執筆:七賀
「君は……」
喋った。
当たり前だけど、反射的に後ずさる。すると男の人はゆっくり上体だけ起こした。
一瞬だけ見えた瞳の色は、髪の毛よりも鮮やかな茶色だった。
部屋を出て行こうとしたものの、寸前で呼び止められる。
「待って。なにか用があったんじゃないの?」
ぶんぶん千切れそうなほど首を振る。間違えて入ってしまっただけだ。それに早くトイレに行きたい。そうだ、いっそ彼に訊いてしまおう。
「……トイレ、どこ?」
躊躇いながら尋ねると、彼は目を丸くして、それからふっと笑った。
「部屋を出てすぐ右だよ」
彼が教えてくれて助かった。用を足して、どうしようか迷って、もう一度隣の扉を開ける。
「あ。見つかった?」
男の人はまだベッドに座ったまま、こちらに振り返った。暗がりの中、頷いて部屋に入るイクミに優しく笑いかける。
「さっき言い忘れたから。……ありがとう」
一応お礼を言うと、彼は目を細めた。いくつぐらいだろう。分からないけど、尚登よりずっと上だろう。暇なので床に座ると、彼はシーツの上を指さした。
「こっちに座ったら?」
「いいの?」
「いいよ。って、このベッドも、この部屋も俺のものじゃないんだけどね」
困ったように笑う彼は、自分が知るどの大人とも違った。遠慮なくベッドの上に座る。ちょっと変わった匂いがするけど、何の匂いだろう。
「ここで何してんの?」
「うーん。……特に何にもしてないんだ。起きたら少しだけ運動して、ご飯食べて、あとは寝るだけ」
「働かないの?」
「あはは、働けたら良いんだけどね。今はまだ、人の助けがないと何もできない」
病気なんだろうか。改めて彼の体をつま先から注視すると、裾と袖から見える肌が妙に光っていた。そっと手を伸ばすと、彼は見やすいように掌を差し出してきた。
「初めて見るかな? 義手だよ」
手がない。二本とも。足も……二本とも?
口からぽろっと出た言葉は「すごい」だった。何に対してすごいのか自分でも分からないが、それほど驚かなかった。
「すごい? はは……そうだね。まだ不自由なことは多いけど、自分の意思で動く手足がある。俺はすごく恵まれて、幸せだ」
「ふうん……」
「ところで君、名前は? ……尚登さんの知り合い?」
この部屋はやけに蒸し暑い。イクミはブレザーを脱いで床に放ると、遠慮なくベッドに倒れた。
「イクミ。海を育てるって書いて、イクミ。尚登に島から連れてこられたの」
正直に答えると、青年は顔色を変えた。しかしイクミがしっかり確認する前に顔を背け、「そう」と俯く。
「島から……って、それは誰から許可をもらったの?」
「許可なんてもらってないよ。尚登が外も見た方が良いって言うからこっそり出てきたんだ。ヤヒロさんも島にいないし、つまんないから別にいいんだぁ」
「ヤヒロ?」
青年はまたこちらを振り返った。今までで一番大きな声だ。
「ヤヒロさんのこと知ってるの? 俺、ヤヒロさんに会いたいんだ。学校の奴や先生は皆嫌い。尚登もそうだし、あいつの弟はもっと嫌い。ヤヒロさんだけが俺のこと分かってくれるんだ」
「……君はヤヒロが大好きなんだ?」
「うん! ヤヒロさんに触ってもらうの大好き」
「……」
気まずそうに口元を隠す彼に気付かず、イクミは枕を占領する。そういえば、こんな風に誰かにペラペラ話すのはいつぶりだろう。それこそヤヒロさん以来じゃないか。
知らない人だからこそ何でも話せるのかもしれない。ヤヒロさんの好きなところを一つ一つ語っているうちに、また睡魔に襲われた。
そういえば、彼はヤヒロさんとどんな関係なのか。彼の名前は何というのか……訊こうと思っていたのに、あっという間に眠りに落ちてしまった。
ベッドのど真ん中に横たわったイクミの上に布団を掛ける。膝の上に頬杖をついていると、不意に扉が開いた。
「あぁ。一体どこへ行ったのか慌てたんですけど、ヒロトさんの部屋にいたんですね」
部屋着姿の尚登が音もなく近付いてきた。
「すみませんね、この子のことだから突然入ってきたんでしょう。しかも普通にベッドで寝てるし……」
「大丈夫ですよ。このまま寝かせてあげてください」
わずかにイクミに振り返り、ヒロトは瞼を伏せた。
