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黒と緑[2]

執筆:七賀

 

綺麗なものが好きだ。だから美しい翠子さんが好き。
でも何故か、以前より汚いものに触れられるようになった。翠子さんが異常なまでに嫌うから尚さらかもしれない。洗面所の掃除もサニタリーボックスの片付けも、玄咲が積極的にやるようになった。自分しかやる人間がいないのだから当たり前と言えば当たり前だけど……汚いものを見るような視線を向ける翠子さんにぞくぞくする。

寮には大浴場があって、入りたい者は決められた時間に向かう。それが嫌な者は、部屋にある小さなシャワールームを使うことになっている。
玄咲は以前は月経時以外大浴場を使っていたが、翠子と同室になってから部屋のシャワーで済ませることが増えた。
それも、ほんの少し理由がある。
服を脱ぎ、すう……と肺まで空気を吸い込む。
ここについ先程まで、翠子さんが入っていたんだ。
翠子さんが座っていたバスチェア。腰を下ろすとそわそわする。彼女が自身の身体を洗っている姿を想像しながら、自身の身体を洗った。きっと最初は左腕、次に右腕、右脚、左脚……
最後に洗うのは、誰にも触らせたことがない秘所。スポンジを床に落とし、指を這わせる。
くちゅくちゅと、これまでと違う水音が響く。
快感……とはまた少し違う。翠子さんを思い浮かべているから、ちょっと高揚できるだけだ。特に意味はない。
ふっくらした胸も、柔らかそうな唇も、瞼を伏せると鮮明に思い出せる。
これがおかしいことだと分かってはいるけど、どうすることもできない。どうにかしようと考えるだけ無駄だ。そう気付いてからは、時折気紛れに遊ぶようになった。

熱い……
お風呂から出ると、翠子さんはもう布団に入っていた。まだ二十一時になったばかりだけど、彼女は一時間だけ勉強をしたらすぐに寝て、朝の五時に起きる。玄咲には真似できない。
ただ翠子が早く寝ようとするのは、玄咲を避けているから、という理由もある。
「翠子さん、私自販機で飲み物買ってくるけど……何か飲みたいものない?」
「いらない」
「そ。……おやすみ」
小さな小銭入れだけ持って廊下へ出た。少しのぼせてしまったかもしれない。頬が熱い。
歩く度に短い髪が靡く。猫のようにしなやかな影。
いつだって彼女のことを考えている。自分は、獣だ。
「あら」
ゴトン、とジュースが出てきたと同時に声がした。驚いて振り返ると、彩波先生が立っていた。
「もう寝るところ? それともこれから勉強?」
「あ……いえ、喉が渇いちゃって。少ししたら、寝ると思います」
「そう。……あら見て、今夜は満月」
廊下は全てガラス張りになっていて、空の景色がよく見える。暗い世界には美しい月が浮かんでいた。
「綺麗ですね」
「えぇ。ここにいる子達みたい」
彩波先生は薄く笑った。
「女の子はみんなお月様。大人になるにつれ変わっていくの」
「大人になったら何になるんですか?」
白衣が靡く。絹のような柔らかさ。馥郁とした香り。大人の女性の身体。
気付けば壁に押し付けられていて、息を飲んだ。
「蛹が必ず蝶になるとは限らない。ここにいる子達はほとんど、大人になると虫と同じ扱いを受けるの。本当に哀しい」
先生の胸が当たっている。細長くて白枝のような指が、玄咲の顎、そして唇に伸びる。まばたきすることも忘れて先生を凝視した。
缶ジュースを床に落ちる。
「先生も……そうなんですか?」
震える声で問い掛けると、先生は目を細め、顔を近付けてきた。
「そんな大人しい生き物じゃないわ」
ちゅ、と可愛らしい音が鳴る。頬に感じた温もりに驚いていると、先生は屈んでジュースを拾った。玄咲も慌てて屈み、ジュースを受け取る。
「温くなっちゃったわね。ごめんなさい」
「いえ……
スカートが短いせいで、下着が見えている。意図して視線を逸らし、再び立ち上がった。
彩波先生は翠子さんと同じで、息を飲むほど美しい。妖艶とは彼女の為にあるような言葉だ。
でもどこか近寄り難い空気を放っていて、声を掛けられるまでは声を掛けてはいけない気になる。
ああ、そう。魔女みたいだ。
先生の死期を……読み取ろうとしたけど、今度は視界が霞んでしまった。瞼を擦っていると、不意に頭に手を置かれる。
「玄咲さんはあまり感情を顔に出さないけど、分かる人には分かるから。思い詰める前に誰かに相談してね。私で良ければいつでも聴くから」
黙って頷いた。
欲しいものがある、と言おうとした。けどその言葉は喉元で止まり、視線を合わせるだけになる。先生は大人だ。大人は信用してはいけないもの。
先生は声もなく笑った。
「もう寝なさい」
……はい」
諦めて踵を返す。そういえば先生も《ギフト》を持っていたはずだ。先生の《ギフト》は何なんだろう。

部屋へ戻り、机にジュースを置く。翠子さんの机と並んでいるけれど、同じ時間に二人座って勉強したことはない。
ベッドを見やると、翠子さんは微動だにせず寝ていた。指でフレームをつくり、彼女を中心におさめる。本当に寝ているのか……寝息も聞こえないので、正直よく分からない。
例え眠れなくても、このひとは明日まで寝たふりを貫き通すのだろう。
そう思っていたから、最初は聞き間違いかと思った。
「玄咲」
滑らかな曲線が崩れ、翠子さんが身体を起こした。真っ黒な瞳はこちらを見つめている。
なんて愚かしく、愛おしい。
欲しい。そのままじゃなくていいから……母が玄咲の大量の薬にまみれて倒れていた時のように、息が止まる瞬間を感じたい。
母を独り占めにしたかった。けど母は男と関係を持ち、玄咲を残して出掛ける日々を続けていた。
どんな形でもいいから傍にいてほしかった。だから母の死期が分かった時も、あえて誰にも伝えなかったのだ。
心臓が止まれば、母は動かなくなる。ずっと自分の傍にいてくれる。
そう打ち明けると、「可哀想な子ね」と言われた。自分を施設に引きずっていったあの人は元気だろうか。
……翠子さん、どうしたの?」
特に役にも立たない記憶を分解する。努めて笑顔で言うと、彼女は眉ひとつ動かさず、ぬれた唇で呟いた。
「協力して」
電球色のテールランプが彼女に暖かみを与えている。中身はどうであれ、その色に見蕩れた。翠子さんは何色でもよく似合う。上手く調和していると言うより、翠子さんが、色を支配しているようだ。
時々、その色に取り込まれたいと願う。破滅しかないと分かっている道も、彼女が望むならついていきたい。彼女が砕け散る瞬間を目に焼き付けて、そしてあとを追えたら最高の気分だ。
「ここから逃げ出して、自分の家に帰りたいの。協力してくれたら、あんたの言うことを何でもひとつ聴いてあげる」
たとえ破滅しかなくても……構わない。
彼女と共にいれば、どうせ全て壊れるのだから。