執筆:七賀
ヤヒロ。いや、違う。……八尋。
……。
それも、本当は違った。彼の本当の名前は……確か。
「刹那」
そのひと言を聞いた途端、頭から冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。顔を上げると、ベッドの横でサクヤが数枚の書類をぱらぱらと捲っている。こちらを見る素振りはないが、ヒロトの動揺を察したようだ。
「ヤヒロさんって仮名だったんですね。……でも貴方の元を離れてから、表では八尋の名前で生活している。刹那さんとして生活していた頃の記憶も改竄されているみたいだし」
ヤヒロの出生を知る者は限られている。一介の斡旋業者の彼らが辿り着ける秘密ではないのに、どうして……。
疑問に感じていると、隣で珈琲を淹れていたクレハがにこやかに言った。
「あ、全部ナオトさんから送られた資料に書いてあるんですよ。優秀な諜報員を手に入れたみたいで、俺達もやることが減って助かってます」
三つのカップがサイドテーブルに並ぶ。相変わらずマンションの軟禁生活が続いている。緊張が続くと身体の節々に響いて地味に辛かったが、この二人と過ごす時間もだいぶ慣れた。
「つくづく人の記憶を弄くり回すのが大好きな連中だ」
ぼそっと聞こえたそれは、独白だったらしい。目が合うと、サクヤは何も言わずに微笑んだ。
「尚登さんは何をしてるのか教えてくれないか?」
尚登は未だヒロトの前に姿を表さない。ほとんど拉致しておいて、部下に世話を任せっきりなのは如何なものか。それともなにか意図があってのことだろうか……。
「ヤヒロさんと貴方を安全な場所で会わせたいのか、むしろ完全に引き離したいのか。俺達にも分かりません。それよりこの件が上にばれて、消されないといいんですけどね。貴方を拉致したことがばれたら俺達も消されるかもしれない……そうなったら逃げるよな、サクヤ」
「簡単に言うな。その時は終わりだと思え」
消されるという言葉より、その方法を想像してぞっとした。
「……そんな危ない真似を、君達はどうして?」
「直属の上司の命令に背くわけにはいかないんですよ。俺達って横の繋がりがなくて、上司の上司は顔も名前も知らされてないんです。だから上に密告することもできない。面白いでしょ」
何も面白くないが、クレハは飄々としている。そしてちょっと一服してきます、とベランダへ出ていった。
サクヤは彼の後ろ姿をじっと見つめている。
初めて会ったとき、彼らは兄弟かと思った。髪色や雰囲気が似ていることもそうだけど、お互いを知り尽くしている様子が窺えたからだ。他者には分からないサインも、彼らはノンバーバルで理解してしまいそうな……絶対的な信頼関係と、安心感がある。
「君はクレハ君のことが好きみたいだね」
「好き?」
「いや、好きというか、大切な人なんだろう?」
「あぁ……」
サクヤはどこかほっとした顔でヒロトに微笑みかけた。
「そうですね。世界で一番」
何の躊躇いもなく告げられた言葉。それを聞いたら、途端に強い眠気に襲われた。
いつもこうだ。手に持っていたコーヒーカップを落としそうになって、慌ててテーブルに置く。
目の前にいるサクヤすら、作り物のように感じてしまう時がある。皆人に見せかけたロボットで、自分は閉じた世界でままごとをしてるだけなのではないか。
微睡んだ後は何度も同じ夢を見る。昔の八尋と、ここで過ごしていたときのことを……。
柔らかそうなブロンドヘアをそっと指で払う。
「あ。ヒロトさん、寝た?」
眠りに落ちたヒロトを横にすると、タイミングよくクレハが戻ってきた。サクヤは頷き、飲みかけのコーヒーカップを片付ける。
「数口でこれって……クレハ、お前薬入れ過ぎ。殺す気か」
「えぇっ! 言われた量にしたけどなぁ」
クレハは慌てながらキッチンへ戻っていく。夜になると魘されて眠れないヒロトの為に睡眠導入剤を用意したのだが、クレハに任せたのは間違いだったかもしれない。もしヒロトが一気に飲み干していたら、きっと明日まで一度も起きないだろう。
まぁ、どっちみち今から当分は起きない。サクヤは昼の陽気に包まれているベランダを覗いてから、カップを洗っているクレハの元へ歩いた。
「ここにヤヒロさんが住んでたって、何か不思議な感じだな。あの人って、もっとこう……誰にも知られてない廃屋とかに住んでそうなイメージだったから」
「うん。でもここに来る前はそうだったんじゃないか?」
最後の一個を洗い終え、クレハが振り返る。
「尚登さんからもらった資料にあったじゃんか。お父さんを亡くしてから椎名教授に引き取られたって。あの人どこに住んでるのかも分からないし、すごい不気味だろ。もしかしたら地下室とかに連れて行かれて、記憶以外も色々弄られたのかも……!」
自分で言いながら恐ろしくなったのか、クレハの顔は青白い。相変わらず……島を出てから慌ただしい彼にため息をついて、隣に並んだ。
「例えそうだとしても……ヤヒロさんが、ヒロトさんより教授を選ぶかな?」
