矢千には不思議な趣味がある。
以前、休日は遊びに行ったりしないの? と訊くと、眉ひとつ動かさず「すいどう」と答えた。
髙科の頭の中では「水道」と一発変換された。水道。水道……水道……局。
しばらく呆然としてると、彼は白い目を向けながら「トンネル」と付け足した。
水道じゃなくて隧道か。どうせなら「ずいどう」と言ってほしかった。いや、ていうか。
「隧道に遊びに行く……の? お前はジ○リのキャラクター? トンネルの中で何をどう遊ぶんだよ。かけっことか迷惑だからやめろよな」
珍しく食堂で鉢合わせた為、遠慮なく矢千の目の前に豚カツ定食を置いた。矢千の今日の昼飯はアジフライ定食だ。彼が学生で賑わう食堂に来ることは珍しいので、そこも無駄にテンションが上がってしまう。
大学三年生となり、矢千と出会ってから三年目に突入した。それでもまだ彼について知ってることは指で数える程度で、好きな音楽も生まれた土地も知らない。ひとりでいる時にいつもアレ訊こう! と思うのに、いざ彼と顔を合わせると全部すっぽぬけてしまう。大切なことも些細なことも遥か彼方に追いやられ、今彼が浮かべている表情に釘付けになってしまうのだ。
我ながらおかしいとは思う。これじゃまるで、初めて恋した中学生みたいだ。
矢千は恋愛漫画ならひとりは登場する、クールで無愛想なイケメ……いや、ただの無愛想なモブキャラだな。
「隧道へ遊びに行くけど、隧道の中で遊ぶわけじゃない。ちょっと食べ終わるまで黙っててくれない? 食事中にぺちゃくちゃ喋るの嫌いなんだ」
ふぁー。聞きました? これが付き合って三年目になる友人に向ける言葉でしょうか。人間性を疑う。漫画の悪役キャラ見てみ、皆骨付き肉にがっつきながらぺちゃくちゃ喋ってるじゃん!
食事中が一番緊張が解けてコミュニケーションが円滑にとれるんだよ。親しくない人と打ち解ける絶好の場所じゃないか。……って、俺はさっきから何で頭の中でめちゃくちゃ喋ってるんだ。矢千とではなく、もうひとりの自分と喋ってる。
「矢千、そのアジフライ美味そう。俺にもちょうだい」
「……」
はい無視。まったく問題ない。何故なら俺は今まで彼に百回以上無視られている。出会った当初は心臓に巨大な杭が突き刺さったけど、今は爪楊枝にも劣る小さな小さな棘だ。
「俺の豚カツ一切れやるよ。魚もいいけど、たまには肉食っとけ。お前もやしみたいにひょろひょろなんだから」
「黙れ」
とうとう一番下のオクターブ音で睨まれたが、彼の箸をひったくって手をつけてない方の豚カツを一切れ置いてやった。
「ほら、これならいいだろ?」
「……豚カツは切れてるからいいけど。アジフライは切れてないから渡せないじゃん」
矢千の皿には二枚の大きなアジフライが乗っていて、うち一枚は既に彼が口をつけている。
「いいよ、食べかけの方ひと口くれれば」
「俺が嫌だ」
と言いつつ、彼はしっかり俺が渡した豚カツを食っている。しかも付属の辛子まで奪った。
「それはずるいだろ、俺は豚カツやったのに!」
「じゃあお新香やるよ」
「いらん! てか俺も同じものついてるし!」
柴漬けが乗った小皿を押し返し、後ろに反り返って足を踏み鳴らした。
「アジフライ!
アジフライが食べたいー!!」
「ちょっ髙科。静かにしろって……」
端っことはいえそれなりに騒いだので、周りの女子がくすくす笑いながらこちらを見ている。矢千は真っ赤になりながら両手を上げている。
「分かった、こっち全部やるから」
と、彼は手をつけてないアジフライを差し出そうとしてきた。なのでそこは制し、食べかけのアジフライをひと口頂く。
思ったとおりのサクサク感。これだ。俺が求めていたのはこれだった……。
豚肉より柔らかいアジの身はささくれた心を解していく。一瞬夢の世界に片足を突っ込みかけたが、冷ややかな視線を感じて慌てて我に返った。
「わるいわるい。ひと口食えたから満足。残りは返す」
「いらねえよ!! 責任持って全部食え!!」
最後の矢千の怒号は、俺が騒いだ時よりずっと遠くまで響き渡った。
「……つうかそんなに食いたいなら髙科もアジフライ頼めば良かったじゃん」
食事を終え、矢千はぶすっとしながら食堂を出た。おーおー、怒ってるぞ。
大人げないことはわかってるけど、彼の不機嫌な表情も好きだ。彼が見せる顔は、無表情以外ならどれもいい。ずっと見ていたい。
……って、それも何か変だな。
「買う時は豚カツが食べたかったんだよ。でもお前を見たらアジフライが食べたくなったんだ。ぶっちゃけお前が食ってるもんはみんな美味そうに見える」
人気のない純白の廊下で、不意に肩が触れる。俺の方からぶつかってしまったのかもしれない。
「何言ってんだか……」
隣を見ると、矢千の顔は妙に赤かった。
「普通だろ、人が食ってるもんが美味そうに見えるのは」
「だからって口つけてるやつがっつくかよ。お前って本当……そういうとこが意味わかんない。謎」
矢千はそっぽを向いてしまった。これは相当怒らせてしまったか。
むうう……。
しばらく考えて様子を窺っていると、あることに気付いた。矢千矢千!
と何度も呼び掛ける。彼は「うるさい、今度は何」と振り返った。そのタイミングで彼の口元を指でぬぐう。
「んっ」
「ちょっと衣がついてる」
アジフライの衣だと思うけど、油っこいからトイレ行こう、と言おうとした……直後、右から鉄拳が飛んでダウンした。
「いい加減にしろ!」
「いああっ……いやいや、今のは本当だって……」
矢千は怒り心頭で先へ行ってしまった。からかったわけじゃなく、親切心で取ってやったのに。
もう知らん。その状態で教室に戻って、皆から密かに笑われろ。
何があっても俺からは教えない。ささやかな復讐にほくそ笑みながら右頬をさすった。きっと今の頬は、さっきの彼と同じぐらい真っ赤になってるのだろう。