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児戯⑸

執筆:七賀

 

 

目覚めた時には尚登がいなくて、義手のおじさんはまだ眠っていて、現れたのは昨日の二人だった。
クレハ……さんは「これすごい美味しいんだよ」と言って、パンが大量に入った袋をテーブルに置いた。すごく人気で並ばないと買えないんだとか色々話していたけど、一個食べたらお腹いっぱいだった。味自体は、学校で食べるパンとは比べ物にならないぐらい美味しかった。
クレハさんと、サクヤさんの三人で朝食をとる。尚登がいないことが気になったけど、またひょっこり出てくるだろうと思って無視した。
「茶髪のおじさんは食べないの?」と訊くと、二人は目を丸くして互いに見合わせた。イクミが気にしている人物が誰なのか分かると、クレハが笑いながら手を振った。
「あれ、会ったの? ……へーきへーき、後で俺達が持っていくから」
それ以上は何も言わず、また食事を再開した。おじさんはいつも昼まで寝てるのかもしれない。それだけ分かれば充分だ。

尚登は外を見た方がいいと言ったけど、おびただしい数の人が暮らしていること以外は何も分からなかった。
帰りは港まで二人が送ってくれた。やはり尚登の姿は見えない。自分の為に用意されていた小さなボートには操縦士が一人乗っていた。
もう帰るなんてつまんないなぁ……と思っていたら、不意に可愛らしい声が聞こえた。見れば小さな猫がイクミの周りを何周もしている。
「猫だ!」
「猫だね」
人懐っこい猫で、イクミが抱き抱えると嬉しそうに擦り寄ってきた。 
初めて会ったのに、以前もどこかで会ったような錯覚を覚える。この匂い、手触り……いつだったか、毎日のように猫に触れていた気がする。
離したらいけない。考えるより先に口を開いた。
「連れて帰る」
「えぇ? でも、島に動物診てくれるところなんてないでしょ? 餌とかどうすんの?」
「大丈夫だよ。だって前も島で猫見たことあるもん。探せば食べるものもあるし、何とかなるよ!」
そうだ。島でも生きられる。
猫の面倒を見ていたことがあるんだ。でもそれはいつだっけ。どこで見て……最後はどうしたんだっけ……肝心なところが、よく思い出せない。
イクミが猫を連れて帰ると言って聞かない為、二人は小さなため息を吐きながら了承した。
四人と一匹が乗り込んだボートのエンジンは大きな音を立てている。猫が怖がらないよう膝の上に乗せ、パーカーで軽く体を覆った。コックピットからクレハさんが顔を出す。
「学校の先生に怒られても知らないよー?」
聞こえていたけどエンジンの音で聞こえないふりをして、猫とじゃれ合う。その様子に呆れて、二人はイクミから見えない位置へ移動した。
「2ストロークの中古のエンジンってすっごいうるさくて嫌いだよ」
「良いじゃん。まだ島に着くまで時間あるし、むしろ好都合でしょ」
イクミがそっと移動したことにも気付かず、二人は密かな行為を始めていた。
猫のように忍び寄って、下方から二人の足……それよりさらに上に視線を向ける。一見ただ突っ立っているだけに見えるが、クレハがサクヤのズボンに手を差し込んでいる。サクヤは務めて無表情で海を眺めている。
エンジンの音が全てをかき消しているのに、クレハが手を動かす度に幻聴が聞こえた。くちゅくちゅといやらしい音が響いて、サクヤが小さく喘いでいる。
やっぱりそういう関係なんだ、と納得がいった。それが分かれば満足で、もう興味はない。サクヤがたまに肩を震わせる瞬間を見ながら、猫を抱き締める。
「君は気持ちいいこと好き?」
優しく問い掛けると、猫はにゃあ、と鳴いた。

ズボンから引き抜いた手に、白い液体がついていた。クレハは手際よくハンカチで拭いて、イクミの元へやってきた。まさか全部見られていたとは知らず、サクヤも冷めた顔で隣に並ぶ。
島に着くのはあっという間で、誰もいない桟橋に猫だけ抱えて降り立った。二人はボートの上から別れの挨拶をした。
でも、いよいよ、というところでサクヤさんがなにかを手渡した。
「尚登さんから。君にプレゼントだって」
茶色の小瓶に小さなラムネが数粒入っている。
「全然入ってない」
「まぁ、たくさん食べるものじゃないから……じゃない?」
サクヤの微妙な言い回しと、クレハの微妙な表情が面白かった。
お菓子は少ししかない。でもせっかくだし、貰えるものは貰っておこう。そうだ、なんならヤヒロさんにあげようかな。
「あと、これは俺から。……ナオトさんに取り上げられたみたいだけど、ないと困るんじゃない?」
ずしん、とナオトの肉を割いたものを受け取る。
ナイフってこんなに重かったっけ。クレハさんがなにか言いたそうにしていたけど、また取り上げられる前にポケットに入れた。
「じゃあまたね、イクミ君」
「うん」
船影が見えなくなってから学校に戻った。尚登と違って、猫は鳴くなと言っても鳴いてしまう。部屋に連れて帰りたかったけど、諦めて放置状態の納屋に連れて行った。
「夜にまた来るね」
猫の頭を撫で、戸をしっかり閉めてから出た。寮へ着くやいなや、何故か教師達から体調は大丈夫かと訊かれた。昨晩イクミが部屋に居なかったのは、体調を崩して医務室に泊まっていたからだと、ヤヒロさんが説明したらしい。
ヤヒロさん。たった一日二日会わなかっただけなのに、とても懐かしく感じた。
海を渡った時より島にいる時の方が恋しくなるなんて不思議だ。どう頑張っても会えない距離にいるなら諦められるのに、近くにいるのに会えない方が辛いんだ、と初めて知った。
一日の授業が終わって生徒達が自分の寮へ帰る頃……ヤヒロさんに会いに保健室へ向かった。でもヤヒロさんはいなかった。はぁ……
自分の部屋に戻る気にもなれず、三つあるうちの一番奥のベットに寝転んだ。周りの世界を全てシャットアウトするように、シーツを頭まですっぽり被る。でも久しぶりに空腹感を覚えて、さっき受け取ったお菓子を噛み砕いた。
もう夜まで寝よう。夜まで待って、ヤヒロさんが戻ってこなかったらナナの様子を見に行こう……
そう考えて、「ナナ」って誰だ、と自問自答する。
ナナは……人じゃない。えっと……そうだ、猫だ。何でそんな大事なことを忘れていたんだろう。
真っ暗な世界で、猫の鳴き声が聞こえる。
ずっと気にかけていたナナは死んだと思っていた。でも本当は違くて、貨物船に紛れて外へ出て行ったんだ。
それを教えてくれた人がいた。でも、教えてもらったことも忘れていた。記憶を消されてしまったから。
誰に……
急速に思考を始めた時、息苦しさを感じて目を覚ました。痛い、苦しい。光のない部屋で、誰かに首を絞められている。
抵抗しようにも力が入らず、手足は簡単に封じられてしまった。首を絞める力は容赦がないのに、不意に頬を撫でる手つきはとても優しい。
「おかえり育海君」
殺されるかもしれない、という恐怖が込み上げる。もう何度目か分からない恐怖だ。以前も全く同じ状況に陥ったことがある。やっぱり、に押さえつけられて。
「お……じさん……っ」
視界を覆う大きな影。目が合うと、彼はさらに顔を近付けて笑った。
「知らない匂いをつけて帰ってくるなんて悪い子だね。外で誰に会ってきたのか、素直に話すまで躾してあげよう」