執筆:八束さん
教授は優しい。お父さんも優しい。
でもふたり一緒になると、途端に冷たくなる。
だからひとりのときに会う。ふたりきりになるとお父さんは、笑顔を見せることはないけれども邪険にすることもなく傍に置いてくれる。気が向くと勉強を教えてくれる。でもほとんど難しくてよくわからない。まったくデキが悪いな、お前本当に俺の子かと罵られるけれど、でも不思議とそんなに嫌な感じじゃない。
教授はふたりきりになると、とても気持ちいいことをしてくれる。初めは吃驚したけれど、でも不思議と抵抗はなかった。本当はずっと前から知っていたことを、思い出させてくれたみたいだった。
気持ちいいことは皆に教えてあげたい。
教授にされたことをお父さんに伝えた。するとお父さんの顔色がみるみる変わった。
淫乱、泥棒猫、やっぱりお前なんかうませなきゃよかった……
気持ちいいこと、は、いけないことなんだと知った。
でもお父さんも、毎晩のように教授と気持ちいいことをしている。ずるい。どうして僕も混ぜてくれないの。
ああ……そうか、お父さんと気持ちいいことをすればいいんだ。
でもお父さんはいつも苦しそうな顔をする。お前とすると、気持ちいいことも気持ちいいことじゃなくなる、なんて言う。
わからない。どうしてそんなことを言うんだろう。
「お父さんはもう、いっぱいいっぱいなんだよ」
教授が言った。
「だから君が、お父さんの代わりになってあげなさい。そのために君はお父さんの名前を貰ったんだよ」
だからお父さんと同じことをやったのに、お父さんに鍵を掛けられてしまった。
誰でもいい。誰か。苦しいのから解放してほしい。
困ったお父さんだね、と、教授は言った。お父さんは私に依存しすぎなんだ。だからちょっと距離を置かなきゃいけない。
そう言われると確かに、いつでも教授教授、って、教授しか見えていないお父さんはおかしいのかもしれない。
僕が教授と話していた、というだけでお父さんは鬼みたいな形相で首を絞めてきた。
どうして皆、急に怖く、なるんだろう。
そういえばシバもそうだったな。
皆、初めは優しいのに、急に怖くなるんだ。
暴力は嫌だ。でも苦しいのも嫌で、無我夢中で暴れて、お父さんを突き飛ばした。
「お父さんは教授に『いぞん』してるんだよ」
教授が言っていたことを思い出した。自分にばかり依存しているお父さんのことが心配だって。だから教えてあげなきゃいけない。
「何だって?」
「教授言ってたよ。お父さんはいぞん、してきて困る、って。そろそろ離れてもらわないと困る、って」
「……はっ」
お父さんは大きく息を吐いて言った。
「どの口が言うんだよ」
「お父さん?」
「依存しまくってるのはお前の方じゃないか。教授が駄目だったらヒロト、ヒロトが駄目だったらシバとかいうガキ……で、次は誰に頼るんだ?」
「ヒロト……」
そういえばシバも言っていた。カジヤヒロト、とかいうひと。彼は一体……
「ヒロト、って、誰……」
するとお父さんは何故かとても愉快そうに笑って……
「ああそうか、記憶消されてしまったんだもんなあ。丁度いい、思い出させてやるよ」
無理矢理薬を飲まされた。
そうして手を引っ張って、どこかに連れて行こうとする。学校とも寮とも違う。生徒は立ち入りを許されていない建物。その地下深く。暗い。暗い。そのまま沈められて、二度と日の光を浴びることが許されないような恐怖を感じる。
牢屋みたいな部屋。所狭しと並んだ薬瓶。床や天井に張り巡らされたコード……
「あ……」
今までずっと、『気配』は感じていた。見ることはできないけれど、そこにあるんだろうなという気配。過去の気配。けれど、今、そこにつながる扉を見つけた。鍵が嵌る。ドアノブが回る……
ヒロト……
ヒロト……ヒロト、ヒロト、ヒロト……!
あれ……どうして忘れてしまっていたんだろう。こんな大切なこと。ヒロト。大切なひとのこと。どうして。二度と離れたくなんてなかったのに。どうしてここにヒロトはいないの。どうして自分だけこんなところに取り残されて。
「ヒロト……ヒロトはどこっ? 嫌だ……何でこんなところに……戻らなきゃ。ヒロトのところに戻らなきゃ……!」
「戻れるもんか。お前は捨てられたんだから」
「嘘!」
「ああめんどくさい。やっぱり記憶を消すなんて面倒なことをするんじゃなく、存在ごと消してしまえばよかった。そうしたらいつまでも教授とふたりきりでいられたのに」
「教授……教授は知ってるんだよね? 教授に言えばヒロトのところに……ひっ」
「檻の中に閉じ込めておけない実験動物に何の意味があるんだよ」
お父さんの手にはナイフが握られていた。
怖い。いや、わからない。何が起きているのか、起ころうとしているのか。わからない。わかりたくない。
お父さんはどうしてこんなに僕のことが嫌いなんだろう。
どうして? いい子にしてたつもりだったのに。何も悪いことなんてしていないのに。何が正解なのかわからない。どうしたら好きになってもらえるんだろう。お父さんに好きになってもらえたら、それだけでよかったのに。
「ヤヒロ……ふざけるな。ヤヒロ、なんてどこにもいないんだよ。お前なんて存在しちゃいけない。教授に愛されるヤヒロ、は、俺ひとりで十分だ!」
「いやあああっ!」
無我夢中で暴れて、お父さんの腕に噛みつく。お父さんの手からナイフが滑り落ちたので、それを拾って駆け出した。
ヤヒロ……
そうだ、思い出した。この名前は、ヒロトから貰ったんだ。新しく生まれ変わるために。決してお父さんの代わりになるためなんかじゃない。
