329と1310⑹

執筆:七賀

 

 

 

画面の文字列を見ても、周りの社員が騒がしくなっても、信じられなかった。
そんなまさか。巳継に連絡することも忘れ、放心状態で家へ帰った。けど自分を出迎えた小夜子の第一声で、ようやくそれが現実なのだと認識できた。
「あなた……。仁美さん、本当に残念だったわね」
俯き、口元を手で隠した小夜子。くしゃっと歪めた顔は悲しんでいるようにも見えたし、笑っているようにも見えた。
部屋に戻った後も、巳継には連絡できずにいた。きっと今頃相談や手続きに追われて心身共に疲弊しているはずだ。そんな時だから連絡しない方が彼の為かもしれない。でも、そんな時だからこそ力になりたい、という想いに揺れる。
電話よりメールの方が良いかと考えていたら、いつの間にか眠りに落ち、何日もまたいでしまった。
白状だと思いながら喪服に身を包む。啓呂は両親に頼んで、小夜子と一緒に重い葬儀に向かった。
「脳卒中ですって。妊婦は若い人でも発症リスクが跳ね上がるらしいの。仁美さん、前から高血圧だったんでしょう?」
「あぁ……それで入院していたから」
しかしもっと早くに気付けなかったのだろうか。激しい頭痛や目眩など訴えがあれば、脳外科に受診する手もあったはずだ。入院先の産婦人科がどのような対応をしていたのか、外部の人間には分からない。
「怖いわね。お腹の中の子も一緒に……巳継さん、これから大丈夫かしら」
大丈夫……じゃないだろう。まだ幼い南月くんもいる。今どきシングルファザーは珍しくないけど、働きながら一人で育てるというのは本当に大変なことだ。
「ねぇ、しばらく支えてあげてね。なにかあったら私も協力するし、もっと家に呼んでいいから」
歩いていると勝手に頭が揺れる。頷いた、ということにして視線を戻した。
「啓呂も、お兄ちゃんみたいな存在がいるといいじゃない。南月くんは啓呂の二つ上だし、一緒に遊んだら仲良くなれるんじゃないかしら」
そうだな、と返事した。確かに、良い口実だ。子ども達の交流が増えれば、自ずと巳継もウチに来やすくなる。
「小夜子。俺……
眼球が固定されたように、動かなくなることがある。まばたきすることも忘れ、ただ一点を見つめる。暗くなる空を眺めながら、口だけ動かした。いや、口だけ勝手に動く。
「今回のことで、もっと恐ろしくなった。子どもを産むって本当に大変なことなんだよな。母親だけが危険に晒されて、俺はどう頑張っても代わってやれない。啓呂のときも不安だったけど、お前を失いたくないんだ。だから……
「あなた……
隣を歩いていた小夜子は足を止め、潤んだ目を見開いた。
「ありがとう。いいの。もういいのよ……。私も、あなたと啓呂がいれば幸せだわ。二人目なんてもう望まない」
肩に胸をうずめてきた彼女の背中に、手をそっと回す。
茶番だ。仁美さんがいなくなったから、二人目の願望も薄らいだだのだろう。そんな調子で巳継にも身を委ねたのかと思うと、怒りを通り越して呆れてしまった。
もちろん、自分は彼女よりずっと最低な人間だ。女を愛せないのに、彼女を捕まえて伴侶に仕立てあげた。
先に裏切ったのは自分だ。

