメの出産を見られたときみたいに密かに興奮した。ウミガメ……は、たとえとしてちょっとおかしかったかも。まぁいいか。
「もっと食べていいよ」
 するとイクミくんは素直に、一個、二個、とぼりぼりやり始めた。
 結局漬物しか食べなかったけれど、これをきっかけに食べることに興味を示してくれたら。
 翌日、スーパーで三本入りのきゅうりを五袋買った。ひとり暮らしでは絶対買わない量だ。
「イクミくん!」
 帰ったとき、思わず興奮して大きな声が出てしまった。ソファでうずくまっていたイクミくんが、のそりと身体を起こす。
 シバが仕事に行っている間イクミくんが家でどう過ごしているのかわからないが、おそらく一日中こうやってじっとしているのだろう。慣れてきたらそのうち外に連れ出してあげたり、学校に行かせてあげたりもしたいが、それは身体と精神が安定してからだ。
「イクミくん、ほら、これ、何かわかる?」
 スーパーの袋をあけてみせる。
……きゅうり」
「うん、そう。きゅうりの漬物、一緒に作ってみない?」
「作る……
「自分で作った方が美味しいし、たくさん食べられるからね」
 嫌だ、と言われたらどうしようかと思ったけれど、「やってみない?」と訊くと、彼はこくん、と頷いた。
 攻撃的な性格だと報告書にはあったが、彼はとても丁寧に一本ずつきゅうりを洗ってくれた。
「これをね、二センチくらいの太さで切っていくんだ。おっきい方が食感がぼりぼりして美味しいから。切れる?」
「うん」
 包丁を持つ手がぎこちない。たぶん、今までに一度もこういうことをやったことはないんだろう。
……これでいい?」
「うんそう、上手上手」
 するとイクミくんが、ふっとはにかんだ。ここに来て初めて、彼の笑顔を見たかもしれない。
「あっ」
 順調順調……と思った次の瞬間、しかしイクミくんが指を切ってしまった。切り傷自体はたいしたことなかったけれど、ひどく動揺してしまっている。
「あ、あ……
「大丈夫。たいしたことないよ。傷口洗おうね」
 つとめて落ち着いた口調で言って、絆創膏を貼ってあげる。
「ほら、痛くないだろ」
「うん……
 丁度、切ったきゅうりを塩で揉んだあとはしばらく置いておく必要があったから、いい休憩になった。
 もう拗ねて作らないと言い出すんじゃないかと思ったけれど、シバより先にイクミくんは台所に向かって、
「シバさん、見て! きゅうりからこんなにお水抜けてる」
「うん、いい感じだね。じゃあ鍋に調味料を入れてくれるかな。一煮立ちさせよう」
 熱が中心まで通ったら、きゅうりを鍋から取り出す。煮詰めた調味液と、鷹の爪としょうがの千切りと白ごまを混ぜ、タッパに詰めていく。
「すごい、本当に作れるんだ、きゅうりの漬物」
「自分で作れると感動するよね。俺、料理するの好きなんだ。俺もひとりで暮らし始めた頃は本当、何もできなくて……。そんな中料理って、唯一、『自分ひとりでちゃんとできた』って実感できるものだったから。イクミくんにも料理、好きになってほしいな……って、俺もそんなにたいしたもの、作れるわけじゃないけど」
「もう食べれる? 食べていい?」
「まだ駄目。二、三日は味を染ませないと」
「え~っ」
「我慢我慢」
 タッパを冷蔵庫に入れる。
 イクミくんはいつまでも恨めしそうに、冷蔵庫を見つめていた。
 その晩。
 バタンバタン、という音で目が覚めた。冷蔵庫の扉が開け閉めされる音。
 そうっと台所に向かうと、イクミくんが冷蔵庫の扉をあけたまま佇んでいた。手を伸ばしかけ……でもフルフル、と首を横に振り、冷蔵庫の扉を閉める。それで部屋に戻るのかと思いきや、くるりと冷蔵庫の方に向き直る。庫内の明かりに、オレンジ色に照らされるイクミくんの横顔。そしてしばらくするとまた、冷蔵庫の扉がバタン、と閉じられる。
 大丈夫だ、と確信して、シバは部屋に戻る。


 誰がどう判断を下そうと、イクミくんは『不要』なんかじゃない。
 そして誰が何と言おうと、イクミくんはいい子だ。