329と1310⑻

執筆:七賀

 

 

 

悪い冗談かと思ったものの、それは何日経っても変わらなかった。
巳継の記憶を失った小夜子に、逆にどう接したらいいのか分からず、不自然な対応をすることが増えた。啓呂を介することでしか夫婦らしい会話ができない日々に逆戻りする。
「小夜子。今日、南月くんが家に遊びに来るんだけど……
「南月くん? ああ、啓呂の友達の?」
南月くんのことは、息子の友達として認識しているようだった。だが、その親のことは何も覚えていない。かつての同僚の存在も、その妻のことも。
ここままそっとしておけば、彼女はあの夜の地獄を、久遠は二人の逢瀬に悩まされずに済む。
こうして面と向かって話していても、思い出すだけで後ろがじくじくと疼く。男に抱かれる想像を何百回も繰り返す。
巳継から離れられたらどれだけ良いだろう。小夜子と啓呂を連れてどこか知らない土地に移って、良心的な夫、父を演じられたら……そんなことを考えながら、そんな勇気ないくせに、と自分を嘲笑う。やり直そうとする気力もない。しかし巳継も家庭も手放すことができない。
地獄だ。
深夜、巳継を誘って、初めてドライブをした。小夜子の状態を正直に伝えると、彼は驚いていた。
「やっぱり、ちょっと追い詰め過ぎたか。悪いことしたな」
本当に悪いと思っているのか。視線を少しだけ横にずらして、ハンドルを強く握った。声音だけでは推し量ることはできない、抑揚のなさだ。
「なぁ巳継、今がチャンスだ。もう一度ゼロから始めて、これからは外で会おう。家には来ないで、小夜子にももう会わないでくれ」
「何だ、今さら情が移った?」
「違う。嫌なんだ……例え演技や計画だって分かってても、お前と小夜子が触れ合ってるのを見るのは耐えられない。何度も言ってるだろ」
それは本心だ。小夜子に巳継を触らせたくない。そして、巳継に小夜子を盗られたくない……そんな気持ちが彷徨している。
それを見透かすように、巳継の声に喜色が混じる。
「嫌だって言ったら?」
グッとアクセルを踏み込んだ。前方に走る車はいない。この辺りで一番長い直線道路だと知っていたから、加速しながら助手席に顔を向けた。エンジンが唸りを上げる。片手で固定するのが辛くなるとメーターを見たくて仕方がなかったが、奥歯を噛み締めてぐっと堪えた。
……久遠」
あと何秒、激突せずにこのまま走れるだろう。前方に停まってる車がいたら、急に人が飛び出してきたら……そんなことを一瞬のうちにいくつも考えた。
巳継は恐ろしいほど無表情でこちらを見返している。死ぬのが怖くないのか。所詮久遠に心中など無理だとタカをくくっているのか。皮肉っぽく思うと、死の恐怖は少しだけ和らいだ。巳継を巻き込んで死ねるのなら、それも悪くない、けど。
「分かった」
そのひと言を聞いた途端全身から汗が吹き出して、アクセルから足を離した。反射的にブレーキを踏み込んだものの、当然すぐには止まらず衝撃で前方に頭をぶつける。
「いって……!」
予想はしていたものの、それなりに長い距離を走行した。幸いどこにも衝突することなく車は減速し、真っ黒に塗りつぶされた道をゆらゆら進む。
まだ心臓が激しく脈を打っている。ハンドルを握る手は小刻みに震えていた。
恐怖を感じていたことより、生きている、と心から安堵している自分が酷く惨めだった。冷静に笑みを浮かべている巳継と比較してしまうから尚さらかもしれない。
「最後八十キロ出てたぞ。この道オービスがなくて良かったな」
何を……。今頃クラッシュして死んでいたかもしれないのに、警察に見つかったら何だって言うんだ。自分達が立っている状況からすればむしろ、刑務所の方が楽園だ。そう思うほどの地獄を、自分は巳継と作り上げてしまった。
「もういい。お前の覚悟はよく分かったよ」
通りから逸れて細い道に入る。路肩に停めると、いきなり襟を掴まれ唇を塞がれた。
「ふっ……ん、んん……っ!」
憎い。
この男が憎い。自分の人生をこれほどまでに狂わせ、振り回した。
殺したいほど憎いのに、この世界で一番愛している。彼が一番、自分という人間を理解してくれてると知っているから。
シートベルトを外し、彼の方へ傾いた。シートを限界まで後ろへ下げても窮屈に変わりはなく、身動きできない苛立ちが募る。加えて真横を誰かが通ったら、という不安が邪魔をする。
けどもう何も考えられなかった。今は彼しか見えない。彼しか見たくない。
「ああっ!」
浮かせた腰に手を回される。下着の上から指をぐっと押し込まれ、衝撃に仰け反る。早くも前は反応し、ぬるい感覚がじわじわ広がっていく。
巳継は何も言わない。ひたすらに久遠の熱を引き出し、全身を愛撫する。
「お前を追い詰めたのも、俺だよな」
かろうじて拾えたそれは、独白のようだ。どうしたのか訊こうとしたが、直後膨れ上がった快感に屈してしまった。幸い巳継が久遠の性器を掌に包んだことで、下着が汚れることはなかった。
巳継はその掌を見せつけるように、久遠が吐き出した体液をゆっくりと舐めとっていく。
…………っ」
誰に笑われても、軽蔑されてもいい。自分は巳継のもの。それだけが自分の柱を支えている。
地獄の底で、夢のような楽園を感じている。

