執筆:八束さん
心配だから様子を見てきてほしい、という夫の言葉を思い出して、思わず笑ってしまった。心配……ね。まったくよく言ったものだわ。
目当ての場所は、どこにでもあるファミリーマンションの一室。チャイムを押すと、「はーい」と朗らかな声。けれどドアをあけて出てきた彼女は、誰の目にもあきらかにわかるほどに窶れきっていた。
飾り棚には家族の写真。出窓に活けられた花。おそらく手作りであろう、キルトのクッション。
「……理想的な家庭」
陳腐な言葉を呟いたそのとき、彼女が紅茶と、お茶菓子を持ってやって来た。
「あらごめんなさい、いいのよ、そんな、気を遣ってもらわなくたって」
「いえ、お客さまなんて滅多にいらっしゃらないから。嬉しくて」
「夜紘さんはあまりこちらには戻らないの?」
彼女がカップをソーサーに置く音が、カチャカチャ、と響いた。
「……って、ごめんなさいね。彼が戻れない原因を作っているのはうちのひとなのに。優秀だからついつい頼りにしてしまうって。でも彼にだって家庭があるのにね」
彼女はゆるゆると首を横に振った。
「あのひとは昔からそうでしたから。子どもができたら変わってくれるかと思ったんですけど……」
「お子さんおいくつだっけ」
「今年小学生になりました。今、学校に行ってます」
「そう。あっという間ね」
「ナオコさん。研究者って皆、ああいうイキモノなんでしょうか。私、あのひとの妻をやれる自信がなくて。だって何を見ても、実験動物としか思っていないような……私、のこと、も……」
「ヤヨイさん」
彼女の手の震えがどんどん激しくなって、とうとうカップの中身が外に零れた。慌てて立ち上がろうとした彼女の両肩を押さえて制し、ハンカチで零れた紅茶を拭いてあげる。
「すみません……」
「あなたちょっと、休んだ方がいいわ」
「染みが……」
「洗えば大丈夫だから」
「駄目なんです。落ちないんです。紅茶の染み。前もそう。あのひとの白衣を駄目にしてしまって。私がこんなだから、あの人が離れて行っちゃう。染みがどんどん広がっていくの。どんどん、隠して、あのひとを……」
「ヤヨイさん!」
彼女をぎゅっと抱きしめる。細い肩。ふわっと甘い香水のかおり。
「男って馬鹿ね」
思わずそう、呟いていた。彼女の心を解きほぐす意味もあったけれど、それはほとんど本心だった。本当に馬鹿。こんな素敵な女性をつらい目に遭わせて。
頭を撫でてあげると、彼女は肩を震わせて泣き始めた。頬を伝い落ちる涙を指で拭ってあげる。目が合った瞬間、吸い寄せられるように……そうしなければならないように……くちづけていた。彼女は少しも抵抗しなかった。深くくちづければくちづけるほど、面白いように力が抜けていった。胸を軽く揉むと、今までに聞いたことのない高い声を漏らした。あの鉄仮面は、一体どんな風に彼女を抱いたのだろう。情事中でもあの、研究以外のすべてが面倒くさいというような表情は変わらないのだろうか。
ブラジャーをずらすか完全に脱がしてしまうか迷ったところで、ホックがとうにはずれていることがわかったので、上着の下から引き抜いてしまった。きれいな形の胸が露わになる。透き通るような肌。彼女なら引く手あまただろうに、あんな男に捕まってしまったのが運の尽きだ。
「男が悪いのよ」
「ナオコさん」
「あなたは何も悪くない。あなたの魅力に気づかない男が悪いの。あなたが寂しがってることに気づかない男が悪いの」
すると彼女は、子どもが生まれてから一度も夫にふれられていないのだと訴えた。
ロングスカートをたくし上げ、太腿に手を這わせる。どこもかしこも吸いつくような手触り。普通だったら彼女に嫉妬していたかもしれない。けれど彼女は『実験動物』だから、特に何も感じない。
結婚を機に研究の第一線から退いたのは単に体力の限界だったからで、未知のものを暴いてみたいという、もはや呪いめいた探求心は、まだ自分の中から消えていなかったのだと気づく。醜いものほど、隠しておきたいものほど、暴きたくてうずうずする。
ショーツに指を押し当てる。逃げるような素振りをしていのは最初だけで、次第に自分から押しつけてくるようになった。想像でしかないけれど、何となく、夫としているときよりも大胆なんじゃないかと思った。
「ヤヨイさん、あなたはもっと自由になっていいのよ」
その言葉がトリガーになったかのように、彼女は滅茶苦茶に乱れた。ナオコがふれているのはほんの僅かな部分だったのに、まるで全身をまさぐられているように身悶えて、彼女はイった。
ぐったりした彼女を膝に抱いていると、ドアがあいて誰か入ってくる音がした。トタトタトタ、と軽い足音。子どもだろうか。
「ただいまー、お母さん……あれ……お客さん?」
「おかえり。……セツナ、くん?」
何で自分のことを知っているんだろう、と不思議そうだったが、少年が疑問を口にすることはなかった。
「……お母さん、どうしたの」
「お母さんね、ちょっと疲れて寝ちゃったの。だから静かにしてあげてね」
「ふーん……」
「ねえ、セツナくん」
まだ朦朧としている彼女を横たわらせ、少年の元に歩み寄る。しゃがんで、目線を同じにする。
「お父さんのところに来ない?」
「お父さんのところ……」
「お母さんねえ、しばらくひとりでお休みさせてあげた方がいいと思うの。お父さんのいる島は、いいところよ。ここよりお友達もいっぱいできると思うわ」
「お父さん……僕のこと嫌いじゃない?」
「どうして?」
「僕のこと嫌いだから、置いていったんだと思った」
「そんなことないわ。お父さんはお仕事に忙しいから、なかなかこっちに戻ってくる時間が取れないのよ。でも君が島にいったら、お父さんと遊べる時間だってたくさん作れるわよ」
「本当? 僕が行っても大丈夫?」
「本当よ。私、お父さんから頼まれてきたんだもの。君を島に連れてきてくれないかって」
「じゃあ……行く。お父さんが遊んでくれるなら、行く」
いい子ね、と頭を撫でてあげる。
父親の聡明さと母親の繊細さを併せ持っているように見える。父親は否定したがっていたみたいだが、誰がどう見ても二人の子だ。
「じゃあお父さんに連絡してくるわね。お母さんはそのまま、休ませておいてあげてね」
まだ紅茶が残っているカップを、さりげに台所に持っていき、カップを洗う。バレることはないと思うが、念のためだ。
またすぐ来るわ、と少年に言い置き、外に出る。出た瞬間、見計らったかのように携帯が鳴った。
「……もしもし。あなた、どうしたの。電話なんてかけてきてめずらしい。実験の結果? 何それ。私は部下思いのあなたに代わって、『様子』を見てきてあげただけよ。そんなに結果が知りたいのなら、自分の目で確かめたらいいじゃない」