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明かさないこと(涼夜2)

 


 

ささやかな復讐はささいな思い出。然れどふとした時に蘇り、暗然とした心を照らしてくれる。



今日の夕飯は……そうだ、アジフライを作ってもらおうか。


久しぶりに定時で上がることができた為、髙科は家から近いスーパーへ買い物に寄った。仕事帰りらしい女性やサラリーマンが、時間が経つにつれ増えてきた。身がふっくらしたアジを買い物かごに入れ、パン粉や必要な材料を探す。そういえばあいつは魚を三枚におろせるんだろうか。もしできなかったら教えてやろう。明日は遅出する予定だし、ちょっとぐらい夕飯が遅くなっても構わない。
レジを通し、買い物袋を下げながら駐車場へ向かう。夕日はとうに落ち、青紫の空が頭上を覆っている。
これから家に帰って、夕食を作る。何の変哲もない、ありふれた日常。こんな日常がたまらなく愛おしく、そして幸せだ。

「ただいま」

マンションの七階、一番奥のドアを開ける。中からはテレビの音が聞こえた。休日出勤だった自分とは違い、彼は今日一日休みを満喫できたようだ。
「おかえり。買い物してきたんだ? お疲れ様」
ソファから立ち上がり、髙科の買い物袋を受け取る。
髙科の恋人、矢千深月は振り返って笑った。
「今ちょうど何か作ろうと思ったところ。食べたいものある?」
「アジフライ」
ネクタイを緩めて即答すると、矢千は一瞬固まり、それから数回頷いた。
「アジフライ……。そういえば最近食べてなかったな。わかった、作る」
「手伝おうか」
「いいよ、ひとりでできる。座って休んでて」
買い物袋から次々に食材を取り出し、矢千はさっさと手洗いを始めた。自分も手洗いしようと慌てて洗面所へ向かう。水が流れる音がシンクロする。
ひとりでも大丈夫そうだな。

タオルで手を拭き、部屋着に着替える。
彼と同居してから早くも半年が経つ。

事故がきっかけで記憶を失くしていた彼はとても明るく、悪く言えばおちゃらけていた。しかし今はもう、出会った頃の彼に戻りつつある。冗談もろくすっぽ言わないし、何に関しても非常に冷めている。驚くと思ってこの前は枕元に(玩具の)手錠を置いておいたのだが、気付いたらなくなっていた。彼はそれについて何も言及してこない。尚さら恐ろしい。

記憶が戻って恋人に戻れたことは嬉しいが、あの明るさは残っていても良かったな……と身勝手なことを思ってしまい、慌てて首を振る。矢千が無事ならそれで充分なのだ。ましてや自分のことをパートナーとして認識して、傍に寄り添ってくれている。これ以上なにかを願ったら罰が当たる。
リビングへ戻るとソファのサイドテーブルにビールが置かれていた。飲めということらしい。
すぐ横のキッチンからは食欲をそそる油の音。深くもたれかかって息をついた。
幸せ過ぎて、このまま眠ってしまいそうだ。薄目で壁に掛かっている時計を見つめた。一秒一秒、時針が進む。

こうしている間にも、人生のタイムリミットが刻まれていく。
だから大切にしないといけない。自分を、自分の傍にいてくれる人を見つめ直し、転ばないように前へ向かって歩いていこう。

食卓の大皿に大量のアジフライが乗せられている。髙科もアジフライは作ったことがない為、意外とたくさんできるもんなんだな、と感心した。

席について手を合わせ、矢千に笑いかける。
「いただきます。ビールに合いそう」
「上手くできてると良いけど」
「大丈夫だろ。……うん、やっぱり美味い」
ソースをたっぷりかけて一気に頬張った。衣はサクサクで身はふわふわ。昔食べたアジフライが蘇る。
「口にいっぱいついてるよ」
気を利かせた矢千がティッシュをとり、髙科の口元を拭った。
「なんか、要ってこういうところはすごい庶民的だよな」
「揚げ物は別だな。身体に悪いと分かってても四十までは食べまくりたい」
「四十過ぎたら我慢するの?」
「どうかな」
ひといきにビールを飲み干すと、彼は可笑しそうに笑った。
「何でも、ちょっとずつなら大丈夫だよ」
長い睫毛が揺れている。彼を眺めながら何杯でも飲めそうだと思い、それはさすがに親父くさいな、と仰いだ。
揚げ物や煙草、酒と一緒にするのは良くないかもしれない。でも恋人だって、ちょっとずつなら摂取してもいいだろう。栄養を得る為に、負担にならない程度の量を貪りたい。
食事中に邪な思考に傾きかけている。

矢千は黙々と海藻サラダを食べていた。ところが、ふと箸を置いて視線を横へずらした。
「そういえば……大学のとき、俺のアジフライをお前が食ったことあったよな」
一瞬、グラスを持つ手が震えてしまった。

