執筆:八束さん
駄目だ。こんなこといつまでも続けていられるはずがない。続けていたら駄目になってしまう。
別れてしばらくしても、動悸が収まらなかった。
巳継に散々イかされて、しばらく意識を飛ばしてしまっていたらしい。子どもの泣き声で気がついた。子ども……どうして子どもの声が聞こえるんだ……
怖々顔を上げると、巳継は膝の上に南月くんを乗せていた。そして「怖い、パパどうしたの、怖い」と泣きじゃくる南月くんに、笑いながら言っていたのだ。
「パパはお兄ちゃんのことが好きなんだ。だから南月にも、お兄ちゃんのことを好きになってもらいたいなあ」
狂ってる。
でも狂っているというのなら、お互いさまなんだろう、きっと。
割り切った関係、のつもりだった。身体のために。でも気づき始めている。割り切る、なんて無理だ。心がある限り、割り切る、なんて無理だ。
でもじゃあ、巳継に出会わなかったとしたら今頃どうなっていただろう。ハッテン場で男を漁り続ける生活を続けていたんだろうか。
巳継と出会ったのは『そういう』店でだった。冴えないおっさんにばかり目をつけられることが続いていたから、久々に同年代の、それなりに見栄えのいい男とやれることで舞い上がっていた。まさか同じグループ会社に勤めているとも知らないで。
知っていたならもちろん、初めから面倒になりそうなことはしなかった。けれど巳継は、「知っていたからこそ近づいた」なんて、信じられないことを言ってのけた。「研修で一緒になったときからずっと目ぇつけてた。会社の中で抱けるとしたらこいつだなって」
馬鹿言うな、といなしながら、久遠も密かに思っていた。もし抱かれるとしたら彼しかいないと。
風呂上がりの妻がいつもと違ういいにおいを漂わせている。
嫌な予感は、案の定的中した。
先に寝ようとしたら、同じベッドに妻が潜り込んできた。
ベッドは結婚したときから、二つにしていた。寝相が悪いからとか、朝早いから起こしてしまってはいけないとか、妻を傷つけない理由をあれこれ考えて。それでも妻は不服そうだったので、二つのベッドをくっつける、という形で最終的には落ち着いた。これならキングサイズベッドと変わらないじゃない、と妻は言ったが、違う。全然違う。二つのベッドの隙間。この僅かな隙間のおかげで、久遠はかろうじて理性を保てている。
巳継の家のベッドは、ダブルベッドだった。巳継は奥さんの気配を、熱を感じながら、毎晩寝ているのだ。眠ることができるのだ。あるいはそれ以上のことも。
ベッドに押し倒されたとき、巳継のものにされた、と、今まで以上に感じた。広いベッドは、所有物を美しく飾るための舞台装置なのだ。その舞台の上でなら、いくらでも乱れていいと許可を得たような気がした。でもあとになって、それは自分のものじゃない、盗み取ったものだと我に返った。そしてあらためて思った。自分は妻に、自分が巳継から感じさせてもらっているような多幸感を、感じさせることはきっと、できてはいない。
今日は疲れて……と言うより先に、今日しかないの、と、詰め寄られた。
「巳継さんのところ、もうすぐ二人目ができるのよね……」
だから自分たちも欲しい、とまでは言い切らない。彼女にはそういうところがあった。巳継の奥さんの仁美さんは何でもバンバン要求して巳継を困らせているらしいが、そっちの方がよかったと思う。はっきり言ってくれるなら、はっきり断ることもできた。
「うん、だから大変みたいだよ。今のご時世、二人も子どもを持つのは大変だよ。うちは啓呂(ひろ)ひとりでも大変……」
「啓呂にもきょうだいがいた方がいいと思うの。気軽に外で遊んで友達を作る、ってこともできないご時世だし。私も啓呂ひとりだとどうしても煮つまってしまって。それに私、昔から女の子を持つのが夢だったの。授かりものだってことは分かってるわよ。でも一緒にお料理したりショッピングしたり……そういうのが夢だったのよ」
「親の夢を叶えるための道具じゃないだろう、子どもは」
「どうしてそんな正論ばっかり言うの」
そう言うと妻はさめざめと泣き始めた。
「あなたの前では夢を口にすることすら駄目なの」
「そういうわけじゃ……」
