· 

狂熱

執筆:七賀

 

 

 

痛みを感じると同時に理解した。
彼が離れた直後、腹に添えた手が赤に染まった。生温い液体が尚登の服を汚していく。
怒りや苦痛より、まず驚いていた。以前から彼のことは警戒していたが、ここまで思い切った真似をしてくるとは思わなかった。
後ろへ数歩後退り、イクミが離れる。その手にはぎらついた鋭利な殺意。先端からは血が滴っていた。
きっと彼だけなら起こり得ないことだった。彼を仕向けた人物さえいなければ。
「皆死んじゃえばいいんだ。ヒロトって奴も、お前もお前の弟も、皆皆……! おじさんの言うとおりにすれば、ヤヒロさんは俺だけを見てくれる……!」
小さなナイフを持つ手はがたがた震えている。そんなに震えていたら落として、医務室の中にいるヤヒロに気付かれてしまう。
そっと、触れるように壁に手をついた。もう片方の手は口元へ持っていき、「しっ」と注意した。
声を潜めながら、焦点の合っていない彼を宥める。
「君のことはよく知ってるよ。これ以上悪さすれば、本当にこの島にいられなくなる。もちろんヤヒロさんにも二度と会えなくなる。それは嫌でしょう?」
……
でも。もしかしたら、その方が彼の為なのかもしれない。
血のついたナイフは簡単に奪えた。イクミは混乱しているのか、白衣を握り締めてぶつぶつ唱えている。そしてようやく、白衣についた血は彼のものなのだと分かった。
彼が動く度に白衣が揺れ、肌が見えた。上半身は何故か裸で、乳首の周りがとくに酷い。両方にピアスをしているようだが、余程強引に穴を開けたか……シルバーのピアスは彼の血で真っ赤だった。
一体誰に? と尋ねようとしたものの、そんなの一人しかいないと思い直した。廊下で睨み合う膠着状態が続く。刺された腹部から、膝元まで血が伝ってきている。表情に出さないよう努めることが一番しんどかった。
「ヤヒロさん……。ヤヒロさん……あぁあ、ナナ……っ!」
彼が急に頭を抱えて叫んだ為、反射的にその口を手で塞いだ。少しでも建物から距離をとろうと、痛みを堪えて彼を引っ張る。最初は手に負えないと思ったが、先へ進むにつれて騒ぎもせず、大人しく引き摺られるようになった。
刺されたというより実際は横に切りつけられたようだ。出血は多いものの、傷は浅い。
彼の行動を明るみにし、再びモルモット生活に戻しても良かった。けど、彼はきっとつかえる。
ハンカチで腹部を押さえながら船が停泊する岸壁へ行き、イクミを押し込んだ。船員はいない。ハンカチもあっという間に重くなったが、ないよりはマシだった。立場上常に不測の事態に備えているので、隠しておいた救急セットを引っ張り出し、自ら応急処置をする。
「これが済んだら君の部屋に連れてってもらおうかな。今日は弟の部屋に泊まろうと思ってたんだけど、こんな状態じゃ驚かせちゃうから」
病院へ行くという選択肢はない。少なくとも、独りでは。今彼を手放したら、本当に刺され損だ。
……何なんだよ……俺はヤヒロさんと一緒にいたいだけで……でも……違う、違う……もう、こんなこと……
イクミは白衣を握り締め、膝に顔を埋める。尚登は黙っていた。
彼が狂ったのはヤヒロに会ってから……ではない。もっとずっと前から。肉親と離れ、この島に連れてこられた時から、彼の体内時計は狂ってしまったのだろう。
ならその薇を巻き戻してみるのも面白い。ヤヒロを見ていると特に思う。過去に戻れば戻るほど、本来の姿が見えてくる。狂った彼が好きだけど、自分は狂う前の彼も見たいのだ。
ヒロトはその為に絶対必要な存在……
かつて仲の悪い弟達の為を思ってしたことは、失敗した。だからまた元に戻して、一から育てて、早くモルモット生活から這い出させないと。
船が揺れる。緑色の海面が波を打つ。
ガーゼの包みをぐしゃぐしゃに丸め、嗚咽する彼に部屋を案内させた。
弟と仲良くしてくれてありがとう、とあえて皮肉っぽく声をかけたが、彼は無視してベッドに倒れ込んだ。
泣き寝でもするつもりだろうか、と様子を窺う。しかしその予想はあっさり裏切られ、彼は血だらけの手で自慰を始めた。
「は……ヤヒロさん……っ」
……
彼の為に用意された、監獄のような部屋には窓がない。彼が度々夜中に抜け出すものだから特別に移されたのだと聞いた。もちろんどこへ行こうと彼に埋められているチップで位置情報はばればれだ。だからもし彼を島から連れ出すなら、その手を再び赤く染めないといけない。
一度精神を粉々に壊されている。そういうところが弟と似ている。ついさっき刃物で刺した相手が目の前にいるのに、一心不乱に性器を弄っているのも素直に凄いと感じた。
「イクミくん。俺もちょっと休ませてもらうね」
貧血になりそうだったが、わざわざ彼がいるベッドの隣に椅子を持っていき、崩れ落ちるように座った。
お互い怪我人なのに、なんとも不思議な状況だ。自分は寛ぎながら彼の自慰を観察している。
「大丈夫? 胸痛くないの?」
見下ろしながら問いかけるも、もう彼の目に自分は映っていなかった。
こんな不安定な少年を野放しにしている組織もどうかと思うが、いざとなったらすぐに始末するつもりなんだろう。使い捨ての駒。この島から子どもがひとり居なくなったって、騒ぐ大人はひとりもいない。大きなため息をつき、腹に手を添える。
「少し休んだら……後で君の胸も手当てしてあげる。そのままじゃ化膿しちゃうからね」
イクミは小さく呻き、勢いよく射精した。白い体液は、手についていた血液によってあっという間に色を変えた。
ヤヒロがいないと生きていけない、可哀想な子ども。孤独で脆い、なんて……なんて可愛らしい存在だろう。
ヒロトのことで頭がいっぱいだったが、思わぬ収穫だ。
弟を二人に戻す日までキープしておこう。彼の身体が他の子ども達より丈夫なことは、これまでの実験で証明されている。
イクミが気を失ったことを確認し、背もたれに全身を預ける。
胸ポケットからスマホを取り出し、直接電話番号を入力した。
相手はすぐに電話に出たが、何故か第一声は上擦っていた。それから何で連絡をよこさないのか、と不満を続ける。
「ごめんごめん、……そうだね、今週中には帰るよ。多分またお土産を持って帰るから、楽しみにしててね。サクヤ」