執筆:八束さん
行かせない。
大人たちの元へ。ヤヒロを、絶対。
でも、薬を使って引き留めている時点で、自分も同罪なんじゃないか。
薬を使うと、何でもいうことをきいてくれる。その瞬間だけは確実に自分のものになる。でも自分はどうやら、そんなことで喜べる性格じゃないみたいだ。そうだ。大人たちとは違う。
でも一体どうやって伝えたらいいんだろう。
真正面から伝えたら、きっとヤヒロはショックを受けてしまう。いや、そもそも信じてもらえないかもしれない。自分だって信じられないのだから。
でも、彼らは一体何が目的なんだろう。どうして選ばれたのがヤヒロだったんだろう。それにあのとき教授は、親子……がどうこう、とか、言っていた。まさか保健の先生がヤヒロの父親なんだろうか。いや、親子で同じ名前というのも不自然か……
また、夜が来る。
使わない、と決めても、つい薬に手が伸びてしまう自分が自分で嫌になる。
小瓶を握りしめ、外に出た。
寮を抜け出し、海の見える場所まで来る。少し前まではヤヒロとよくふたりで訪れていた。紙飛行機を飛ばしたり。寝っ転がって流れる雲をただ眺めていたり。そんな、何てことない時間を共有できるだけで幸せだったのに、いつからこんな欲深になってしまったんだろう。
夜の闇の中だと、目の前に広がっているのが本当に海なのかどうか信じられなくなってくる。ザン、ザン、と打ち寄せる波音でそう分かるだけで、本当は別の世界への入口になっているんじゃないか。海風で、肌がじっとりと湿る。
意を決して、小瓶を海の中に放り投げた。音は何も聞こえなかった。それでいい。うっかり波間に漂っているのを目にしたりしたら、我慢できず飛び込んでいたかもしれない。
やることはやり終わったのに、足が地面に縫い止められてしまったみたいに、動かせない。分かっていた。薬を失ってしまった自分はとても無力だ。また、為す術なくヤヒロを見送るしかなくなる。ため息をついたとき、
「シバ」
声がした。
振り向くと、息を切らしてヤヒロがこちらに向かってくるのが見えた。
「ヤヒロ……どうして」
「それはこっちの台詞。なかなか戻ってこないからどうしたのかと思って。でもシバの行きそうなところはすぐに検討がついたけど」
「ヤヒロ……」
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「ヤヒロ!」
たまらず抱きついていた。
「わっ、ちょっ……」
「どこにも行くな。頼むからずっと傍にいて」
「どこにも……って、他にどこにも行きようないじゃない。どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「具合ならずっと悪い」
握りしめる力をぎゅっと強くする。
「ヤヒロと出会ってから、俺はずっと、おかしい」
「シバ……」
一度大きく息を吐き、距離を取ってあらためて向かい合う。
「好きだ。だからどこにも行かないで」
言ったことでもうほとんど満足していた。だからヤヒロが「僕も」と呟いたとき、喜ぶ準備ができていなかった。
ヤヒロにふれる。ふれている、という実感がある。頬にふれていた手を下の方に滑らせる。
「嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
「前に一度拒否られたから」
「拒否った……というかいきなりで吃驚したというか。シバの気持ちが分からなかったから」
「気持ち?」
「からかわれてるんじゃないかって。本当に好きでしたいと思ってくれているのか……」
「本当に好き」
言葉にすると安っぽくなるな、と思ったけれど、ヤヒロは「だったら嬉しい」と微笑んでくれた。
キスを重ねるたびに、「好き」という気持ちを送り込んでいるような気がする。
「んっ……んん……」
キスをしながら、服を脱がせる。素直に反応を示している前を握り込む。強弱をつけながら優しく育てていく。
「シバ……っ」
「ん?」
「何でそんな上手いの」
今まで散々やったことを見透かされたみたいで、どきりとした。
「ヤヒロだって」
脚を抱え上げ、後ろの穴に指を這わせる。
「何でここもう、こんなにぐずぐずにしてんの」
「好きだから」
同じ言葉でもヤヒロが言うと、血が通った言葉に聞こえる。互いの「好き」を交えるように、身体を交える。熱も、声も、においも、全部全部自分だけのものにしたい。
堕ちていく。
おちていく。
オチテイク。
あれ。
どうしてだろう。おかしいな。悪いことはしていないはずなのに。いや、悪いこと……かもしれないけど。でも、ヤヒロを好きだってこの気持ちは、決して悪いものなんかじゃないはずだ。それなのに……
下に降りる階段に一歩、足を乗せたら、ぐん、と、自動的に、あっという間に、光の差さない場所まで運ばれてしまったみたいだ。
授業が終わったらすぐ寮に戻って、時には寮まで我慢できずにビオトープの影で、使われなくなった納屋で……ヤヒロを求めた。一度近づいてしまうともう、駄目だった。もう離れられない。授業が終わったあと、友だちと何か笑顔で話しているヤヒロを見ただけで、ぞわぞわと落ち着かない気持ちになった。何で。何でだよ。何で、いつの間に俺以外の奴と仲良くなってんだよ。教室の扉にもたれかかって、わざとらしく足を踏み鳴らしてみた。でもヤヒロは友達と喋るのに夢中で、一向に気づいてくれる気配がない。痺れを切らして、大股で歩み寄る。途中、思いきり机にぶつかった。結構派手な音がしたのに、それでもヤヒロはこっちを向かない。
「ヤヒロ!」
「……あ、シバ」
あ、じゃない……!
