執筆:七賀
自分の息子すら巻き込むなんて狂ってる、と言った。するとお互い様だ、と巳継は答えた。
何でそんな冷然としていられるんだ。俺はお前みたいに黒を白にひっくり返す力はない。巳継は羊の中に我が物顔で紛れ込む狼だと思う。
俺は永遠に羊だ。逃げることしかできない。逃げて逃げて……どん詰まりでたまたま出逢った相手と恋に落ちる。
あの夜から妻と目が合わすことができない。必要最低限のことは話すけど、せいぜい一言二言だ。幼い子どもを盾に何とか成立している。
妻が作った料理が中々飲み込めなかった。いつもと変わらず美味しいのに、肥大した不安に負けて胃が動いてくれない。いつまでも量が減らないことに痺れを切らし、妻は「食べたくないなら残していいわよ」と言った。仕方ないので謝ってからお皿を下げて、妻が寝静まったあと夜の街へ出た。
今は自分の家すら息苦しい。でも巳継はどうだ。妊娠中の妻を抱えて気疲れすることはあるだろうが、まだウチのように目に見える亀裂は入っていない。ウチの亀裂は、巳継達にも関係しているのに。
呼吸が荒くなった。鼓動も速くなる。苦しい、苦しい……。
歓楽街を歩いていたが、耐えられず近くの建物の壁に寄りかかった。寒くもないのに手が小刻みに震える。二行ほどのメッセージをスマホで打つのに、かなりの時間を要してしまった。
送信先は巳継。時間も遅いし寝ているかもしれない。返事は来るだろうか。
足元に視線を落とした時、スマホが振動した。巳継の名前……今どこにいる? と書いてあった為、地図もすぐに送る。後はもうどうでもよくなって、再びポケットに入れた。
こんな所でじっとしていると嫌でも目立つが、瞼を伏せて我慢した。音だけ聞いているとやるべきことも忘れられる。
現実に戻るチャンネルはそこら中に転がっているけど、今は戻りたくない。相手がほしい。いっそ誰でもかまわない。
自暴自棄になって俯いていても、巳継は走って会いに来てくれる。
「久遠……良かった」
自分の姿を見つけた彼は、迷うことなく近付いてきた。肩に彼の手が回る。上着をぎゅっと掴み、彼の顔を見上げた。
抱いて。そう言うと巳継は黙って頷き、近くのホテルに連れて行ってくれた。
服を脱ぐ。いつもなら言葉も交わさずなだれ込むところを、急ブレーキをかけた。巳継の上に跨ったまま顔を覆う。
「久遠が来てくれなかったら、誰か適当に捕まえようと思ってた」
冗談半分、……本音が半分。彼はわずかに眉間に皺を寄せる。
「誰でもよかった。むしろ、巳継以外なら誰でもいい……って、何回も思った。幸せを見せつけられるのが、今は一番嫌だ。上手くいってる人に会いたくない。巳継は上手くいってるよね」
「俺が?」
彼は心底驚いたように目を見張った。
「小夜子に二人目がほしいって言われたんだよ。巳継達の影響もある。難しいんじゃないか、って説明したけど、あいつ……あいつは……俺を……!」
言ってる途中で震える。ずっと隠していた弱い部分を暴こうとした、彼女の手が脳裏によぎる。
それにあの時の口ぶり、もしかしたら小夜子は勘づいているのかもしれない。さすがに相手が巳継ということは知られてないだろうが、久遠の気が誰かに移ろいでいる、と疑ってる可能性がある。
にも関わらず錯乱して、今日は家を飛び出してきてしまった。夜明け前に帰れるだろうか。帰って、彼女が起きていたらどう言い訳しようか。
考えるのも億劫だ。声もなく笑い、巳継の首に手を回す。彼の目は壊れたら楽だ、と言っていた。
「どうしたらいい? ……ねぇ」
指を絡ませてみても、力はこれっぽっちも入らない。彼のことも社会的に殺せたらいいのに。逃げ道をなくして、自分と一緒にどこまでも堕ちていけば……。
自己嫌悪による冷や汗が流れる。息苦しさを覚えていると、そっと引き寄せられた。彼の上に倒れる。
「お前、呼吸がおかしいぞ。ちゃんと息しろ」
頬に優しい口付けを落とされる。大人しく抱かれていると、圧迫感は薄れていった。
