執筆:八束さん
また新しい子が来るからよろしくね、と、先生から頼まれたとき、またか、面倒だな、と思いながらも、信頼されていると思うと誇らしかった。
初等部の頃からずっと学級委員だった。要領よくやっているクラスメイトを見ると羨ましいと思う反面、もうこれは性分だと諦めている。
約束の時間になっても転入生は来ない。
どうしたのかと寮の部屋の扉をあけると、目の前に人影があって、危うくぶつかりそうになる。
「何だ、いたんだ、入ってきてくれてよかったのに」
責められたと感じたのか、彼は黙ったまま俯いてしまった。
こういうタイプは初めてだった。
今までの問題児、は、授業をサボるとか暴力を振るうとか、そういうタイプばかりだったから。
彼の問題、は、一体どこにあるんだろう。
「初めまして。俺はシバ。君は?」
ヤヒロ、と、消え入りそうな声で彼は言った。
転入して一ヶ月経っても、ヤヒロには友だちができなかった。
何とか彼の存在をアピールしようと先生は気を利かせたつもりだったのかもしれないが、数学のテストで唯一満点を取ったヤヒロを褒めたことで、さらに皆との距離があいてしまった。いじめ、というわけじゃない。でも積極的にヤヒロと関わろうとするクラスメイトはおらず、ヤヒロの周りはいつもぽっかりあいていた。できあがった人間関係の中に、わざわざ異分子を引き込もうとする物好きはいない。貧乏くじを引いてしまうような、自分みたいなタイプを除いて。
「ヤヒロ!」
ひとりで重いゴミ箱を抱えて、ゴミ捨て場まで行こうとしているヤヒロの背中が見えたから、慌てて追いかける。
「俺も持つよ」
反対側の取っ手をつかんで持ち上げる。そんなに強引にやったつもりはなかったのに、ヤヒロは蹈鞴を踏んでいる。ヤヒロのペースに合わせて、ゆっくり歩くことを心がけた。
焼却炉の扉をあけ、ゴミ箱を傾ける。
「あっ」
最後の最後でタイミングが合わず、ゴミ箱を落としてしまう。ガランガラン、と大きな音が響き渡る。ふと見ると、ヤヒロの足がゴミ箱の下敷きになっていた。
「大丈夫っ?」
大丈夫、とヤヒロは言ったが、足を引きずっている。自分からは言い出しそうな雰囲気がなかったので、強引に靴を脱がせる。足の甲は赤く腫れ上がっていた。
医務室に行こう、と促したが、そこに関してはヤヒロはひどく頑なで、下手をするとその場にずっと座り込んでしまうような雰囲気があった。足の痛みには平然としていたくせに、医務室、という言葉を聞くなり泣き出しそうになっている。しかたがないので、水で冷やすことにした。
ズボンの裾が濡れそうになったので、慌ててたくし上げる。めくり上げて覗いた肌はとても白くて、そして、ずっとさわっていたくなるほど、すべすべしていた。
どこから来たのか、きょうだいはいるのか、今までどんな暮らしをしていたのか……
それとはなしに訊いてみても、ヤヒロから明確な答えが得られたことはなかった。答えたくないのか、と思ったけれど、どうやら違うようだった。
「分からないんだ」
あるときヤヒロが、ぽつりと漏らした。
「今までどこにいたのか、とか、誰と暮らしていたのか、とか……。誰か……とても『いいひと』と一緒にいたような気はするんだけど、よく思い出せない」
これは記憶喪失、というやつなんだろうか。
「それに思い出そうとすると、疲れちゃうんだ」
「疲れる?」
「下の方……下の方にあるのは分かるんだ。昔のこと。捨てたわけでも消えたわけでもなく。そこに『ある』んだってことは。でも足元に分厚い鉄の扉があって。押しても引いても何やってもびくともしなくて。だから、思い出そうとすると疲れちゃうだけだから」
「そうなんだ。俺にはよく分からないけど……。でもまあ、本当に必要なことだったら自然に思い出すんじゃないかな。思い出さないってことは、そんなものなくたって別に大丈夫ってことなんだと思うよ」
「うん、ありがとう」
こちらを向いて、ヤヒロがはにかんだ。
どきりとした。
どきりとしてしまった自分に、狼狽えた。……違う。今までに見たことない表情だったから、不意を打たれただけだ。
ひどく狼狽えて……だから、ヤヒロが最後に言った言葉の意味も、そのときは深く考えられなかった。
「そもそも自分がフカミヤヒロだってことも、何だか実感がないし」
放課後、誰もいなくなった教室で一人でいるヤヒロを見かけた。
何をしているのかと思ったら、おもむろに教室の窓をあけ、窓から身を乗り出すようにした。
「ヤヒロっ」
嫌な予感がして駆け寄る。
「シバ」
しかしヤヒロはきょとんとしている。
「どうしたの、そんな慌てて」
「いや……」
お前が飛び降りるように見えたから、とは流石に言えない。ふと見ると、ヤヒロの手には……
