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黒と緑[1]

執筆:八束さん

 

 

 

人里離れた森の中。《ギフト》を持った少女たちが集められる、全寮制の学校。

 寮の自室に戻ると、窓ガラスが粉々に割れていた。外からの風をモロに受けて、カーテンが大きく靡いている。
 きれい、と思った。
 なびくカーテンも、割れたガラスも、その下で蹲って泣いている翠子(みどりこ)さんも。すべてが完璧な配置で、ひとつのフレームの中に収まっている。
 レースのカーテンが、あやすように、翠子さんの頭を撫でる。
「翠子さん」
 慎重に一歩、足を踏み入れる。パリン、と、ガラスの割れる音がした。
「もう嫌なの。こんなところにずっと閉じ込められていると頭がおかしくなっちゃう。おうちに帰りたい。どうして皆平気でいられるの。おかしいのは私じゃない。皆の方よ」
「そうね」
「おうちに帰りたい。ここは怖い。ユウゴに早く会いたい」
「ほんの少しの辛抱よ。何も永遠にここに閉じ込められているわけじゃないんだから」
「私が」
 翠子さんがキッと顔を上げる。絡まっていた髪を梳いてあげるつもりだったのに、おかげでできなくなってしまった。ああでも、髪が乱れていても……
「私が一番怖いのはあんたよ、玄咲(くろえ)」
 ……乱れているからこそ、翠子さんは美しい。
「どうしてそんな落ち着いていられるの。何もかも悟った風な顔をして。あんた何か知ってるの。あんたが黒幕なんじゃないの。私たちがこんなところに閉じ込められなきゃならないのも、時々『いなくなる』子がいるのも、皆、皆、皆……!」
 パンッ、と頭上の蛍光灯が割れた。
「翠子さん!」
「きゃあっ」
 慌てて翠子さんに覆い被さる。バラバラバラ、と、落ちてくる破片。
「大丈夫? 怪我はない?」
 ないに決まっている。私が守ったのだから。
 翠子さんの震えが大きくなる。全部『自分でやったこと』なのに、こんなに脅えて。本当、翠子さんは……
「やめてよ!」
 突き飛ばされて、尻餅をつく。無防備に床に手をついてしまったせいで、ガラスで指を切ってしまった。
「ごめ……ごめんなさい、玄咲」
 翠子さんはいつもそうだ。後悔するくらいなら、初めからやらなきゃいいのに。
「大丈夫よ。……保健室、行ってくる」

 保健室に先生がいなかったので、勝手に消毒して包帯を巻いた。
 寮に戻る途中、ピアノの音が聞こえてきた。聞き入って、ついつい足が音楽室の方に向いてしまう。部活も終わって、生徒たちはいないはずだ。
 とらえどころのない、不思議な曲だった。不気味、と感じるひとが多いかもしれない。でも何故か、その音色に惹かれてしまう。そして不意に、まるでずっと闇の中にいたひとが一瞬だけ光を見たときのような、優しい旋律が差し挟まれる。音が途切れたタイミングで、
「玄咲さん?」
 声をかけられた。
 ピアノを弾いていたのは、彩波(いろは)先生だった。
「どうしたの? こんな時間に」
「保健室に用があって」
「あら、大丈夫? 熱でもあるの?」
「いえ。ちょっと指をガラスで切っちゃっただけです。それより先生、今の曲って何ですか?」
「胎児の干物」
「えっ?」
 何か、聞き間違えたかと思った。でも先生は、穏やかな笑みを崩さない。
「サティの曲よ」
「ああ……サティの曲名って、変なの多いですもんね。でもこれは知りませんでした。ジムノペディとかグノシエンヌくらいしか」
「あとこれとかね」
 そう言って先生は、Je te veuxを弾き始めた。
 先生にはすべて、見透かされているような気がした。
「翠子さんとは上手くやれてる?」
 先生は鍵盤を見ないまま、こちらを向いて話しかけてくる。けれどそんな先生と何故か目を合わすことができず、さっきから、なめらかに動く先生の指ばかり見ている。
 愛撫するみたいな動き。
 ピアノが、先生に愛されている。だから先生も、ピアノに愛されている。
 羨ましい、と、思う。
 ピアノに愛されている先生が? 先生に愛されているピアノが?
 感情の整理がつかないまま、「はい、上手くやれています」と応える。
「大変な役割を任せちゃって申し訳ないと思っているの。でもあなたでないと、きっと他の子だと駄目だと思う。どうかあなたの《ギフト》で、翠子さんをよい方に導いてあげてね」
「翠子さんは、大丈夫です」
 はっきりと言いきりすぎたかもしれない。先生はちょっとだけ意外そうな表情をした。だから、「何かあったらすぐにご報告します」と付け加えた。
 玄咲が音楽室から出ると、先生はまた、曲名の分からない不思議な曲を弾き始めた。