葬儀が終わり、会う人会う人に俯いて挨拶した。葬儀中は、喪服姿の巳継をずっと横目で窺っていたけど、帰る時になると途端に目を合わせられなくなった。しかしそんな久遠の心中を知る由もなく、小夜子は巳継に近付き、お悔やみの言葉を告げる。自分も彼女とまったく同じことを繰り返した。足元に視線が落ちるのは、頭が働かないからだ。
巳継は静かに返事をして、そして去って行った。
靴音が小さくなる。顔を上げて、彼の後ろ姿を見て……猛烈に、その背に抱きつきたくなった。
不謹慎だということは分かっている。会うまではどう声を掛けようか悩んでいたのに、今は一刻も早く彼と話して、触れたいと思った。
小夜子も同じことを考えているかもしれない。でも、絶対にさせない。帰宅した後巳継に連絡して、夜中に彼の家に向かった。もうどう思われてもいい。彼と一緒にいられるのなら……
もう、巳継の家に仁美さんはいない。寂寥感に叫びたくなりながら、ドアが開いた瞬間巳継に抱きついた。
「前と逆だな」
巳継は消え入りそうな声で呟き……でも、優しく抱き締めてくれた。
「さっきはごめん。仁美さんのこと……その、本当に……
「いいって。何も言わなくていい」
巳継は喪服姿のままだ。子ども部屋を過ぎて、そのまま寝室に入る。以前来た時とはどこか雰囲気が違った。この大きなベッドに、これからは巳継がひとりで眠るのか。
ズボンだけ脱がされ、大して慣らされないまま挿入された。でも慣らされるまでもなく自分のアナルは既にとけきっていた。呼吸する度に中からジェルが滴る。悔しいし恥ずかしいけど、巳継の性器を中に感じると恐いくらい安心する。気持ち良くておかしくなりそうだった。
「巳継、そこいい……あっ、抜かないで……中に出して……!」
「本当にいいのか?」
「うんっ……お願い、……あ、あっ、ああ!」
熱いものがどくどくと注がれる。初めて生でしてしまった。駄目なのに、嬉しい。中出しを拒んでも、小夜子はきっと生でやる勇気はないだろう。今、彼と本当の意味で繋がることができるのは世界で自分だけ。これでもう、自分は巳継のオンナだ。
「巳継と……ずっと一緒にいたい」
今まで胸につっかえていた本音が、驚くほど簡単に零れた。妻を亡くしたばかりの彼に自分本位の願いをぶつけるなんてどうかしてる。
シャツを捲り上げられる。両方の乳首を摘まれて、優しく口付けされる。引っ掻いたり捏ね回したり、仁美さんにもこうしていたんだろうか。想像したらまた下半身が熱くなって、不意に涙が溢れた。
「巳継……
「久遠。心配しなくても、昔から俺の一番はお前だけだよ」
ぎゅっと抱え込まれて、全身を愛撫される。それだけで何度もイッた。巳継の一番なんだと思うだけで満たされた。
仁美さんより下でも、小夜子よりは上が良い。醜い優先順位に執着して、服と心を汚した。

日が経ち、巳継が会社に出勤できるようになると、いつもの日常風景に戻っていった。まだ仁美さんが亡くなってから二ヶ月も経ってないのに、以前とまったく変わらない。変わらな過ぎて、実は仁美さんはいなかったんじゃないか、なんて馬鹿な錯覚に陥る。あれだけ衝撃を受けた人の死が段々薄れていくことが我ながら恐ろしかった。
でも自分以上に小夜子と巳継が笑顔で過ごしているから麻痺してしまう。悲しみを乗り越えた笑顔なのか、それとも初めからいないものだと思っていた顔なのか分からない。

「南月くん、今日チーズケーキ作ったんだよ。啓呂と一緒に食べてね」
以前も言っていた通り、小夜子は積極的に巳継と南月くんを家に招くようになった。これはこれで巳継と過ごす時間が増えるから良いけど、夜はまた別だ。
妻を亡くしたばかりの男が、子どもを連れて友人の家に入り浸る。友人の妻はそれを嬉嬉として受け入れる。
リビングでテレビを観るふりをして、キッチンにいる二人に神経を尖らせていた。小夜子はなにかつまみを作っている。隣に缶ビールを持ちながら笑っている巳継がいる。小夜子は不自然に時々肩を震わした。久遠に見えない位置で、巳継がなにかしていることは明白だった。
二人だけの時に、耐えられず打ち明けた。
「なぁ……もう小夜子を相手にすることないだろ」
小夜子は子どもをつくることを諦めてくれたみたいだし、夜の営みを強要することもない。一時の戯れとして巳継が小夜子を突き放してくれれば、今のようにむざむざ見せつけられることもない。小夜子は浮気している。でも、自分も巳継と浮気しているようなもので……互いが同じ人物に浮気している。こういう場合、裁判では誰が一番罪になるのだろう。やはり同性愛者ということを黙認していた自分か。
巳継はこちらの不安など意に介さず、意地悪な笑みを浮かべる。
「でも、仲良い方が都合いいだろ。彼女が俺を信用すればするほど、俺とお前も会いやすくなる。南月のことも見てくれるから、この前だってホテルに行けたんじゃないか」
そうは言うけど……
巳継と最初繋がっていたのは自分だったのに、……なにか違う。久遠が子どもを連れて買い物に行く間、巳継は家で小夜子を抱いている。まるで仲間外れだと、稚い発想が頭に浮かんだ。
小夜子に隠れて抱き合う時しか、本当の意味では満たされない。勝利したような爽快な気分になれない。だから、南月と巳継が久遠の家に遊びにきている時は必ず温もりを強請った。
南月と啓呂をお風呂に入れると偽って、風呂で身体を繋げる。それはさすがに無謀というか、正気を捨てたな、と我ながら笑ってしまった。
小夜子が料理を作っている間、狭い浴室にお互い服を着たまま入る。浴槽では啓呂と南月君が楽しそうに、水鉄砲の玩具で遊んでいた。彼らに向き合いながら、バックを突かれる。下着とズボンが脚に絡まって鬱陶しい。浴槽の縁に掴まり、必死に声を殺した。
「パパ、何してるの?」
揺れている自分がおかしいのか、啓呂が不思議そうにこちらを見る。唇に人差し指を当てて、しー、と笑った。
幼い啓呂には自分達が何をしているのか分からない。南月くんも……セックスの意味自体は理解できていないだろう。
最低だ。自分の子どもの前でこんなことしているなんて、狂気の沙汰だ。
巳継はどんな顔をしてるんだろう。後ろを見ることができないからもどかしい。もしかして、自分と同じように笑っているんだろうか。
以前よりも容易く抱き合うことができるのに、心はどんどん窶れていく。巳継は久遠が一番だと言うが、それを確かめる術がない。今日だって彼は、小夜子のことしか見ない。とうとう、「お前のことばかり見てたら変に思われるだろ」と言われた。考え過ぎだと分かっているけど不安が募って、動悸がすることが増えた。
「小夜子さんは本当に料理上手だなぁ」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないよ。ねぇ、南月」
「うん! 美味しー」
小夜子と関係を続ける巳継も、自分に隠れて平然と浮気する妻も、皆異常だ。でもこの二人と一緒にいると、異常なのは自分の方かもしれないと思ってしまう。
頭がおかしくなりそうだった。