「紙飛行機?」
「ああ……うん。教卓に余ってたプリントがあったから。そういえば昔、誰かに作り方を教えてもらった気がして……」
「それならさ」
紙飛行機を持っているヤヒロの手首を掴んで引っ張る。
「もっといい場所がある」
島の西の端。海が見える場所へヤヒロを連れて行く。
「こんなところがあるの、知らなかった」
あーっ、と叫ぶと、ヤヒロがぎょっとこちらを見たのが分かった。
「こんな風にさ、ストレス解消したいときに最高なんだ」
ヤヒロがくすりと笑う。
「ストレス……とか、シバがそんなこと言うなんて意外」
「何? そんなに脳天気に見えてた?」
「ちがっ……違う。そうじゃなくて。何かシバは、何でもさらりとやっちゃうように見えたから」
「俺だって悩みとかいろいろあるよ」
「その悩みの原因に僕のこともあるよね」
「そうだよ」
ヤヒロがハッと顔を上げたので、
「だからたまにはお返ししてよ」
明るく言って、彼の手から紙飛行機を奪い取った。
追い風に乗って、それはすうっと、驚くほど遠くまで運ばれていった。
その行方をいつまでも見つめている……ヤヒロをシバは、いつまでも見つめていた。
それから暇さえ見つけては、紙飛行機を飛ばしに行くようになった。
ヤヒロはいろんな折り方を知っていた。そしてたいていどんな折り方をしても、シバより遠くに飛ばしてしまう。悔しいからヤヒロが折ったのと交換してみたけれど、やっぱり上手くいかなかった。
「雑念があるからじゃない?」
とヤヒロが笑う。
「雑念? 何の。失礼な」
「余計な力が入ってるんだよ」
そう言ってヤヒロが後ろから覆い被さるように手を回してきたものだから、さらに力が入ってしまったことに、ヤヒロは気づいていない。
紙飛行機を放り投げたとき、ふわっ、と、ヤヒロのにおいがした。
紙飛行機の行方を追うことができず、気づいたときには波間に隠れて見えなくなっていた。
島の外周を走るマラソン大会の日。天気予報は雨だと言っていたから期待していたのに、雨は降りそうで降らなかった。
賞を取れるとは思っていないが、そこそこいいタイムじゃないと成績に影響する。「めんどくせー」「やってらんねー」と思ってはいても結局放り出すことのできない自分は、やっぱり『優等生』なんだな、と自嘲する。
僕のことは気にしないで、とヤヒロに背中を押されたものの、やっぱりヤヒロのことが脳裏を掠めた瞬間、石畳の段差に躓いて、派手に転んでしまった。ちら、ちら、と通り過ぎていく生徒たちの視線を感じるが、誰も助けてくれるわけじゃない。恥ずかしくて早く合流したかったが、すりむいた膝から流れた血が、とうとう靴下まで染みてきてしまった。それでも何とか……と、立ち上がろうとしたとき、
「シバっ?」
そこにいたのはヤヒロだった。
「大丈夫? 立てる?」
「ちょっとドジった。別に何てことない。ヤヒロは先行ってて」
「でも……ズボン破けてるし。そのままじゃ走れないよ。つかまって」
「あっ」
ヤヒロに抱え起こされる。
「医務室に行こう」
「自分は行くの嫌がったくせに、ひとには行かせるのかよ」
「そうだよ」
本当は、別にこれくらい平気だから戻って、と突っぱねるべきだったのかもしれない。でもつい、ヤヒロの優しさに甘えてしまった。
傷口を水で洗ったあと、医務室に向かう。寮から替えのズボンを持ってきてくれるというヤヒロとは、一旦別れた。
ヤヒロには偉そうなことを言ったけど、シバもやっぱり、医務室は苦手だ。医務室が、というより、先生が苦手だ。
「失礼しまーす……」
恐る恐るドアをあける。生徒が来たことに気づいているだろうに、先生は微動だにしない。
「すみません、ちょっと、転んじゃって……」
「座って、ズボン上げて、傷見せて」
「あ、はい……」
傷を一瞥すると先生は、「何だこの程度か」とでも言いたげにため息をついた。本当にちゃんと手当てをしてくれるのか、最後の最後までびくびくする。さらに傷口を広げられそうな恐怖すら覚える。
「三人目だよ」
「は……」
「今日、三人目。君と同じように同じ場所を怪我してきた子。何? 今日は何かそういう日なの?」
「マラソン大会だから……じゃないですかね」
「ふうん、そんなのやってるの」
そんなのやってる……って、結構外、騒がしいはずなんだけど、まさか今まで知らなかったんだろうか。
「やって、ます」
「君の傷は結構重症だから本当に転んだんだろうね。さっきの二人は何でここに来たの、ってレベル。休憩所代わりに使うのは本当やめてもらいたいね。暇じゃないんだから」
「はあ……すみません」
って、何で謝らないといけないんだ。
「そんなにマラソンが嫌なら、いっそ骨くらい折ってきたらどうなんだって」
