執筆:七賀
彼を白衣ごと抱き寄せたとき、生温い涙が手の甲に落ちた。
何故だかその感覚をよく覚えている。きっとずっと昔……いつも彼の涙をぬぐっていたからだ。
だけど今の自分は、体温を感じる手は持ち合わせていない。同時に体温を与えることもできない。
もしこの手に温もりがあれば、もう一度彼を包み込んであげられるのに。
……ヤヒロ。
決して「助けて」とは言わない。だからこそ、沈黙の時間が胸に刺さる。
「あ……っ」
滝のような汗を流しながら目を覚ました。心臓が激しく脈打っており、それに気付いた途端息まで苦しくなる。
だが目の前にいる青年が酷く落ち着いている為、ヒロトも冷静にならざるを得なかった。瞬きを繰り返し、今置かれている状況を理解しようと努める。
「ずっと魘されてましたよ。起こそうか迷ったんですけど、悪夢を見てるのか、……大切な夢を見てるのか、いまいち分からなかったので」
水の入ったグラスを渡される。かたい音を立てる義手で受け取り、一口で飲めるところまで胃に流し込んだ。水が内部を流れていく感覚がして、思わず自嘲する。
こんな身体でも、まだ生きているのだと。
「見てたのは、悪夢の方でした?」
青年は首を傾げる。
「悪夢じゃない。……と、思う」
歯切れの悪い返答すら、青年は微笑みを浮かべた。
ある日突然、長いこと世話になった病院から転院を言い渡された。突然過ぎる処置に困惑したが、どうせ組織の思惑が働いているのだろう。そう思えば簡単に納得したし、諦めもついた。今の自分が反抗しても意味がない。むしろ今まで助けてくれた人やヤヒロに迷惑がかかると思い、大人しく迎えに来た青年の車に乗った。
もう少しで自由の身になれたのに……と思う反面、例え退院しても常にどこかで監視され、自由とかけ離れた生活を送ることになっていたのかもしれない、と自嘲気味にシートにもたれる。沈んだ未来を連想した。
自由に動く手と足を手に入れても、本当の意味で自由にはなれない。世界には自分ひとりじゃ到底敵わない力が働いていて、その歯車を狂わせた瞬間、要らないものとして弾き出される。
ヒロト自身、一度はそう思われた身だった。それでも手厚い援助を受け、大切に生かされたのは……恐らくあの人のおかげだろう。
研究所の誰もが畏敬の念を抱いていた人。そして、畏怖を抱いていた人。
「あの人だけは敵に回しちゃいけない、関わるとロクなことがない。……って言ってたくせに、尚登さんたら危険なことばかり頼んでくるんですよ。今回のことだって、本当は断ろうと思ったんですけどね。相方が協力したいって言うから、半分仕方なく」
転院当日、車で迎えに来た銀髪の青年はそう言い放った。彼が口にした、尚登という人物のことは知っている。数ヶ月前から度々見舞いに来てくれた青年だ。
彼はヤヒロの同僚らしく、年の離れた弟を連れて親身に寄り添ってくれた。その彼が、自分を転院させた張本人だという。冷静を装っているものの、何故?
という疑問はぬぐえなかった。これが組織の指示ではなく尚登の独断なら罰せらてもおかしくない行為だ。組織に逆らうことは即ち、存在の抹消を意味する。
ただの業者じゃないことは何となく察していたが、一体何が目的なのか。銀髪の青年に尋ねると、彼も肩を竦めて「さぁ」と言った。
「外の世界を教えてくれたただの上司です。尚登さんの目的は……知らないけど、何としても貴方を手に入れておきたいんでしょうね」
もしくは、奪い取りたかった。「誰から?」と尋ねると、それも「さぁ」と言われて終わりだった。
青年に連れていかれたのは、酷く見慣れた街、見飽きたマンションだった。いや、見飽きた……どころじゃない。
何故ここに……?
そこは数年前、ヒロトが暮らしていたマンションだった。まだ施設で働いていた頃、ヤヒロを初めて引き取り、一緒に暮らした場所でもある。
「しばらくここで過ごすように、と。医療面もサポートしてくれるそうなので、そこはご心配なく」
部屋番号まで同じ。中へ入ると、もうひとり知らない青年がいた。彼もやはり、迎えに来た青年と同じ銀色の髪をしていた。彼の方が少し華奢で、猫のような眼をしていることが印象的だった。
「初めまして。尚登さんに代わって、しばらく俺達がお世話させていただきます」
それが数日前のこと……“彼ら”との出会い。
空になったグラスをサイドテーブルに置き、思わずため息をついた。マンションで暮らすようになったものの、完全に一人になることは叶わず、気が休まらない。
しかし青年は気を利かせて、ぬれたタオルを持ってきてくれた。首周りの汗を拭き取り、少しだけすっきりする。
「ありがとう」
「どういたしまして。……それで、どんな内容の夢だったんですか?」
今日は珍しく食い付いてくるな、と思った。青年は意味ありげに口角を上げている。
「夢は妄想のようなものです。人に話す気にはなれない」
「そうですか。ヒロトさんって、本当に真面目な
方なんですね。……いや、俺の相方も昔はそうでした」
新しい水を注ぎ足し、青年は懐かしそうに目を細める。彼は島の子ども達を斡旋する業者と名乗ったが、その実、彼自身が施設の出身であることも知らされた。
また、昔ヤヒロに診てもらっていたことがあると懐かしそうに話した。
「ヤヒロさんは俺にとっても、ある意味特別な人です。だから貴方のことも他人事に思えないのかも」
「そう……ヤヒロは、学校ではどんな先生だった?」
「悪い先生じゃなかった。けど、“良い”先生でもありませんでしたね」
彼は苦笑した。その反応は今までで一番信用できた。ヤヒロが学校で「先生」として振る舞う姿は、未だどうしても想像し難い。
「不思議な人でした。大人を嫌う子は多かったけど、彼だけは例外みたいな。あ、ただ注射が嫌いな子はヤヒロさんのことも避けてたかな」
「注射……か」
「ヤヒロさんって、利用することも利用されることも好きそうな方ですよね」
青年は椅子から立ち上がり、今までと違う温度の笑みを浮かべた。
「尚登さんはある人から貴方を匿ったつもりで、ヤヒロさんには人質をとったような気分なのかもしれません。……俺は駒に徹して、尚登さんに従うだけ。島で行われていることや、貴方達の問題について必要以上に知るつもりはない」
「……君の目的は?」
「生き延びることです。あいつと二人で」
ちょうど、玄関から音が聞こえた、通路の扉が開閉し、一日ぶりに青年が部屋に入ってくる。
「おかえり、クレハ。尚登さんは?」
「こっちに来る予定だったんだけど、急用が入ったって。すいませんねヒロトさん、もう少しここで待っててください」
二人はすれ違い、二、三言葉を交わしていた。遮光カーテンの下部からわずかに光が射し込んでいる。
「サクヤ、ちゃんとヒロトさんの相手してた?」
「してたよ。お前に任せる方が心配」
真っ白な紙をつまみ、サクヤと呼ばれた青年はぶっきらぼうに返した。それからヒロトが寝ているベッドの前に座り込む。
「また退屈になっちゃいましたね。でも時間がある分、たくさん話ができる。俺達にも、どうでもいいことを色々聞かせてください」
時間と共にベッドの脇に積まれていく紙飛行機。
懐かしくて、苦い思い出が蘇る。自分に紙飛行機の折り方を教えてくれたあの人……。彼は、今もどこかで闇を育てている。