「でも、俺達は彼らの繋がりなんて何も知らないだろ。尚登さんならなにか知ってるのかもしれないけど」
「んー……」
垂れ下がった手が触れる。指と指が絡まり、やがてしっかり握り合った。昔より骨ばって、ごつごつした手。この中に時限爆弾が埋め込まれてると思うとぞっとして肌が粟立った。けど、それは自分も同じ。全て弾け飛ぶ日がきても、隣にクレハがいたなら幸せだ。
「ところでさぁ、サクヤ」
「ん?」
「何でそんな、抱かれたいって顔してんの?」
白くざらざらした壁に手をつく。たった一枚ドアを隔てているだけ……キッチンと繋がっている目の前の部屋ではヒロトが寝ている。間にあるドアはガラスの面積が広い為、閉まっていても向こう側の様子が窺える。お互い丸見えの場所に位置していた。
ヒロトは寝ている。だから心配しなくてもいいのに、薬が切れて起き上がってくるんじゃないか、という不安に駆られた。その思考を阻むように胸の突起を弄られ、はしたなく喘いでしまう。
「あっ……クレハ……ッ」
壁に寄りかかりながら、二人向き合って下半身を密着させている。ズボンと下着は全て床に落ちた。
暖かい陽射しを感じながら、醜い音を立てて繋がり合っている。この平和な空間にいると、何もかも現実味がない。たまに外から子どもがはしゃぐ声が聞こえる。都会のマンションは、平和を身近に感じる格好の場所だ。
そんな場所でいけないことをしている……この背徳感に酔いしれ、馬鹿みたいに感じてしまう。
「何でそんな急に盛ってんの」
クレハは可笑しそうに笑い、サクヤの胸に舌を這わせた。直後片脚を抱え、下から激しく突き上げる。
内側の肉を掻き分け、クレハのものが潜り込んでくる。
「あっ! あっ、あ、あぁあ……っ!」
仰け反り、背中を壁に打ち付けた。すぐ脇のドアにも振動が伝わってしまい、慌てて壁から体を離した。
でもヒロトを気にしていることはすぐにバレて、今度はガラス張りのドアに押し付けられる。バックでの律動が始まり、肌がぶつかる音が途切れることなく響き渡る。
「ほら、ちゃんとヒロトさんの部屋見張っといて」
「クレハ、や……っ」
ガラス部分に反り返った先端が当たる。それは氷のように冷たくてぞっとした。
ガラスの向こうでわずかに見えるベッドの端。シーツが動いた様子はない。彼はまだ夢の世界にいるようだ。
ただこちらが激しく動いているせいで、視界が、ぶれて正直自信がない。
「すご……っ。中すごい締めてくる……ねぇ、何考えてた?」
「何、にも……っ」
クレハの吐息がうなじに当たる。時折悪戯に噛まれ、その度に反応して後ろに力を入れてしまった。
もっと、もっとクレハで満たされたい。触ってほしい。
「クレハのこと好きでしょ、ってヒロトさんに言われて……」
「あぁ。それで発情しちゃったんだ。図星だからー」
「違う……っ」
揶揄われてると分かって、羞恥心から顔が熱くなった。否定しようと思ったけど、腰を固定されてさっきよりも奥を擦られる。
「良いじゃん、本当のことなんだし。もしヒロトさんが起きてきたら見せつけてやろうよ」
悪い冗談だ。そんなの死んでもごめんだと唇を噛む。
しかし限界が来るのはあっという間で、中に熱を感じた瞬間昇りつめた。
「あ、ふあっ……駄目、出ちゃう……っ!」
少し触れられただけなのに、勢いよく吐精してしまった。ドアのガラスとフローリングに落ちる白い液体を見つめ、自己嫌悪に駆られる。
でも気持ちよかった。一旦離れてから、また正面に向き合ってキスをする。まるでバカップルのピロートークだと内心笑った。
「すぐそこにヒロトさんが寝てるのに。サクヤのエッチ」
「何だよ……お前だってすぐ勃ったじゃんか」
「俺はお前が辛そうだから」
くだらないやり取りをするも、すぐに唇を重ねて言葉を飲み込む。
そう。こっちがそういう気分になると、クレハは必ず抱いてくれる。島を出てから誰にも教わったことなんてないだろうに、慣れた手つきで、当たり前のように自分を包み込んできた。
どうしてなのか分からず、サクヤも拒めなかった。むしろ昔の熱が恋しくて、受け入れてしまった。島を出たことが必然なら、こうなることも必然だとわりきった。自分達は切っても切れない運命で結ばれている……。
そう思いたい自分がいることは、クレハにも隠しておきたい。
「早くシャワー浴びて着替えないとな。尚登さんがいつ来るかも分からないし」
「今日は来ないよ」
「分かんないだろ」
クレハは苦笑して頭と頬を撫でてくる。今日はもう、邪魔は来ない。そう思いたい……。
できればずっとこのまま、死ぬまで彼の腕の中にいたい。彼が世界で一番大切な人。それは初めて会った時からずっと変わらない。
「……俺も、サクヤが一番大切だ。大好きだよ」
優しく笑う彼に頷いて、そっと瞼を閉じる。ヒロトと同じように、自分も今は夢の世界に浸りたい。
好き、好き、と耳元で囁かれる。
たまらなく嬉しい。けど、まだ足りない。彼の「好き」は、俺が求めていたものとは違う。もう一度真っ赤な血を流さない限り、本当の彼を取り戻すことはできないのだろう。