 ギフト、あるいは超能力、あるいは……呪い。
 いろんな言われ方をするけれど、要は不思議な力を持った少女たちが、この学校に集められている。生まれた瞬間にギフトが分かって親元から引き離された子もいるし、ある日突然ギフトに目覚めた子もいる。
 翠子さんは、後者だ。
 翠子さんは感情が抑えられなくなると、周囲のものを破壊してしまう。まったく手をふれることなく。
 とても危険なギフトだから、すぐにこの学校に『収容』された。社会に役立つギフトはさらに役立つように、危険なギフトは封じるように、少女たちはここで『教育』される。
 翠子さんは一学年上にあたる。でもギフトとか、適性とか、その他もろもろが考慮されて、寮では玄咲が同室になった。翠子さんはおそらく、友達が、いない。
 翠子さんの危険なギフトのせい、というのもあるけれど、一番の原因はその性格だろう。十も下の子がとっくにこの環境に馴染んでいるのに、翠子さんは未だ、無駄な抵抗を続けている。翠子さんはとんでもないお嬢さまで、部屋数が分からないほどのお屋敷に住んでいるから、窮屈な寮生活に馴染めないのだ……とか。将来を約束された許嫁(ユウゴさんと言うらしい)と引き離されたのが耐えられないのだ……とか。そんな作り話を信じるひとはもう、いない。翠子さんが住んでいたのはごく普通のマンションだし、大事そうに手帳に挟んでいた写真はアイドルの写真だった。
 嘘ばかりの翠子さん。
 けれどその美しさだけは、嘘ではない。

 窓ガラスが割れたままの部屋では過ごせないので、直してもらうまで、一時的に別の部屋に移動することになった。反省したのか翠子さんは、荷物を運ぶのに協力的だった。けれど、移動した部屋に蛾がいるのを見つけると、またすぐにヘソを曲げてしまった。
「こんなところ、私がいるところじゃないわ!」
 だから結局、玄咲が手をよごすしかないのだ。
 覚悟を決め、スリッパでパン! と蛾を叩く。仕留めた、と思ったのに蛾はしぶとく、またふらふらと飛び立って、あろうことか翠子さんの髪にとまってしまった。美しい、翠子さんの長い髪に。
 翠子さんをけがすものは許せない。でもけがされている翠子さんを、見たいと思ってしまうのは何故だろう。
「嫌! 取って! 取って! 玄咲、お願い!」
 蹲って泣き出す翠子さん。もう蛾は飛び立ってしまったのに、気づいていない。けれど何故か、「もういないよ」と言うことができない。ジジ……と、蛍光灯が嫌な明滅を繰り返して初めて、駄目だ、と思い、翠子さんの肩に優しく手を置く。
「もう大丈夫よ、私が取ったから」
「本当?」
「ええ、大丈夫」
 蛾くらいで怖がる翠子さん。その蛾はさっき、あなた自身が木っ端微塵にしていたのに。
 翠子さんは大丈夫。全然大丈夫なのだ、本当は。
 何だか気分が悪い、と言うので、翠子さんのベッドメイクも玄咲がやり、翠子さんを休ませる。

 私は、ひとの『心の死期』が分かる。
 一番初めにそれに気づいたのは、『外』の学校で、同級生が自殺したときだった。
 何の前触れもなく、不意に、「あ、この子、明日死ぬ」と、分かったのだ。
 病死や事故死といった、普通の死期は分からない。あくまでそのひとが自死を選ぶときだけ、その予兆が分かるのだ。
 翠子さんは、だから全然、大丈夫。儚そうに見えて、心の強度は、他の子たちに比べてもかなり強い。それよりも今、この学校で一番気になるのは、先生だ。
 ちなみに死ぬことが分かっても、それを止められたことは、今までに一度も、ない。