執筆:八束さん
教授に何を訊かれても、知らないと首を横に振り続けた。
本当に知らないこともあった。けれど何故か本能的に、あの義手のおじさんのことは喋っちゃいけないと思った。代わりに尚登のことはちょっと喋った。これを機に教授にお仕置きされればいい。尚登だったらたぶん、どんなことをされてもしぶとく生き残りそうだし。
嘘がバレたらどんなひどい目に遭わされるだろうとびくびくした。下着を脱いで、と言われたとき、やっぱり、と覚悟を決めた。ヤヒロさん以外にふれられるのは嫌だけど、でも悪いことをしたんだからしようがない。
けれど教授は、パンツの代わりに硬いカバーみたいなものをおちんちんにかぶせると、服を着ていいよ、と、すぐ離れてしまった。何だかよくわからないまま、ズボンをずり上げる。これが『お仕置き』なんだろうか。モゴモゴして変な感じはするけれど……
目が合った瞬間、教授がフッと笑った。何なんだろう。
「ヤヒロの小さい頃を思い出すなと思って」
「ヤヒロさん……」
そういえばヤヒロさんはどこにいるんだろう。
「ヤヒロに会いたい?」
頷くと、おいで、と促された。
知らない廊下を通って、案内されたのは教授の部屋だった。ここにヤヒロさんがいるんだろうか。ドアをあけた瞬間、微かな呻き声が聞こえてきた。
「……っ!」
裸のヤヒロさんがソファでうつ伏せになっている。裸……というのが、一瞬わからなかった。背中一面が真っ赤になっていたからだ。赤い線が無数に走って、ところどころ血が滲んでいる。
「ヤ、ヒロさん……どうして……」
「ペットが粗相をしたらその後始末は飼い主がしないとね」
そう言うと教授は引き抜いたベルトをヤヒロさんの背中めがけて振り下ろした。ヒュッと空気を裂く音がして、思わず目を瞑っていた。ヤヒロさんの苦しそうな声が響く。
「やめて! やめてください、ヤヒロさんにひどいことしないで」
「どうして君がそんなつらそうな顔する必要あるのかな。よかったじゃないか、飼い主が全部責任を取ってくれるって言うんだから」
「やだ……そんなの、やだ。僕が全部悪いから。勝手に島を抜け出したりしたから。だからお仕置きだったら全部僕が……!」
「イクミ君」
ヤヒロさんがゆっくり顔を上げた。前髪の隙間から覗く目が、錐のように鋭く、冷たかった。
「君にできることは何もないんだ」
「ヤヒロさ……」
「とっとと出てけ」
出てけ! と、その声に圧されるように、よろよろと後ずさっていた。そうして二人は、イクミがもうそこにはいないように振る舞い始めた。
部屋を出る。バシンバシンと肌を打つ音。ヤヒロさんの悲鳴。その中に甘い色が混ざり始めたとき、たまらず駆け出していた。
嫌だ……
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
海の見える場所に来る。ほたほたほた、と、表面張力の限界を超えた涙が頬を伝う。一歩歩いてぽたり。また一歩歩いてぽたり。壊れた蛇口みたいに、拭っても拭っても涙が溢れる。とうとう拭うことを諦めてしまった。ぼやけていく視界。
ヤヒロさんに嫌われた。嫌われた。嫌われた。ヤヒロさんに嫌われたヤヒロさんに嫌われた。どうしようどうしようどうしよう。ヤヒロさんに嫌われたらもう生きていけないどうしよう。ヤヒロさんヤヒロさんヤヒロさん……!
ぐらぐらする。
たくさんの絵の具を滅茶苦茶に混ぜて、黒になってしまう寸前の、汚い、吐きそうな色で視界が塗り潰されていく。
とうとう立っていられなくて、その場にへたりこんだ。
ザン……ザン……と、海鳴りが聞こえる。
もう何もできない。したくない。それなのに何故だろう。どこからともなくニャアニャアと猫の鳴き声がして、それが何だかヤヒロさんの声に似てるなと思った瞬間、下半身に熱が集中し始めた。背中を打たれたヤヒロさんが仰け反った瞬間に見えた、ソファの染み。今になってその光景が瞼に甦る。あんなことをされても、ヤヒロさんはきれいだった。
手を下半身にやって、あっ、と気づく。変なカバーには鍵がついていて、どうやっても取ることができない。焦っている間にもそこはどんどん膨張してくる。
「う、うう……ああああーっ!」
「君、どうしたの? 大丈夫?」
誰もいないと思って叫んだつもりだったのに、誤算だった。
階段を上ってやって来たのは、スーツ姿の大人の男。見覚えがある。新しい薬屋さんだ。今のところヤヒロさんに変なことはしていないけれど、何かあったらまた追い出さなくちゃと思っていた。確か名前は……
「……シバ、さん」
言うと彼は一瞬だけ何か言いたげな顔をして……でも結局、言うのをやめてしまった。
「こんなところで大丈夫? 先生呼んでこようか?」
「いい!」
「でも……」
「いいったら、いい……」
伸ばされた腕を振りほどくつもりが、バランスを崩して彼の胸に倒れ込んでしまった。
あ……
それは初めての感覚だった。
あたたかくて、優しくて……安心する。ずっとこうしていたい……
ヤヒロさんとは違う大人にさわられて……
それなのに何故だろう。
嫌な感じがしなかった。