どくんどくんと、心臓が嫌な感じに脈打っている。
もし教授がいなかったら……
教授がいなかったら、お父さんはあんな風にならなかったんじゃないか。自分の記憶が消されることもなかったんじゃないか。全部、全部、教授が……
「教授……!」
教授の部屋に向かう。
「ノックもしないで入ってくるなんて珍しいね」
大きな椅子に座っていた教授が、椅子ごとくるりと振り返る。
「ヒロトのところに帰りたい」
教授は何も言わない。探るような目でこっちを見てくる。
「帰りたい……僕、何でこんなところにいるの」
だから鍵なんてかけるべきじゃないんだ。どうせいつかはあけられてしまうんだから……と教授はひとりごちた。何を言っているのかわからない。皆、わからないことばかり言う。
「どうして……どうして僕、今までヒロトのこと忘れて……教授が……教授が消したの……?」
「ああ、そうだよ」
そんなにすんなりと肯定されるとは思っていなかったから、感情の持って行き方に困った。
「どうして……」
「だって、つらいことは忘れてしまった方がいいだろう? 現に今まで、ヒロトのことを思い出さなくても何も困らなかったじゃないか」
「違う……」
記憶がない、というのは、ただそのことだけを失った、というのとは違う。パズルのピースみたいに、ただひとつを抜き出せばいい、というものじゃない。それらは網目のように絡み合って、どこかで繋がりあっている。破けた服を繕うみたいに。目立つ穴をいくら埋めても、それはもう、以前とは同じものにならない。記憶の継ぎ目には負担が生じて、またそこから裂けていく。その感覚を、このひとは知らない。知らないんだ。
「どうして嘘ついたの」
「嘘?」
「僕の名前……僕の名前はヒロトから貰ったものだったのに」
「ああ……だって、あまりヒロトを縛りつけちゃ可哀想じゃないか」
縛りつける……?
「君の記憶を消すことは、ヒロトも了承したことだよ」
「え……」
そう言うと教授は、一枚の紙を差し出した。書かれている内容はよくわからなかったけれど、最後にヒロトの署名があった。
「一応、『保護者』に了承を取らないといけないからね」
「嘘……」
「ヒロトは君の存在が重荷になったんだ。君を引き取る以前に戻りたいって」
「嘘……嘘、嘘、嘘!」
「そうだよね、こんな事実、知りたくなかったよね。でも知ってしまったら最後、知らなかった頃には戻れない。……また、消してしまわない限り」
椅子から立ち上がって、教授が近づいてくる。頭の中でガンガンと警報が鳴る。反射的に後ずさっていた。
「さあおいで。また楽にしてあげるから」
「い……いや……」
「また消してあげる」
消したら……消したら忘れられる。全部。嫌なことも……いいことも。
シバ……
唐突に、シバのことを思い出した。
初めてできた友だち。シバのことも忘れてしまう……
「そんなの嫌だ!」
ナイフを持った手を振り上げていた。
「教授!」
その瞬間、一体何が起こったのかわからなかった。
教授との間に割って入ってきたお父さんに突き飛ばされた。お腹を押さえて、お父さんが倒れ込んだ。
お父さん……
お父さんの白衣が真っ赤に染まっていく。
教授に手を伸ばすお父さんを、教授は黙って見下ろしている。
赤い……どうして……どうしてお父さんは倒れてるの……どうして僕の手も赤く……僕が……僕がお父さんを……嫌だ……夢だ……こんなの、悪い夢だ……悪い……
*
……悪い夢を見た。
夢……そう、あれは夢だ。
夢だからどんな支離滅裂なことが起こってもおかしくない。
自分は父を殺してなんていない。父は自分で命を断つことを選んだのだ。教授の愛に飢えて。いや、それさえもよくわからない。父が何を考えていたかなんてどうでもいい。今、父はいない。それだけの事実で十分だ。
イクミが、いなくなったらしい。猫のように。
今はまだ隠し通せているが、長引けば騒ぎになるだろう。監督責任を問われるのは面倒だが、それならそれで構わないと思っている自分がいる。ここではないどこか。彼にとって生きやすい場所を見つけられたのなら。
記憶をいっそリセットしてやった方がいいのではないかと思ったことはある。間違った感情を蓄積させている彼を見ていると。しかし一度で済めばいいが、記憶を弄ることは『癖』になる。現実と向き合う力がどんどん衰えていく。継ぎ接ぎだらけの記憶を抱えて生きることの苦しさは自分が一番よく、知っている。
不規則で不連続な記憶の継ぎ目がキシキシと鳴る。
どうせ消されてしまうから。
だから誰も好きにならない。
誰にも、何も求めない。
そう決めて生きてきた。
どうせ会えなくなってしまうから。
だからもう、会いに行くのはやめよう。
ヒロトさん。
瞼を閉じる。瞼の裏に思わず浮かんでしまった面影を消すように目をあけたとき、ガラリと医務室の扉があいた。新しい業者が来たらしい。もう何人目だかわからない。退屈しないのはいいが、またイチから懐柔しないといけないのは面倒くさい。
「初めまして、先生」
その声に振り向いた瞬間、『彼』が一瞬だけ、あっ、と驚いた表情をしたのがわかった。
ヤヒロ……
声は出ていなかったが、彼の口元がそう、動いた。
問い質すこともできたはずだ。しかし彼は、呑み込むことを選んだ。だから自分もそうすることを選んだ。
あの頃と変わらない、彼の真っ直ぐな声。
「橋場(ハシバ)と申します。これからよろしくお願いいたします」
忘れたフリをする。それが彼に対して自分ができる、唯一のこと。
最大限の誠意を込めて言う。
「初めまして」