「島の子どもを連れ出すなんて、尚登さん、貴方は本当に命知らずな人だ」
「すみません」
尚登は空いた椅子に腰を下ろす。口では謝っているが、心の中では何とも思っていないのが見え見えだった。
「けど本来は外を見るべきでしょう。考えが凝り固まった大人になってから外へ行くなんて危険極まりない。……というの外部の人間の意見で、内部はしっかり教育して、がちがちに凝り固めてから外へ出したいんでしょうね。嬉しいこと、悲しいこと、気持ちいいことも全部教えてから」
口を閉ざしたままのヒロトに視線を向け、尚登は首を横に振った。
「その子は明日島に帰しますよ。元々ちょっと問題がある子なんです。ヤヒロさんに執着してしまっているのが一番問題かな。俺も痛い目に合いましたから」
尚登が腹部に手を当てる様子を一瞥し、ヒロトはため息をついた。
「ヤヒロ……に、少し似てると思いました」
端然と座ったまま、起こさないようにイクミの頭を優しく撫でる。
「大好きな人がいて、その人以外周りが見えてないところ。怖いほどの純真さが、怖い。子どもと言ってもこの年頃ならもう少し大人びてるでしょう」
「えぇ。でも彼の場合はちょっと違います。何度か心を壊して、知能が極端に低下してますから」
「ヤヒロもそうでした。心を壊して……記憶を作りかえた。俺が預かった時には何度かリセットされた後だったので、困ることも多かったけど、普段はとても素直な子でした」
消え入りそうだった声はやがて強まった。ヒロトは微笑を浮かべる尚登を睨め付ける。
「貴方達は失敗してもまたやり直せばいいと思ってる。物ならそれでもいい、けど命は違う。何の罪もない子ども達の記憶を弄くり回す権利は誰にもない」
じっとしていても暑い部屋。また温度が上がった気がした。
「……耳が痛いですね。って、俺は記憶をどうこうする技術はありませんけどね。貴方のような有能な技術者と違って」
尚登は立ち上がると、暖房のリモコンを取って温度を下げた。寒いと関節が痛むヒロトの為に高めに設定しているのだが、自分が腰を落ち着けて話すには暑すぎる。
「記憶を消すことが悪だと言うなら、ヤヒロさんは貴方にとって失敗作ですか」
「失敗とか成功とかの話じゃない」
「少なくともヤヒロさんは、貴方のことは特別に思ってますよ。世界中の人が死んでも、貴方が生きてさえいれば良いと本気で思ってるでしょうね。優しく接すると、たまに昔の顔を見せてくれるんです。そして貴方の名前を何度も呼ぶ」
そこまで言うと、彼はとうとう耐えられないというように頭を抱えて俯いた。
「ヤヒロさんを島から連れ出せるのは貴方だけですよ。彼はまだ教授の玩具ですから」
あの……黒い石のような瞳をした人。近付いただけで息苦しくなる、絶対的な存在。
本当にヤヒロを救いたいなら、あの人を何とかするべきだ。けどヒロトはもちろんヤヒロも、あの人に逆らう気など微塵もないだろう。
「俺も、大事な弟がヤヒロさんの元にいるんです。けど貴方をここに置いておくことで、彼も俺や弟に手を出せない。とてもいい力関係ですよね。いや、自由に動き回れるぶん俺の方が有利かな。使える駒もたくさんいるし」
「こんなこと、いつまでも続けられると思うんですか」
「俺が楽しむぶんには問題ないかと」
リモコンを置いてドアへ向かう。イクミは全く起きる気配がなく、すやすや寝息を立てていた。
「何かあってもやり直せばいいと思ってるのは認めます。だってそう思わないとやってられないでしょう」
ドアノブを回し、静かに扉を開ける。ヒロトが苦い顔をしているのが見えたが、構わずに続けた。どれだけ煽ったところで、彼は安い挑発に乗る人間じゃない。繊細そうに見えて太い芯を持っているところが密かに気に入っている。弟やイクミではないが、情緒不安定な者にばかり囲まれていると疲れるのだ。
そして、その誠実そうな顔でどれほどヤヒロを貪ってきたのか、想像すると実に愉快だ。
「あ、大事なことを言い忘れてた。その子には絶対名乗らないでくださいね。彼、ヤヒロさんと親しい間柄の人は皆嫌ってるから……下手したら、貴方のことも後ろから刺してしまうかも」
冗談ぽく放った言葉はちっとも冗談に感じられない。扉が完全に閉まった時、後ろで身動ぎする振動が伝わった。