空が白みだしてきた頃、再び車は走り出した。左手には果てしなく広がる海が、鮮やかな色を取り戻しつつある。
家へ帰ったら、また小夜子を欺く生活が始まる。ゼロからまた始められたとしても、それも結局は新たな地獄の始まりだ。
助かりたい。解放……されたい。
許されるのなら、久遠とずっと一緒にいたい。妻と子どもは二人だけで、どうか幸せに生きてほしい。……なんて、身勝手にも程がある。
「そうだな。俺も、思った。久遠。俺達はさ、どうしたって幸せになることは許されないんだよ」
運転に集中していた久遠に、巳継は小さく呟いた。
「誰にも理解してもらうことはできない。一生このまま、苦しみもがいて生きていく。俺はそれでもいいけど、お前は……
辛いだろうな、と零した。耐えられない。実際その通りで、既に久遠の体と心はぼろぼろだった。
「誰にも迷惑をかけない。誰も俺達を邪魔できない」
前だけを見ていた久遠の視界に、何故か隣の影が入り込む。巳継の腕が、久遠の手に添えられていた。
……二人だけの世界に行こう」
ハンドルを左に取られる。しまった、と思った時には、ガードレールを突き破っていた。
車体が傾き、どこまでも落ちていく。それは嫌に長かった。
巳継に首を締められた時、どうしてこうなると思わなかったのか。不思議に思いながら、やっと解放される、と安堵した。
瞼を伏せると二人の姿が思い浮かんだ。
啓呂。……小夜子。

鳴り響く着信音が、朝を告げた。
「はい」
まだベッドで寝ていた小夜子は息子の啓呂を起こさないよう、静かに家の電話を取る。相手は警察だった。
夫が事故で海に転落し、死亡したというものだった。
「嘘……嘘、嘘よ」
否定の言葉を繰り返す。でも、それなら何故夫は、隣のベッドに居ないのか。恐ろしい現実だけが自分を取り囲む。
ひとまず遺体の確認をする為病院へ来てほしいと言われた。穏やかで、宥めるような口調だった。それが殊更小夜子の心を掻き乱す。
「旦那さんは車を運転していたんですが、助手席に乗っていた男性も亡くなっているんです」
動きが止まる。
「それは……
その人の名前は……
返答を聞いて、電話を切る。細くて可愛らしい声がした為振り返ると、啓呂が眠そうに瞼を擦っていた。
「どうしてなのかしら」
ベッドに腰掛け、不思議そうに見上げる息子をぎゅっと抱き寄せる。
「ママ?」
何も答えず、そのままベッドに倒れ込んだ。息子の首元に手を回しながら、ガラス玉のような瞳で「彼」の面影を重ねる。
どうしてなのか。男同士というのは、それほどまでに強い繋がりなのか。自分にはまるで理解できない。
彼らが下した選択は、理解したいとも思わない。狂気の沙汰だ。
「せっかくやり直させてあげようとしたのに」