「久遠」
今度は押し倒される。背景の闇と重なって、彼自身が得体の知れない怪物に見えた。
俺も塗り替えられる。白かもしれない部分まで、真っ黒に。
「あああっ!」
じくじくと、ずっと疼いていた。そこは巳継に触れられただけで弾けてしまった。
いつもより感じている自分を不審に思っているはずなのに、彼は何も言わない。ただ身体を繋げながら全身に甘噛みする。腰周りではいやらしい音が鳴って、首や胸は肌を吸う音が聞こえる。
「いや、巳継っ……跡、ついちゃうからぁ……っ!」
見える部分までキスマークをつけられている。こんなものを妻に見られたら……それこそ彼女は壊れるか、俺を殺そうとしてくるんじゃないか。
嫌がるとうつ伏せに倒されて、激しく後ろを抜き差しされた。その間も背中にキスをされていたけど、もうイキすぎて動くこともままならない。
あやつり人形のように後ろから抱えられ、彼が動く度に跳ねた。精液が太腿に伝う。
「久遠……可哀想だな」
頭を優しく撫でられる。彼だってもう何度も自分の中に出しているのに、萎える気配はまるでない。それどころかさらに大きくなっている。ぞっとした。今度は彼から逃げないといけない気がする。でも、怖いのに、喉が痛くて声が出ない。
「俺が幸せそうに見えるとか、お前ちょっと疲れてるんだよ」
「んうっ!」
右の乳首を千切れそうなほど強く引っ張られ、痛みに仰け反る。
「お前が今持ってるもん全部捨てるって言うなら、俺も同じことしてずっと傍にいるよ。それができないなら諦めろ。他の男に股開いたりしたら……殺す」
お前は俺のものだと、耳元で囁かれる。
巳継は俺をどうしたいんだろう。中途半端な束縛なら、いっそ本当に殺してほしかった。
「ごめん、今日は帰り遅くなる」
息を止めながら、蚊の鳴くような声を出すと、小夜子はあぁそう、と答えた。声音からは怒りも落胆も感じられない。本当にどうでもいいことを聞いたみたいだ。バックで聞こえる天気予報の方が大事のようで、視線すら寄越さない。吹っ切れたのなら良いが、もしかして離婚しよう、と突然離婚届を突きつけてくるんじゃないか。
覚悟しながら過ごしたものの、いくら待ってもそんな兆しはなかった。むしろ妻は以前より機嫌が良い。笑うことが増えたし、率先して啓呂を遊びへ連れて行くようになった。
安心していいはず……。
だけど、ある日外出先で見てしまった。小夜子が巳継と楽しそうに歩いているところを。
何で。何であの二人が。
小夜子に問い詰めたってシラをきるに決まってる。その日の夜、すぐさま巳継を外に呼びつけた。彼はまるで正しいことを……俺の為にやったんだ、と言いたげに微笑んだ。
「小夜子さん、最近大人しかっただろ。俺が相手してあげてたからさ」
「……は?」
「お前が辛そうだから、俺が代わりになってたんだよ。彼女は発散できるし、お前は解放されるし一石二鳥だろ。でもここまで俺に夢中になってくれるとは思わなかった」
夢中って……。二の句が継げず、彼の綺麗な口元を呆然と眺める。
「それからちょっと優しくしたら本気になっちゃって……あぁ、今日もぼやいてたぞ。早く二人目がほしいって」
そういえば、あの夜から一度も小夜子としていない。何のアクションもないからてっきりまだ遠慮しているのかと思ったけど、巳継のもったいぶった口ぶりに嫌な予感がした。
小夜子は最近いつにも増して見た目に気を遣うようになった。
「お前、あいつを抱いたのか」
震える声で訊いた。
違う……違うと言ってくれ。いくらなんでも、そんな馬鹿な真似はしてないって。「それ」すらも俺の為、なんて言うのはやめてくれ。例え仕組まれた夫婦関係でも、彼女に手を出すのは違うだろ。
もしそんな真似をしていたら、俺も……。
視界が歪んでいく。黒い空が剥がれて、闇が落ちてくる。
「……“ 二人目”も、俺が代わりにつくってやろうか」
闇を被った彼の顔は、まったく知らない人間だった。