執筆:八束さん
……君には、君のお父さんのようになってほしい。
教授に会いにいくとき極力白衣を着ないようにしているのは、ささやかな嫌がらせだ。
「ここまで無視されるとかえって清々しいね」
モニタに映し出された、空欄ばかりのメディカルチェックの画面。
メディカルチェックの対象になっているのは生徒だけではない。教師も事務員も医師も、施設に関わる者はほとんどすべてがその対象。
毎日、食事の都度出力される赤い紙を、それこそ不要なレシートのように、出力されるなり握り潰していたが、あるときとうとうアカウントが凍結された。チップが使えなくなったらこの島で自販機も使えなくなってしまう。それは困る。
自分のデータなんてどうせ都合よく改竄されてしまうのだから、初めから適当に埋めておいてくれればいいのに。面倒くさい。
「注射が嫌いなんです」
こちらを見ないまま、教授は鼻で笑った。
「それにわざわざ検査なんてしなくたって、僕の身体のことは教授がよく分かっているじゃないですか」
「医者の不養生にならないように」
シャツを脱ぎ、簡易ベッドの上に仰向けになる。手首と足首と胸に、ひやりとした電極パッドの感触。
自分が普通にちゃんと検査を受けている、というのが何だかおかしくて、天井に向かってふっと息を漏らす。
「ところで『実験』の進捗はどうなっているのかな」
「器になる被験体がなかなか見つからないので」
「言い訳だな。躊躇っているんじゃないか」
「躊躇っている、といえば、躊躇っていますよ。失敗から思わぬ成功が得られることもあるでしょうけど、でもある程度成功の見込みが立たないと僕は、実行に移す気にはなれない。石橋を叩いて渡るタイプなんです」
「しかし成功の見込みを立てるために取り組んでいることがあるようにも見えないけれど」
「考えていることはいろいろありますよ」
計測はとっくに終わっているだろうに、電極を外してもらえる気配がない。しようがないからぶちぶちと自分で外しながら起き上がる。
「君のお父さんならとっくに実行に移していた」
「僕は父にはとても敵いません」
敵わない。敵いたくない。あらゆる意味で。
「父は天才でしたよ。僕はどうやったって秀才の域を抜けない」
「でもあの研究を引き継げるのは君しかいないと思っている。私は君を買っているんだから。君はお父さんのようになれると思う。なってほしいと思っている」
「あまり買い被らないでください」
処方された薬を渡される。診察なんてどうでもいい。目的のひとつはこれだった。しかし本当に求めていた薬は含まれていない。目が合う。考えていることは分かっている、というような視線を返される。
「だからある程度のことは大目に見てきたけれど、あまり好き勝手されると私でも庇いきれなくなるからね」
脱いだシャツを取ろうとした手首を掴まれた。
教授の手は電極よりも冷たく感じた。
「あっ……や……ああっ」
「薬が欲しい?」
「欲し、い、です……欲しい……っ」
「じゃあほら、ひとつ」
カラン、と、試験管の中に錠剤が落とされた音がする。
「ああ、ほら、せっかくあげたんだから零さないで。もっと尻を高く上げていないと」
「やっ、あ、あっ……」
後ろの穴に入れられた試験管を抜き差しされる。もっと太くて熱いもので抉ってほしい。こんなものじゃ足りない。いたずらに疼きを広げるだけと分かっていて、それでも食い締めるように後ろをひくつかせてしまう。
「欲しい?」
「欲しい、です……っ」
欲しい、欲しい、欲しい……
自分で自分に暗示をかけているみたいになる。
またカラン、と、ひとつ、落とされた音。そんな小さな音にも反応してしまう。いつどんなタイミングで動かされるか分からないから、気が狂いそうになる。
もういくつ入れられたのか分からない。
突然、診察室の扉があく音がした。
「ああ、いいですよ、入って」と、教授は扉の方に向かって声をかける。どうやら診察を受けに来た職員のようだ。
「しばらく大人しくしてて。零したら駄目だよ。でもだからって、力を入れすぎると試験管が割れてしまうから気をつけて」
「くっ……う……」
穴の周りを指でなぞられ、反射的に力を入れてしまう。
このひとの、隙なくひとを追いつめる手順には感心してしまう。昔から。
おまけにご丁寧に電極のついたコードで手を縛っていく。
「いい子で待っていられるよね?」
やっていることの残酷さとは対照的な、柔らかな手つき。