「……」

しかし平静を装い、冷蔵庫から新しい缶を出してグラスに継ぎ足す。
……へえ! そんなことあったっけ?」
何となく、忘れてるふりをした。矢千の反応が見たかったからかもしれないし、その出来事を懐かしんでいたことが急に小っ恥ずかしくなったからかもしれない。
なんせ若かりし頃の振る舞いだ。今思い返すと頭が痛い。
矢千はどこまで覚えているのだろう。不安に思いながら再び席をつくと、彼はやはり不満げにアジフライを頬張った。
「そうだよ、あった。俺のアジフライが食べたいとか駄々こねだして、大騒ぎして、俺の食べかけをひと口食った……と思ったら、それを俺の皿に戻した」
「そんなことを? うわ……最低だな、そいつ。引いた」
「お前な。ほんと、あの時は腸煮えくり返った」
輝かしい青春の一ページのはずなのに、彼の憎しみのノートまで開いてしまったことにげんなりした。自業自得だけど。
「信じられないと思った。何で俺が口つけたやつを平気で食えるんだろ……って」
……
それはもちろん、その時既にお前のことが好きだったから。
なんて言ったら、もう何度目か分からない告白になってしまう。だから自分の箸を彼に手渡し、口を開けた。
「あーん」
「何」
「食わせて。アジフライ」
矢千は箸を受け取ったが、視線は恋人に向けるそれではなかった。軽蔑の眼差しだ。
「多分、その時の俺はお前にこうしてほしかったんだと思う」
……っ。……また適当なこと言って」
彼の顔はわずかに赤い。アジフライが口元まできたとき、何故かこのアジフライが彼のような気がしてぞくっとした。もちろん、そうなら尻尾まで食べられる。お前の全ては俺のもの。


確かにあの頃の「好き」は、恋愛感情ではなかったように思う。それでもただの友人とは思えない何かを抱えていた。俺に平気で馬鹿なことをさせる親友はお前だけだったんだから。ということを、本当は今も打ち明けたい。
でもそれは敗北宣言みたいなものだ。
「美味いな」
昔も今も、彼に惚れて仕方ない。
まぁとっくにばれてるだろうから、手を合わせて呟いた。
「ご馳走様。デザートはお前だったりする?」
「よくそういうことを真顔で言えるよな。尊敬するよ、未来の社長」
「ふふっ」
社長の座なんてどうでもいい。今の役職だって充分過ぎる。あとは生活に困らないだけの金を稼いで、彼を守ることができたらそれでいい。
矢千の指輪の輝きを受け、髙科の指輪も眩いている。ようやく揃えることができたのだ。この光を二度と失ってたまるか。

