執筆:七賀
大変かと訊かれると、案外そうでもない。子どもを見ていた少年時代に戻っただけだ。
母が帰ってくるのはいつも夜遅くの為、日中は弟二人にかかりきりだった。だから子どもを見るのは慣れている。
イクミの部屋は湿気を帯びていて窮屈だが、耐えられないほどではない。夜は訪室者がいないので、堂々と椅子に座っていて平気だと分かった。昼間は稀担任の教師だという男が様子を見に来るので、そっと物陰に隠れる。そんな生活も三日目を迎えた。
「いつまでここにいるの?」
イクミが床に座ったまま、うんざりした顔でこちらを見上げた。彼は夕食後からクレヨンを引っ張り出し、床一面に赤や黄色をつかってよく分からない絵を描いていた。なにかの怪獣に見えるが、尚登には分からない。アニメや漫画のキャラクターにも見えなかった。
イクミに刺された傷の痛みもおさまり、今は好奇心だけを理由に、部屋に泊まって彼を観察している。正直に言うと幼児のような彼は見ていて飽きない。
イクミは尚登を鬱陶しそうに扱っていたが、刃物を用いたり、以前のような殺意や激情を見せることはなかった。
彼は尚登の存在を誰にも話さず、隠している。
他の生徒は定時に食堂へ行くのだろうが、イクミは完全に切り離され、部屋に食事が運ばれてくる。それも一人で食べ切るには量が多く、イクミは少し食べては残りを尚登に譲った。普段から食べない為、大盛りの食事が数回に分けて運ばれてくるらしい。
「食べないと怒られるんだ。アンタが食べてくれたらうるさいこと言われないから、ラッキーだったかも」
「食べた方がいいよ。体重測定したらばればれだし、それに成長期なんだから」
と言いつつ、夕食の野菜スープを口に含んだ。塩分が少ない優しい味だ。
幼児向けのファンタジーな本を読み聞かせしたり、シャワーに付き合ってあげたり。不安定な少年と二人きりで、ままごとのような生活を楽しんでいる。
「ねえ、あいつ……弟の名前、ナオトって言うんでしょ。何で兄弟で同じ名前なの?」
「何でだと思う?」
イクミはうーんと瞼を伏せていたが、分かんない、どうでもいいと床に座った。
「前にちょっと……色々やられたし。正直に言うけど、嫌いなんだ。ヤヒロさんにべたべた近付く奴は皆嫌い」
「そうか。俺は彼も、彼の周りにいる人も好きだよ。だから君のことも好き」
「何で?」
「その人の周りにあるもの全部愛おしく見えるからさ。薔薇がそうでしょ? うっかり触って指を切ったって、花首を切り落とすようなことはしない。むしろ新しい一面を知って心底嬉しくなる」
イクミはいよいよ意味が分からない、という態度で、軽蔑の眼差しを向けてきた。
「変なの」
そして思い出したようにガラスの瓶を取り出す。尚登は食事中だったが、器を置いて視線を向けた。瓶の中には大量のタブレットが入っていた。
「それは?」
「お菓子。おじさんがくれたんだ」
これを食べると、何だかいつも楽しくなるんだ。そう答えて、彼は中からひとつ取り出して口に放り入れた。
「へぇ……」
近くまで寄り、瓶の中を注視する。
「俺にもひとつくれる?」
「やだ」
「はは。くれたら、そうだね……俺もいいものあげる」
「本当? じゃあ、特別」
受け取った、小さな……錠剤を口に含む。砂糖でコーティングされたそれを、水なしで噛み砕いた。
飲み込んでしばらくした頃、肌に触れる空気が変わった気がした。
いや、空気ではなく自身の体感かもしれない。
床に描かれた赤い線が空中に浮かび上がって、立体的になった。そこかしこが歪んで、生き物のように揺れる。赤くて熱い線が自分達を取り囲む。しかし火照っているのは自分の頭と身体の方。
イクミは突然床に転がり、もがきだした。頬は林檎のように赤くなっている。まるで発熱したようだが、触れてみると身体はむしろ冷えきっていた。
「ヤヒロ……さん」
人が落ちて……いや。壊れていくさまを、間近で見ていた。ヤヒロさんヤヒロさんと、なにかから逃れるように自分を慰める彼を見下ろす。あっという間に反り返ったペニスと、その奥で蠢く小さな穴。尚登は徐にそこへ手を伸ばし、躊躇いなく舌を這わせた。
「ひあぁっ」
華奢な身体は敏感に反応し、不自然に折れ曲がる。他の誰かの名を呼ぶ相手を強引に組み伏せていると、彼……ヤヒロを抱いているような気になる。彼も落ちるとヒロトとしか言わなくなるから。
誰かに心を奪われているということは、その時点で誰かの「もの」に成り下がったということだ。それが良い。楽しい。愛おしい。他人の家の庭に勝手に苗木を植えるような行為がたまらなく好きだ。
綺麗な場所を踏み荒らしたい。
視界の端でトレイに乗ったフォークが見えたとき、無性にそれを突き立てたくなった。身体が勝手に傾きそうになったので、加減せずに口の中の粘膜を噛み切った。脳天を突き刺すような痛みに襲われたが、曇っていた視界が一瞬で鮮明になる。
「……」
鉄の味をした液体を飲み込み、静かにため息をついた。
「イクミ君。約束したから、いいものあげるね」
彼の両腕を押さえつけて、優しく口付けする。普段の彼なら大暴れしただろう。大好きなヤヒロさん以外は許せなかったはずだ。
でも彼はむしろ蕩けた瞳で、手を伸ばして求めてくる。
「ヤヒロさん……っ」
その姿が彼を彷彿とさせた。ヒロト、ヒロト、好き……どうしていなくなったの、と繰り返す彼を。
胸のピアスも相まって、ますますダブってしまう。
「大丈夫。ここにいるよ」
彼は自分の首を絞めることで心を落ち着けている。この少年はどうだろう。早くもぐずぐずになったアナルを優しく解す。全て見たい。全部受け止めるから、内側に押し込んだものを吐き出してほしい。
「いや、いやだあ……っ」
尚登が性器を埋めたとき、イクミはとうとう泣き叫んだ。
「いや、いやだ……ひとりはいや……!」
犯されていることより、ここに独りで閉じ込められていることに怯えている。
泣き喚く赤ん坊を宥めるように。彼を抱き起こして膝に乗せる。
「俺がずっと傍にいる。だから泣かないで。ね」
「あっ、あぁ……」
腰を掴んで、下から何度も突き上げる。そういえばヤヒロには単調なセックスがつまらないと言われた。恐らくこういう所だろう。ただ性器を擦り合わせて奥を抉るだけ。……でも、それが一番楽しい。全裸の相手をじっくり観察できる機会がセックス以外にあるだろうか。何なら触れなくてもいい。視線だけで犯す自信がある。
イクミはイッた後も彼の名を呼び続けた。時々身体が跳ねて、頭を掻き毟る。
きっと彼は、ヤヒロとは根本的に違う。痛みも孤独も心から厭んで恐れている。
なら塗り替えるのは難くない。
瓶を手に取り、一度噛み砕いてから彼に口付けした。もしこれが幼い頃絵本に出てきた魔法のお菓子なら、彼を夢の世界へ連れて行ける。暗い海に囲まれた、退路のない世界へ。