でもクラスメイトがいる手前、そのいらいらをぶつけるわけにもいかない。
「何やってんだ。早く帰ろう」
「あ……ごめん、シバ、先に帰っててくれる?」
想像していたのとまるで違う答えが返ってきて、横っ面を張られたように目の前がチカチカした。
「何で……」
「ちょっと、さっきの授業でわかんないところがあって……」
「俺が教えてやるから」
「いや、あの、わかんないのは彼の方で……だったらシバも一緒に……」
「悪いけど今度にしてくれる? 俺の方が先にヤヒロと約束してたから」
「シバ、ちょっとどうし……っ」
ヤヒロの腕をつかんで強引に立たせ、引っ張った。そのままずんずん歩みを進める。
「ちょっとシバ、待って……!」
廊下を行く途中、何人かに振り返られた気がしたが、かまわなかった。早くヤヒロとふたりきりになりたかった。
「シバ、一体どうしたの、何か怒ってる? シバ……あっ!」
どうした? 怒ってる? 今さら訊くな、と思う。何でわかってくれないんだ。
納屋に連れ込み、押し倒した。隅で隠れていたらしい猫が、シャッと目の前を横切って外へ出ていくのが、視界の端に見えた。
「やだっ、そんな、急に……っ、お願い、シバ……、シバっ!」
駄目だ。取り返しがつかなくなる。それでも何故か止まれない。むしろヤヒロが苦しそうな顔をすればするほど、興奮してくる。もっともっと泣かせたくなる。
怒りはもうとっくにおさまっていた。今シバを突き動かしているのは、完全なる欲だ。
細い腕を押さえて、馬乗りになる。
どこまでもどす黒くよごしてやりたい。
涙が目尻から溢れて、耳元まで流れ落ちていくのが見えた。流石にやり過ぎたかと思った。でもふと見ると、ヤヒロのものはしっかり反応している。
「こんなことされても感じるんだ」
それはただ、本当に、率直な感想だった。でもヤヒロには、揶揄のように聞こえたかもしれない。違う、という風に、首を横に振っている。
「つーか、結局は、誰にされても感じるんだろ」
「そんなこと、ない……っ、何で急にそんなこと……っ」
「知ってんだからな。教授や先生ともやらしいこと、やってただろ。今度は何。クラスの奴らを食おうっての。一体ちんこ何本咥え込んだら気が済むんだよ」
「し、てない……っ! そんなことしてない! シバだから……こんなこと、シバじゃないとできない……!」
「嘘つけ!」
ヤヒロが気持ちよくなってるかなってないかなんてもう、どうでもよかった。激情を叩きつけるように射精していた。ヤヒロは両手で顔を覆っている。その手は小刻みに震えていた。
カチリ。
耳の奥で突然、硬質な音が響いた。
鍵をかける音だ。
ああ……
そうか、鍵をかけてしまえばいいんだ。
閉じ込めてしまえばいいんだ。
誰にもふれられないように。
何故あんな醜悪なものをつけられていたのか。初めはワケがわからなかった。ヤヒロを戒めている誰かがいるのだとしたら、そいつをぶん殴ってやりたかった。自由にしてやりたかった。けれど今、『そいつ』の気持ちが手に取るようにわかる。
鍵をかけて。閉じ込めてしまいたい。自分しか見ないように。自分の声しか聞けないように。自分の熱しか感じられないように。
気づけばヤヒロはぐったりと動かなくなっていた。
一瞬、壊してしまったんじゃないかと怖くなって、でも胸が、僅かではあるけれども上下していることにほっとする。
ヤヒロの中から引き抜くと、とぷとぷと白い液体が溢れ出た。自分が吐き出したものだということが信じられなかった。それがコンクリートに染みこんでいくのを呆然と眺めていると、
「にゃあにゃあと……発情した猫でも居着いているのかと思った」
突然扉があいた。振り返り見ると、そこにいたのは夜紘先生だった。
やばい。この状況がやばいことはわかる。でもどうしたらいいのかわからなかった。白い液体はしつこく地面を汚し続けている。
「まぁ発情した……ってのは間違っちゃいなかったな。しかし君か、こいつを自由にしたのは。鍵は? アレには鍵がかかっていただろ。一体どうした。まさか君みたいな優等生が勝手に盗……」
「貰ったんです!」
教授のことを言っていいのかわからなかったけれど、泥棒の濡れ衣を着せられるのはたまらない。
「貰った?」
「教授、に……。必要なときが来たら使えばいい、って。初めは一体何のことかわからなくて……」
「教授……ふうん……」
何か気に障ることでもあったのだろか。先生は親指の爪を噛んでいる。その様子はひどく子どもっぽく見えた。そういえば教授と先生は一体どういう関係なんだろう。いや、それ以前に……
「どうしてヤヒロにあんなひどいことするんですか」
決死の覚悟で訊いたのに、先生はフッと鼻で笑った。
「これ以上被害者を増やさないためさ」
「被害者……」
「隙あらば股をひらいて男を誘う。こいつと交わった奴は皆どこかしら『おかしく』なっていくんだ。昼間は清純そうで気が弱そうだから余計に騙されるんだろうな」
今度はクラスの奴らを……
半分以上は怒りにまかせた出任せだったけれど、あながち出任せではなかったということに、慄然とする。
「だからちゃんと管理していたのに。まったく教授は罪なことをする。でもまあ、君は自分自身の意思で鍵をあけたんだから、自己責任、だよな」
「そんな……」
「こっちとしては助かったよ。こいつの相手をするのもいい加減面倒でね。新しい『飼い主』が見つかったならそれに越したことはない」
ありがとうシバ君、と、先生に肩を叩かれる。
「しかしまったく、極端から極端に振れすぎなんだよ。あんな奴に預ける前に始末してやればよかったのに。実験は失敗だな」
先生が立ち去り際に言った言葉の意味はよくわからなかったけれど……
自分が何か、とんでもないことにふれてしまったことだけはわかった。