· 

逢魔時

執筆:八束さん

 

 

「そんなところで隠れていないでこっちに来て見たらいい」
 と、教授に声をかけられて、心臓が止まるかと思った。でももしかしたら、これはチャンスかもしれない。意を決して医務室の中に一歩、足を踏み入れた。
「何考えて……っ」
 教授の膝の上でヤヒロさんが身をよじらせる。
 ヤヒロさんの裸を見たのは初めてじゃない。何回も抱いてもらったから、肌の感触も、熱も、全部知ってる。それでもこんな風に真正面から直視したのは初めてだった。紅潮した肌、勃ち上がった性器。
「だって君は見られるのが好きなんだろう。そうでなかったらあんなところでしたりなんかしない」
「違います。あれは尚登さんが」
 尚登。
 その名前をヤヒロさんから聞きたくなかった。
 ヤヒロさんに『いけないこと』をする悪い大人。べたべたべたべた、マーキングするみたいに。好き勝手に、そして見せつけるみたいに、外でもする。本当に犬みたいだ。即物的で。強引で。ヤヒロさんは嫌がってるのに。それなのに何故か自分のしていることに絶対的な自信を持ってて。何なんだ。ムカつく。
 教授が言っていることは、すぐにピンと来た。施設の外の、桟橋を渡ったところの木陰で抱き合っている二人を、つい二日前に見た。見た、というと、偶然見つけたみたいだけれど、ヤヒロさんがどこかに行くときは必ず後を追うようにしている。だからヤヒロさんの行動はほぼ完璧に把握している。その結果、知りたくないことも知ってしまう。でも、知らないことがある方がもっと嫌だ。
「でも本当に嫌だったら逃げられただろう。子どもじゃないんだから」
「嫌とか嫌じゃないとかの問題ではなくて。面倒くさくなっただけです。どうだっていい。流されてしまった方が早く終わるじゃないですか」
「だったら今だって流されればいいだろう」
「子どもに見せるものじゃない」
 何を今さら、と教授は鼻で笑った。
「知ってるくせに。彼はずーっと君のことを見てたよ。ねえ、イクミくん?」
 こくこく、と首を縦に振った。
「ずっと見てた。ヤヒロさんのこと。でもそれだけじゃ足りなくて。もっともっと知りたいんです」
「彼もそう言ってることだし」
 そう言うと教授は、白衣のポケットから光る何かを取り出した。
「最近鎖が緩みかかっていたから。楔を打ち直しておかないと」
 銀色に光る針。
 ヤヒロさんの顔が一瞬強張って、でもすぐに受け入れたかのように、目を閉じる。
 吸い寄せられるように、その光景から目を逸らすことができなかった。
 この上なく卑猥で。でもこの上なく神聖な行為のようにも見えて。
 鋭い針が、ヤヒロさんの右の乳首を貫いた。
「ぁあああああっ!」
 痛い。こっちにまで痛みが伝わってくる。でも何故だろう。痛い、だけじゃない。
 今までに聞いたことのない声を上げて、ヤヒロさんが喘ぐ。でも単に、痛みに悶えているだけじゃない。その証拠に、ヤヒロさんの中心は萎えていない。教授にもたれかかるような形でヤヒロさんが背中を反らしたとき、ぱたっ、と、白い雫が散るのが見えた。
 荒い息はなかなかおさまる気配を見せない。何度も上下する肩。腹も、内ももも、壊れたみたいに痙攣を繰り返している。波打つ腹の上を、教授の手が這う。蛇のように。一見宥めているようにも見えるが、違う、あれは、毒を送り込んでいるんだ。
 左の乳首にも針の先端が宛がわれ……しかし何故か教授は一旦、はずしてしまう。はずしてそれを、こっちに向かって差し出してきた。
「君もやってみる?」
「え……
 ヤヒロさんが首を横に振ったようにも見えたけれど、抵抗する気力が残っていないのか、それ以上何か意思表示をするそぶりはなかった。
 もう何も、映っていないような瞳。人形みたい。
 ほとんど反射的に、差し出されたものを受け取っていた。不思議とまったく、怖くなかった。早くしたくてたまらなかった。早くヤヒロさんを、自分のものにしたい。自分のものだという証を刻みつけたい。そうしたら醜い大人にも、ヤヒロさんにわがままを言って困らせているガキどもにも勝てる。一番になれる。
「ヤヒロさん。上手にできなかったらごめんね?」
「っ……!」
 肉を突き破る感触。迷いはなかった。ヤヒロさんの一番深いところを抉っている。誰もふれたことのないところ。その事実だけでイってしまいそうになる。仰け反ったヤヒロさんの喉がひくひく震えている。でも声は聞こえてこない。いや、自分の耳が馬鹿になってしまったのか。
「はは、すごい、思った以上だ」
 教授の声は弾んでいた。
「すごい上手にできてるよ」
「本当?」
「ああ、イクミくん、君は素質があるね。びびって途中でやめちゃうとかえって危ないんだけど、綺麗に突き刺せている。ああでも……もし失敗したとしても、それはそれでヤヒロは嬉しいかな。何でも快感に変えてしまうんだから」
 水平に刺さった針の先端が、窓から差し込む夕陽に反射してきらりと光る。とても美しい光景。ずっと見ていたい。針から垂れ落ちた血を舐め取る。ヤヒロさんの味。先走りも、精液も、汗も、唾液も、全部全部舐め取って、舌の上でひとつになる。全部欲しい。
「ヤヒロさん、ヤヒロさん……
 教授が少し呆れていたのが分かったけれど、貪るように舌を這わせた。全部もらった。ヤヒロさんのもの、全部。いや、まだ、もうひとつ。ヤヒロさんの涙。
 でもヤヒロさんは、泣きそうな声を上げていたけれど、泣いてはいなかった。
 それがちょっとだけ、残念だった。
「初めは痛みから逃れるための防衛手段だったのに、いつしか痛みを求めるようになってしまって。いや、痛みでしか感じられなくなってしまって。自らそんな、生きにくい道を選ばなくたっていいのにねえ」
 そう言いながらも教授は、それを望んでいるように見えた。
 教授の言ったことを完全に理解したわけじゃないけれど、でもヤヒロさんと一緒なら、どんなつらい道でも一緒に行ける。
 針を抜いたあとにはめ込まれたピアスを、教授がピン、と指で弾いた。
 教授に教わって、反対の乳首にも同じようにピアスをはめた。
「君と私とで半分こだね」
 半分……
 嫌だ、そんなの。
 半分じゃ物足りない。今からでも、教授があけた穴の上から、もう一度穴をあけなおしたい。自分の手で。痛みも快楽も。自分だけが与えたい。塗り替えたい。そんな欲望が頭をもたげる。
 でもとりあえずは、
「うん、ヤヒロさんの半分、僕のもの」
 ヤヒロさんの左の胸に顔をうずめる。
 舌先に感じる、ピアスの硬い感触。