意味ありげに膝をさわられて、ぞくりとする。この先生なら本当に骨を折ってもおかしくないと思ってしまう。眼鏡の奥の瞳が、鈍い輝きを放ったように見える。
シバの怯えを見透かしてか……先生は鼻で笑うと、
「で、そこにいる君は? 友達を心配するフリをしてサボろうって腹?」
ドアの方を見ると、ジャージのズボンを持ったヤヒロがいた。
「違います。俺が頼んだんです。俺のために着替えを持ってきてくれたんです」
嫌味な先生だな、と思いつつ、それでもさっきまでは流せてはいたが、ヤヒロを悪く言われるのは我慢ならなかった。
「ごめんなさい、すぐ戻ります」と、ヤヒロはシバの胸にズボンを押しつけると、俯いたまま駆けていってしまった。
(何なんだ、この先生……)
ムカムカしたままズボンを履き替え、慇懃無礼に「ありがとうございました!」と頭を下げ、医務室を後にする。
そういえば……
と、外に出たところで思い出す。
そういえばあの先生の名前も確か、「ヤヒロ」といった。
シャワーを浴びたら絆創膏がぐしゃぐしゃになってしまったので、取り替えてもらおうと医務室に向かう。
もう夜遅いので誰もいないかもしれないが、そのときは救急箱から拝借すればいいだろう。
幸い医務室には誰かいるようで、明かりが点いているのが見えた。
ドアをあけようとして……
「……あっ、あ……」
聞こえてきた嬌声に、ぎくりとする。医務室からは絶対聞こえてくるはずもない……聞こえてきてはならない……淫靡な声。
引き返すべきだった、すぐに。聞かなかったことにするべきだった。けれど好奇心を抑えることができなかった。
ドアの隙間から中を覗き、飛び込んできた光景に目を疑った。
嬌声を上げていたのは……先生だ。
昼間の表情とはまるで違う。眼鏡もしていないから一瞬分からなかったけれど、でも確かに、先生だ。先生と……もうひとり、いる。先生より年上の男性。先生はその男性のことを、『教授』と呼んでいる。その『教授』の胸に背中を預けるようにして、先生が喘いでいる。
視線を下に映して、ぎょっとする。先生のお尻の穴に、『教授』のペニスが出たり入ったりしている。先生が腰を動かすたび、濡れた音が響き渡る。
「あっ……いい……っ、も、っと、奥っ……」
男同士でする方法がある、というのは知っていたけれど、実際目にするのは初めてだった。というか普通は目にするもんじゃない。クラスでも、実は誰と誰がデキている、とか、そういう噂を聞くことはあったけれど、本気にしてはいなかった。嫌悪とかではなく、ただ、自分とは違う世界の出来事、としか思っていなかったからだ。それがまさか……
先生のペニスもすっかり勃ち上がって、「いい」と言うのが決してリップサービスではないことが分かる。教授は時々気まぐれに突き上げる動きをして、でも、おそらく本気で先生をイかせるつもりは、まだない。焦れたように先生が首を横に振る。
「も……イ、きた……い……イかせてっ」
「まだ足りない?」
そう言うと教授は、後ろから先生の両乳首をつまんだ。
「やあっ、それ、やっ……!」
「嘘。さっきより締まりがよくなった。知ってるよ。夜紘はこうされるのが好きだって」
ヤヒロ。
同じ名前を聞かされると、心臓に悪い。
「おかしくなるから……っ」
「好きじゃない? じゃあやめようか」
「好き……」
「ほら、やっぱり」
「好き……だ、けど、前も……前もさわって」
「でも手は二つしかないしね。丁度いい。手伝ってもらおうか」
一瞬、覗いているのがバレたかと、肝が冷えた。けれど教授が声をかけたのは、奥のベッドにいる……
「ヤヒロ」
思わずひっと声を上げそうになった。ヤヒロ。どうして彼がここにいるんだろう。ぺた、ぺた、と、足音をさせてやってきた彼は、何も身に纏っていない。
「君ももう我慢できなくなっているよね」
そしてそうすることが当然のように、先生の上に跨がった。先生は初めは悲愴な声を上げていたけれど、教授に何か囁かれてからは、ぴたりと大人しくなった。
ヤヒロのお尻に、先生のものが出たり入ったりしている。激しく腰を動かして。けれどヤヒロは人形のように無表情だ。だからだろうか。淫らな行為を目撃しているのに、身体の芯がすっと冷えていくのは。まるで解剖か、何かの実験を観察させられているような気がするのは。
動きが激しくなって、先生が達したのが分かった。
ぐったりとした先生を挟んで、教授がヤヒロにキスをした。
「んっ……」と、ヤヒロがそのとき初めて、声を漏らした。教授がヤヒロの頭を何度か撫でると、ヤヒロはそれこそ糸の切れた操り人形みたいに、どっ、とベッドに倒れ込んだ。
重なりあって倒れている、先生とヤヒロ。
二人の頭を交互に撫でながら、教授が囁いた。
「親子は仲良くした方がいいよ」