執筆:七賀
お仕置きなどというのはくだらない建前だ。
力をつけた成犬を戒める理由に丁度いいだけ。それが“彼”の周りをうろつく子犬達への見せしめになるなら尚良かった。
手足をもぎとる寸前まで追い詰めたなら、彼はどうするだろう。最後の力で抵抗するのか、限界まで自分を抑圧するのか……そして、父のように壊れるのか。それを見届けるのも、実験の一環だった。
果てしない夢に浸かっていたとき、着信音が鳴り響いた。見覚えのない船が停泊しているので様子を見てきてほしいと連絡が入り、部屋に戻る頃にはすっかり興醒めしていた。
実際に確認に行くといつもの連絡船しかなかったし、業者は新人なのか、詳細を訊いてもろくな受け答えができなかった。
実験は成功しないのではなく、実施できないだけだ。進めようとしてもいつも必ず邪魔が入る。これが例えようもなく歯痒い。
階段を降りて部屋のドアノブを回すと、鍵が開いていた。確かに鍵を掛けたはずだが、ヤヒロが自分で開けて出ていったのだろうか。
奥まで向かうも、ソファに彼の姿はない。外へ出たのはそう長い時間ではないので、自力で逃げたなら大したものだと思ったが……
「元気そうだね」
ドアが半分まで開いた音がして、徐に顔を上げた。振り向いてもよかったが、目の前の窓ガラスで確認できた為、笑いながらソファに座る。先程までヤヒロが寝ていたせいか、座面はほのかに温かい。
「君がヤヒロを連れて行ったのかな。相変わらず彼にご執心だね、シバくん」
中途半端に開いた扉から射し込む光。それを遮るように新たな影が現れる。
こうして面と向かって会うのは何年ぶりだろう。青年になったシバは険しい表情で佇んでいた。正義感に溢れるものの臆病だった少年の姿はもうない。
「ご心配なく。島の外には連れ出してませんから」
「それは良かった」
と口では言いながら、彼にヤヒロを連れ去ることはできやしないと分かっていた。それをするだけの力も、覚悟も、まだないだろう。
ヤヒロも逃げられないと分かっている。彼が必要とする薬は、自分の意志でいつでも経路を潰せるのだから。
「貴方も相変わらずですね、教授。昔ヤヒロにしたのと同じことを、あんな子どもに……本当に悪趣味だ」
「誰の話かな? イクミくんかい?
彼はまた、ヤヒロととても似ているから」
ポケットから小さな鍵を取り出す。ずっと前と同じく、ゆっくり歩み寄って彼の掌に乗せた。
「これで開けられる。それが吉と出るか凶と出るか……私の知るところではないがね」
シバは未だ睨みながらも、その鍵をポケットに仕舞った。
「十年前、君はヤヒロの鍵を開けた。結果は?
君もヤヒロも幸せになれたかい?」
幸せなら、自信を持って使えばいい。わざと優しく告げると、彼は顔を歪めながら部屋の外へ出て行った。
何年もの間、ひとりの人を一途に想う。微笑ましく、羨ましい。もしかしたら、自分は子ども達に嫉妬しているのかもしれないと思った。
渡された銀色の鍵を見つめながら、深いため息をつく。
足取りは重いが、心臓だけはかつてないスピードで動いていた。敵に回してはいけない人だと、それこそ子どもの頃から知っているけど……島を出た後もどこかで監視されていたはずだし、怖気付くのは今さらだ。
学校から離れた施設な螺旋階段を上り、長い廊下を歩いた。全ての窓が開け放たれ、室内に潮風が運ばれてくる。
紙飛行機がよく飛びそうな風だと思った。窓いっぱいに広がる青空も昔と同じ。過去へ引っ張られそうになるのを振り払い、ドアノブを回した。学生の時は存在さえ知らなかった建物だが、ここがヤヒロの部屋らしい。
島を出て数年後、ヤヒロが学校の保健医になったことを知った。大人になった彼に会うのが怖かったのに、島へ戻る理由をつくる為に奮闘する自分がいた。それが正解だったのかどうかは、再会した今でも分からない。
シバは扉の鍵を掛け、窓際のベッドへ向かった。教授もここまで追いかけてくるほど野暮じゃないだろう。と、思いたい。
「ヤヒロ……ッ!」
張り付けていた仮面は、再び彼を見た途端に剥がれ落ちた。膝に床をついて、彼の顔を覗き込む。
「医者を呼んで手当てしてもらおう。頼めば絶対看てくれるから」
「……大丈夫です」
ベッドに寝かせていたのに、ヤヒロは上体を起こした。被せていた上着がひらりと落ち、真っ赤な肌が露わになる。教授の部屋から連れ出したものの、結局彼の自室までしか運べなかった。
この島に残る選択をした以上は覚悟していたが、ここまでやるなんて。甘く見ていたとしか思えない。
全身の傷はもとより、打たれた内部まで痛んでいるようだ。いざという時にまるで守れない、自身の無力さに腹が立った。
大人になればなにか変わると思ったのに、その考えすら愚かだったのだと日に日に思い知らされる。
「放っておけるような怪我じゃない」
「俺が医者ですから。心配してくれるなら、せめて放っておいてください」
肩に触れようとした手が止まる。当然だけど、十年前のようにはいかない。それにあの頃だって、本当の意味でヤヒロからシバを求めてくれたことはなかった。いつだって自分は教授が用意したトリガーを引くだけだ。
だからこそ、もう変わりたいと思った。せめて最後に……一度だけ。
どこにも触れず、顔だけを近付ける。避けようと思えば避けられるはずなのに、唇は簡単に当たった。その瞬間、頭からつま先まで忘れかけていた電流が駆け巡る。
「……せっかく忘れようとしていたのに」
彼のひと言ひと言が胸を突き刺す。けど不思議と高揚していた。ようやく彼が、自分の存在を認めてくれたからかもしれない。
「俺も……でも、気付いたら会いにきてた」
後頭部に手を伸ばし、胸の中に抱き寄せる。ここにいるヤヒロがどんな“彼”でも構わない。
傷ついた部分は避けて、そっと指で触れた。ヤヒロはくすぐったそうに、……どこか恥ずかしそうに身を捩った。何年も経った今では全く知らない大人の男の身体だけど、素直に愛おしいと思う。
気付けばヤヒロはベッドに倒れ、自分は彼の上に覆いかぶさっていた。特別なことは何もしてない。ただ触れただけ……それなのに、彼は背中を反らせてイッた。
「シ、バ……ッ」
乱れる呼吸。汚れた部分を引き取る。口元に手を添えると、瞼を伏せたまま、幼い子どものように頬を擦り付けてきた。
このまま抱き締めて、いっそ連れ去ってしまいたい。だけど一呼吸おいて、震える手を引っ込めた。
彼が島から離れる気がないのは分かってる。
横たわってる彼の上に布団を掛け、緩んだ襟を直した。次会いに来られるのは何週間後か、何ヶ月後か。考えるだけで気が遠くなりそうだ。
扉を閉める寸前、先程と同じ抑揚のない声が聞こえた。
「イクミ君をお願いします」
振り返らなくても、彼がこちらを見ていないことが分かる。だから自分も振り返らず、小さく頷いて部屋を出た。