執筆:七賀
便りのないのは良い便り、と言うけれど。
もしその人の身になにかあったのなら、時が経てば経つほど悪い結果に転がっていく。ナイトは休憩室の窓から青空を眺めてため息をもらした。
先週、突然ヒロトが転院する運びとなった。退院は間近で経過も順調だったのに、あまりにも唐突な知らせ。このタイミングで転院する意味が分からず何度も尋ねたが、上司も口止めされているのか詳しいことは何も教えてもらえなかった。
ヒロトがいなくなって一週間。連絡は完全に途絶え、空回りな片想いが続いていた。
だが自分達は友人でも何でもない、ただの医療従事者とその患者だ。施設を介さねば関係など直ちに切れる。居なくなった者に想いを馳せる間もなく、次にやってくる患者に目を向けなければいけない。
そう頭では分かっていてもやるせない気持ちに包まれる。何度目かのため息を飲み込んで病院の廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。
「ナイトさん! 久しぶり!」
「あ……! 久しぶり」
背後からぎゅっと抱き着いてきたのは数ヶ月前にここで出逢った少年だった。
彼はヒロトのお見舞いに来ていた青年、尚登の弟だ。あれからも兄に付き添い、来る度にナイトに会いに来ていた。
無邪気で明るい彼は、暗く静かな病院の中で光をくれる存在だ。だから会うこと自体は嬉しい。しかし同時に、いつまで経っても消えない、彼の身体の傷について不安が募っていた。
彼は普段とても人懐こい。だがふとした時に見せる顔が、まったくの別人のように感じることがある。
不思議な子、という印象は何度会っても変わらない。何度訊いても名前を教えてくれないこともそうだ。
以前一度、尚登を見かけた時に尋ねたことがある。すると彼はわずかに目を見開いた。
なにかまずかっただろうか。弟の名前を訊いただけ……だけど。
『……あの子は、貴方に名前を教えることを拒みました?』
『え?
あ、拒んだというか……ちょっとなあなあになって、訊けずじまいが続いてしまった、というか』
弟のことを責めてるように聞こえてはいけない。加えて尚登の反応も意外だったので、思わずしどろもどろに返してしまった。すると尚登は少し考えた素振りをしてから微笑み、踵を返した。
『あの子、自分の名前が嫌いなんです。だからもうちょっとだけ待ってやってください。そのうち必ず話してくれるだろうから』
それから一ヶ月は経つ。
けど、少年が自分の名前を打ち明ける様子は微塵も感じられない。「弟は貴方にすごい懐いている」と言われたけど、それとこれとは別問題のようだ。
何でそこまで自分の名前が嫌いなんだろう。そうだ、それも訊いておけばよかった。
「ナイトさん! ねえ、聞いてる?」
軽く肩を叩かれ息を飲む。視線を下げると、少年が不安そうにこちらを見上げていた。
「ごめんごめん、どうしたの?」
「あのね、忙しいと思うけどちょっとだけ平気?
渡したいものあるんだ」
彼はとっておきがある、と言いたげに笑った。まだ休憩時間のため、ナイトは彼と中庭へ向かった。
笑顔を努めて隣を歩いた。ヒロトが居なくなったということは、尚登ももうここには来ない。すると兄に付き添っていたこの少年も……。
霞んだ思考のまま、二人でベンチに腰掛ける。
彼はショルダーバッグから小さな長方形の箱を取り出し、ナイトに手渡した。
「どうしてもナイトさんにこれ渡したかったんだ。だから今日は兄さんを説得して、俺ひとりで来たの。大変だったよ、作るのもそうだし、兄さんに許可もらうのも。悪いと思ったけど、すごい暴れて駄々こねた」
「作る……?」
なにかと思い、恐る恐る箱の蓋を開ける。そこには一口サイズのチョコレートが四つ、綺麗に並べられていた。
「ナイトさん、今日バレンタインデーだよ。バレンタイン知ってる?」
ナイトは今日の日付けを思い起こす。確か二月十四日だ。
「あ、そういえば……。でもバレンタインって、女の子が男の子にあげるものじゃなかったっけ」
「そうみたいだけど、俺のクラスみーんな作るって言い出してさー。俺も友達に作ったんだけど、ナイトさんにも渡したいなって思って! 兄さんは甘いもの嫌いだし」
「そうだったんだ。……ありがとう、嬉しいよ」
素直に、その好意が嬉しい。自分を友人だと思ってくれていたことも感謝した。
「今ひとつ食べてもいい?」
「いいよー。あ、俺が食べさせてあげる! 目瞑って」
何故目を瞑る必要があるのか分からなかったが、言われるままに瞼を伏せる。口を開けると、チョコの香りが鼻腔に立ち込んだ。