しかたなく起き上がって、肩を抱く。背中を撫でさする。
しばらくそうしていると何とか落ち着いてくれた。ふと、こちらを見上げる妻と目が合った。濡れた瞳がサイドランプの明かりに照らされて光っている。妻がくい、と、襟元を引っ張った。
ああ……しまった。もう舞台の上に上がらされていた。
当然のように、くちづけられる。無意識のうちに息を止めていた。
「ごめん、その、本当に……」
「分かってる。あなたが『そういうの』が駄目なんだってことは、とっくに分かってる」
おそらく妻は久遠をEDか何かと勘違いしている。
「だからなるべくそういうことは言わないようにしてきたの。そういうのができないからって、夫婦じゃない、ってわけじゃないじゃない。でも一日くらい。一ヶ月のうちの一日くらい、くれたっていいじゃない。今までどれだけあなたの負担にならないように我慢してきたか、あなた知らないでしょう」
冗談じゃない。その一日がどれだけ苦痛か。大体、一日でもできるんだったら、それこそ一週間でも毎日でもできる。そういう問題じゃない。でも妻に言ったところで、理解してもらえないのは分かっている。それにちょっとでも不満を漏らそうものなら、「私は残りの毎日我慢している」と反撃されるのは目に見えている。
我慢すればいいのか。せめて二人目ができるまで。流石に三人、四人、と言い出すことはないだろうから。
妻が二人目が欲しい、と言い出したのは、元からの願望ももちろんあるだろうが、巳継夫婦に大いに影響を受けているのは間違いない。今は部署は離れてしまったが、仁美さんのことを密かにライバル視していたのも知っている。こうなると簡単に二人目が作れてしまった巳継のことが、憎らしく思えてくる。
妻をゆっくりベッドに沈め、全身に優しくくちづけていく。妻の方は早々に潤んでいたが、当然ながら自分の方はまったく兆す気配もない。
「あなた、こっちに寝て」
今度は逆に押し倒される。妻は何故か得意げに微笑むと、股間に顔を埋めて久遠のものをしゃぶり始めた。
「っ……あっ……」
結婚した当初はとても、こんなことをするような妻じゃなかった。ベッドに横たわり、脚をひらくことすら躊躇していた。どちらかといえば性に疎い。それが久遠にとっては都合がよかった。けれど最近なりふり構わなくなった。どこでこんなことを覚えたのか。それともこれこそが彼女の本性だったのか。
物理的な刺激である程度反応はしたが、それでも性感を得るには程遠い。すると妻はベッドサイドからローションを取り出し(そんなものが仕舞われていたことを初めて知った)、何をするのかと思いきや、ローションで濡らした指を久遠の後孔に潜り込ませてきた。
「小夜子!」
思わず、それまでの甘い雰囲気を振り切る勢いで叫んでいた。
「何するんだ!」
「知らないの。前立腺マッサージ。前で感じられなくても、もしかしたらこっちでいけるかもしれないじゃない。ね、試してみましょうよ」
「じょ……冗談じゃない!」
寒気がした。そこまでしてセックスを試みようとする妻が、得体の知れない化け物のようにも見えた。
「俺は種馬じゃない!」
妻の顔がみるみる歪む。泣くか、怒るか……どちらに転ぶか予測のつかない、ともかくこんなベッドの上では似つかわしくない、ぐちゃぐちゃの表情。
「……何、その目」
「小夜子」
「私だってこんな商売女みたいなこと、やりたくてやってんじゃないわよ!」
ぼすん、と枕がすっ飛んでくる。わあわあ泣きながら怒っている妻をもう、なだめる力は自分にはないと悟った。服をまとめてベッドから降りる。寝室を出ようとしたとき、発せられた妻の声が背中に突き刺さった。
「あなたがそんな軽蔑しきった目で私を見る資格なんてないでしょう!」
寝室を出たとき、子ども部屋からも泣き声が聞こえてきた。妻の声で起きてしまったらしい。早く安心させてやらないと、でも……
泣き声の狭間で、足が竦んで動けない。
自分の肩を自分で抱く。妻にふれられた後ろがじくじくと疼く。
巳継……
声には出さず呟き、壁を背もたれに、ずるずるとしゃがみこんだ。
最低だ。
自分の妻にふれられておきながら、妻がいる男にふれられたいと思っている。