「あなた、巳継さん、今日も来るんでしょう? お酒ないからちょっと買ってくるわね」

仕事から帰って、啓呂を寝かせてリビングへ戻ると、小夜子は慌ただしく髪を結いていた。
自分は帰ってから風呂も飯も我慢しているのに、開口一番出てきた名前に何かがぷつりと切れた。
……巳継さん巳継さんって……そんなに巳継が好きか。セックスできない俺より?」
ソファに座りながら吐き捨てた。視線はテレビに向けているが、妻が動きを止めたのが分かった。
「な……に言ってるの」
「シてるんだろ、俺に隠れて。そりゃそうだよな。前から惹かれていた男が独り身になったら、相手してくれない夫なんか放って飛びつきたくなるのも分かるよ。でもはっきり言うけど、あいつはお前が好きだから付き合ってるわけじゃないよ」
「そんなことしてないわ!」
バン、と大きな音が響く。小夜子はテーブルに手をついて、それから頭を抱えた。
「あなたの言う通りにしてきたのに、今度はそんな酷いことを言うの? 信じられない……!」
信じられない、か。この期に及んでシラを切るなんて笑わせる。改めて妻の演技力と、面の皮が厚いことを知った。
巳継が本当に彼女を大切に想ってるとしたら……それはそれで良いかもしれない。そしたら、彼の大切なものを壊すことができる。
小夜子をソファに押し倒し、強引に唇を塞いだ。啓呂が起きると困るから、離した後は手で押さえた。スカートと下着を引き下げ、手を伸ばす。
嫌なら好きなだけ暴れたらいい。でも、自分の怒りは彼女のものを遥かに超えている。
彼らの絆なんて跡形もなく壊してやる。自分のチャックを開けて、彼女の口に無理やり挿入した。
「んっ、んんっ」
苦しそうな声と、いやらしい音が鳴り響く。腰を振ってがんがん突き入れた。巳継を想像するとさらに激しく動くことができた。
額から汗が流れる。跡形もなく壊れたのは、自分の理性だったかもしれない。インターホンが鳴っていることに気付いていたが、無我夢中で彼女の口腔を犯した。
ドアがゆっくり開く音がして、ようやく顔を上げた。
……あ」
ドアの前には、巳継がいた。ぞっとするほどの無表情でこちらを見つめている。
自分の口元に添えているものを確認するまで時間がかかった。銀色の、鍵だ。
合鍵……
そんなものを渡した覚えはない。彼に渡すとしたら……渡すことができるのは、ひとりだけ。
ずる、と性器を引き抜く。先端からは妻の唾液が糸を垂らしている。
吐き気がする。
本当に、酷い茶番だ。