そういえば久しぶりだ、チョコレート食べるの。
「何味だと思う?」
「うーん……チョコレート味」
「そう!」
やっぱり目を瞑る必要なかったよな……と思いつつ、そこはツッコまないでおく。瞼を開けると、本当に嬉しそうな顔で笑う少年がいた。
「生チョコだから、残りは早めに冷蔵庫に入れておいてね」
「わかった。ありがとう」
二人同時に立ち上がり、屋内へと戻った。少年を見送る為エントランスまで一緒に向かう。中庭に居た時は青空だったのに、ほんの一瞬で雲が出てきた。空が翳り、雨が降りそうな湿っぽさが肌にまとわりつく。
「何か急に暗くなってきたね。傘持ってる?」
「持ってないけど、多分大丈夫。バスばっかりで歩くところ少ないんだ」
彼は前へ踏み出す。左手の手首を押さえながら小さなステップを降りた。あぁ、でもなにか……なにか言わないと。
「じゃあ……またね」
いつものように笑って片手を振る。彼も振り返って笑ってくれたけど、その口から出た言葉はいつもと違った。
「いや。多分これが最後だよ」
低く重く、でも落ち着きのある声音。また、目の前の少年が別の誰かと重なった。
黙り込んだナイトを見据えて、彼は続ける。
「俺がここに来るの、兄さんがあんまり良い顔しないんだ。ヒロトって人を移したのは……多分他にも理由があるんだと思うけど、そこら辺は俺なんかじゃ全然分からない。ただ今日が最後って言われたから、もう貴方に会いに行けない」
息が詰まりそうな話だった。どう返したらいいか分からないが、それより……それ以上に、目の前の彼のことで頭がいっぱいだった。
いつもの彼じゃない。また、自分の知らない彼がここにいる。
この場を離れようとしている。彼の腕を、気付けば強く掴んでいた。
「君は……戻って平気なの?」
まるで足で踏みつけられたように胸が痛い。
一体何を訊いているんだろう。それも自問自答する。自分から訊いておきながら、質問の意味を理解しようとしている。
“あの”施設に、“あの”兄の元に帰って大丈夫なのか?
多分、そう訊きたかった。自分が差し出がましく訊くことではない。そう思うけど、黙っていられなかった。
以前ヒロトに対しても同じことを想っていた。ヤヒロという青年、あの人の近くにヒロトを置いていいのか。ずっと悩み抜きながら、結局は何もできず、ヒロトは知らない場所へ消えてしまった。
せめて今目の前にいる彼だけは、そうなってほしくない。ここで糸を断ち切りたくなかった。
「……怖いよ。怖いけど、帰らなきゃ。俺をぐちゃぐちゃにするのも、元通りにするのも、結局兄さんにしかできないから」
掴んでいたはずの手首がするりと抜ける。まるで、また一回りやせ細ってしまったような錯覚を覚えた。
「俺の名前はね。……ナオト」
「えっ」
「でも他にもう二つある。っていうのは、兄さんにも内緒なんだ。でもどうせまた頭を弄られると思うし、バレても構わないんだけど。俺はナオで、お兄さんにチョコを作ったのはイオってやつ。単細胞な、俺の双子の弟」
彼の頬に一筋の雫が流れた。一瞬泣いているのかと思ったけど、自分の頬にも冷たい何かが当たってハッとする。とうとう雨が降り出した。
あっという間に強まり、水滴が足元に跳ねる。見間違いじゃないかと思うぐらい少年の背景を歪ませていた。
「チョコ、良かったら全部食べてやって」
その言葉を最後に、彼は走って行ってしまった。
呆然として、ぬれるのも構わずしばらくその場に立ち尽くした。
震えるほど寒く冷たいのに、彼に触れた指先だけは熱が残っている。雨はその日ずっと降り続けた。
あれから一ヶ月が経った。海の見える丘で春風を吸い、ベンチに腰掛ける。
最後の別れ以来姿を見せなくなった少年を思いながら、ナイトは患者の電子ファイルを開いた。閲覧に必要なパスワードは既に上司から無理やり聞き出している。もう今さらどうなっても構わなかった。
便りのないのは良い知らせ、とはどうも思えない。それは自分自身が家族から引き離され、一切連絡を取り合えないからかもしれない。
体が元気であることと、心の状態はまったく違う。
自分から助けを発信しない限り、助けてもらえることは絶対にない。暗闇にいることすら気付かないほど、自分達がいる世界には光がないから。
情報を手繰り寄せ、少年のいる施設が分かったのは一週間後のこと。
その施設のどこにも少年の名前がないことが分かったのは二週間後のこと。外の世界で二人の男子高校生が行方不明になっていると分かったのは、また一ヶ月後のことだった。