そして診察室とを隔てるカーテンを半びらきに、彼は出て行った。気づくひとは気づくだろう。カーテンの向こうで何が行われているか。そしてたいていの研究者はすでに自分と教授との関係に気づいている。それなのに彼は時々こうやって、自分のものだと見せしめにするようなことをする。
ようやく出て行った、と思ったのに、また新しい患者がやって来る。
ちょっとでもみじろぎすると、快感が全身を突き抜ける。ベッドから飛び降りてカーテンを全開にして計器を叩き落として絶叫する妄想を三度はした。
先端から垂れ落ちた雫がシーツに染みを作るのを、ただ見つめている。
父も彼にこんな風に弄ばれたのだろうか。いや、おそらくそんなことはなかっただろう。父は認知も倫理観もぶっ壊れたひとだったけれど、愛の求め方だけは普通だった気がする。
コツコツと足音。ようやく診察が終わったのだろうか。シャッとカーテンがひらかれる。
「これは意外だったな。もう音を上げているかと思ったのに。でもそうか、君は昔からそうやって大人しく息を潜めていることは上手だったな」
「教授も意外ですね。いつからあんなにひとりひとり丁寧に診察するようになったんですか」
口ごたえを戒めるように、試験管を、敏感な部分に押し込むようにされる。
「あっ……ああっ……駄目っ……そこっ……そこ押されたらイくっ……イっちゃう、か、ら……あああっ」
バラバラッと錠剤が、ベッドの下にまで散らばる。遅れて試験管も、いやらしい液体を纏わせながら落ちる。カンッ、と拍子抜けするほど軽い音。割れるとか脅しておきながら、やっぱりアクリル製だったか。
「欲しかったら持っていったらいい」
余韻を引きずる身体を叱咤する。床に落ちた錠剤を拾い上げようとしたタイミングで、しかし声が降ってくる。
「でも君は業者を誑かして、とっくに手に入れているんだろうけど」
……やっぱり気づかれていたか。
錠剤をポケットにおさめ、立ち上がる。
あー、残念。
ということはあの業者はもうここには来られなくなってしまったか。最後にもう一回くらい遊んでおきたかったのだけど。
「教授からいただいた方が効きがいいんです」
白々しいやりとりを平然とやれてしまうほどには、自分は大人になった。
「あまり失望させないでほしい。君には期待しているんだから」
……何を?
そう問いかけたいのを堪え、有り難うございます、と、微笑む。
薬の入手ルートを潰されてしまったのは痛いが、でも、この程度のことはバレても特に問題ない。
ヤヒロ、と名乗る以前の記憶を自分がとうに取り戻していて……
そして彼の真の目的を自分が知っている、ということがバレていなければ、それでいい。
部屋に戻ると、「せんせえ!」と駆け寄ってきた少年に抱きつかれた。早速ポケットの膨らみに気づかれる。
「なんかかくしてるー!」
「隠してるわけじゃないけど」
「おかし……ラムネ、あ、ラムネだ!」
「さあ……どうだろうね」
制するのも聞かず、ポケットに手を突っ込んで、錠剤を一個ずつ取り出しては床に並べていく。
自殺未遂の影響もあって、彼の知能レベルは幼児程度にまで低下している。
つまんだ一個を口に入れようとしたので、一瞬慌てたが、すぐに「にがいっ」と吐き出してしまった。
胸につけられた193というプレートにそれが当たる。
「イクミくん」
抱え上げ、膝の上に乗せる。
「先生にそれ、食べさせて?」
転がったそれをもう一度握らせる。
「でも……にがいよ?」
「大人になると平気になるんだ」
口をあけると、おずおずと指を伸ばしてきた。
噛み潰したあと、おもむろに彼の後頭部を引き寄せ、くちづける。
「ん……っ、んーっ!」
初めは抵抗していたが、徐々におとなしくなる。これで少しは薬の成分が彼に回った。
「こうやって飲むと苦くないよね?」
「せんせ……」
腰をもじもじと揺らして、こちらの腹に擦りつけてこようとする。
やりたいようにさせてやり、ぎゅっと抱きしめてやる。まるで抱き枕感覚だ。
頭を撫でようとしたとき唐突に……沈めていたはずの記憶がよみがえってきた。
呪いをかけるとき彼はいつだってこういう風に優しく頭を撫でた。
君には期待している……
君には……
君のお父さんのように……
君には君のお父さんのように『死んで』ほしい。
まだこっちに意識があることを気づいていなかった教授は、空を飛んでみせて、というような無邪気な口調でひとり、語った。
きれいだったんだ、とても、君のお父さんが死んだとき。
あの光景が忘れられなくて、もう一度見てみたくなった。
君が君のお父さんと同じ歳になったとき、同じように美しく逝ってくれたなら……私の実験は成功かな。
それまでは誰にも壊されないように大切に育ててあげるからね。
君の中に、闇を。