夜の闇に紛れ、白いシーツに沈む。
「あっ……く、うっ」
「きつ……ほら、緊張しないでもっと力抜きな」
全裸の矢千を後ろから抱き抱え、小さな入口を貫く。このところ互いに忙しくて、情事は久しぶりだった。しばらくしない間に、彼の体内は変化を遂げているように思う。
自分が知らない間に姿を変える。だから知り尽くしたい欲望に駆られる。彼の熱も汗もにおいも、全部受け止めて感じたかった。
長い愛撫のあと、矢千の入口はようやく緩んだ。それに喜び、律儀に動き始める自分のものが憎らしい。
「一回さ、今まで届かなかったところも試してみたいよな」
腰を揺らしながら、矢千を徹底的に観察する。いや、観察は言葉が悪いか。要は見蕩れて、注目している。揺れる髪や反り返る胸、口端から零れる唾液……普段潔癖な彼が汚れ、乱れるさまを楽しんでいる。
矢千はどうなっても綺麗だ。そして可愛い。と思うのは、ただの恋人の欲目である。
「ほら、結腸責めとか」
「遠回しに死ねってこと?」
彼は先程までの喘ぎ声とは百八十度違う低音ボイスで髙科を睥睨した。そしてそのまま身体の向きを変える。一度性器が抜けてしまったが、正対してから再び中に沈めた。膝に乗る体勢で、つらそうに肩を揺らす。
「もしかして気持ちよくない?」
矢千の瞳がわずかに揺らいだことを髙科は見逃さなかった。すぐに唇を重ね、激しい口付けを交わす。
……いいに決まってんだろっ」
彼を不安にさせてしまったことを心の中で詫びて、勢いよく奥を突いた。
矢千の小さな泣き声がずっと聞こえていた。その度に抱き寄せて、やがて押し倒して、最後は二人で倒れ込んだ。
火傷しそうに熱い、身体と心。離れたら凍え死んでしまいそうなのに、触れたら溶けてしまいそうになる。
彼の中が一際強く締まった時に射精した。まずいと思うのに、彼はさらに強く、自分の腰に脚を絡める。
「はぁ、はぁ………………っ」
子どもみたいに涙を流し、何度も自分の名を呼ぶ彼が愛しくてたまらない。食べたくなっても仕方ないだろう。
どこにもいかないで、と首に手を回してくる。大丈夫だよ、と囁いて、宥めるように頭を撫でる。本来与えられるものを与えられずに育った彼は、時々幼い子どもに返る。
「あっ!? やあ……だめ、え、イク、イッちゃう……!」
あえて知らないふりをしていた、ずっと腹を叩きつけていた彼の性器を上下に扱く。彼が射精するタイミングはほとんど心得ている。ぐっと顎を引いて、太腿を閉じようとしてくるときだ。今回も思ったとおりの反応を見せ、矢千はシーツを握り締めた。
白い体液が規則的に吹き出す。もう出し切っただろうか、と先端に爪を立てると、彼は悲鳴を上げて身を捩った。
「要、やだ……っ」
「ん? 痛かった?」
「ちが……あ、あぁ……っ」
指の腹で優しく捏ね回すと、彼はいやいやと首を横に振って腰をいらやしく揺らした。まったく、このギャップがいつ見ても可愛い。動画を撮って普段のクールな彼に見せてやりたい(でもそんなことをしたら殺されるのでやらない)
枕をぎゅっと抱き締め、矢千は脚を放り出した。まだ繋がっている為、抜けないよう気をつけて覆い被さる。
「やっぱりお前がイク時が一番気持ちいいかも。中がすごいきゅうきゅう締めつけてくるから」
「ば、か……
腰を密着させたまま、開きっぱなしの口に舌を這わせる。でも分かっていた。彼は多分、まだイッている。虚ろとした瞳で小さな喘ぎをもらしている。試しにちょっと中の出っ張りを突くと、ひあっ!と叫んで意識を失ってしまった。
ここまで彼を変えてしまった自分が恐ろしいし、どんどん快楽に弱くなる彼も恐ろしい。
けどやっぱり好きだ。身体だけ気持ちいいことも、いつかは必ず心をほぐしてくれる。
彼の手を強く握り締めて、同じ夢が見られるように瞼を閉じた。


……はあ。明日仕事行きたくないなー」
「三回目。わかるけど」
「いっそ一緒に休んで、美術館巡りでもするか!」
元気よく手を叩くと、隣から水平チョップが飛んできた。悶えながら枕に顔を埋める。
「冗談に決まってんだろ。本当に冗談通じないな!」
「そうじゃない。今叩いたのは、俺の身体の痛みを分かち合う為の大切な行為だよ。お前がやり過ぎたせいで俺は腰が死ぬほど痛い」
事後、二人でベッドに倒れながら会話を続けた。矢千の言ってることは正しいような正しくないような気がした。でも今はイッたばかりで頭が働いてないから、深く考えるのはよそう。
「腰大丈夫?」
「んー……まぁ、ちょっと寝れば大丈夫」
髪を梳いてやる。

タオルと水を持ってきてやろう。髙科はベッドから立ち上がろうとしたが、寸前で腕を掴まれた。
「要……?」
また、彼は不安げにこちらを見上げている。
タオルを取ってくるだけだと言えば良いのに、何故か言葉が出てこなかった。代わりに役に立たない唇で、彼の唇を塞いだ。
大丈夫……
お前をひとりになんてさせないから。

深く深く、気持ちを吐き出すように。彼の気持ちを吸い取るように、息を奪う。

「もうすぐ一年の半分が終わる」
……そうだな」
「そしたら……二人で結婚式場の下見に行くか」

彼の左手を握る。矢千は目を見開いた。
「本当はお前が記憶を取り戻した直後に婚姻届出したかったんだよ。でもお前は全然心の整理がついてなかっただろうし、周りも性急だって言うと思ったから。……ちゃんと俺達は恋人で、この先もずっとやってけるんだって……証明する時間が欲しかった」
彼と暮らすようになって確信した。この想いは落ち着くどころか激しくなっている。
自分達は大勢の愛情と幸せを見てきた。今度は自分の番だ。眺めるのではなく、この手で掴みとろう。


「結婚しよう、深月」


棚の奥に仕舞ってる婚姻届は後で渡そう。今はただ、愛を伝えたい。
君を守る時間に終わりはない。君がいる限り、俺の幸せも限界はないから。

人生で二回目のプロポーズ。それももちろん、彼に捧げる。


……はい……っ」


寂しい想いなんてさせない。今みたいに嬉し泣きさせることはあるかもしれないけど、悲しいことからは守ってみせる。
また、たまにはアジフライを作ってもらおう。この代わり映えしない地味な一日が、これからもずっと続きますように。