でもこんな奥地なら知り合いに会うこともないだろう。いくらなんでも、担任教師と休日にいるところを見られたら言い訳のしようがない。先生はそういう危険も見越してここを選んだのかもしれない。
小型でも、間近で見るロープウェイには興奮した。列に並んだ後、空いてる席に二人腰掛ける。
「わあぁ……今日初の運行なんですって。ラッキー!」
「うーん……籠原は本当にリアクションが良いな。若い証拠かな」
「先生だって若いじゃないですか! テンション上がりませんか?」
「ずうっと高いよ。それを頑張って抑えてるの」
と言ったって、世間的に見れば先生ははしゃいでもおかしくない歳だし……俺の兄貴だったらめっちゃうるさくしてると思うけどなぁ。
「……抑えないでくださいよ。せっかく知り合いが誰もいないところに遊びに来てるんだから。今日ぐらいは色々忘れましょう」
隣り合わせになりながら、窓際の千草は外に視線を移す。そのガラスに自分の情けない顔が映し出されていた。
後になって、余計なお世話だと思われるかもしれないと後悔した。彼にとって自分は歳下で、生徒でしかない。不安になりながら返答を待つ。
「それって、お願い?」
「え? は、はい」
「わかった。じゃあ聞くよ。だから俺からもお願い……今日は〝先生〟っていうの禁止」
はえっ。何事かと思い、反射的に振り返る。
「外で先生って言うと目立つだろ? だから名前で呼んで」
「笠置さん?」
「どうせなら名前で呼んでよ。崇、って」
聞き慣れない響きに心臓が跳ねる。友人なら気にもしないのに、何かすっごハードル高い。
でも今呼ばなければ、一生呼ぶタイミングが掴めない気がする。
彼と無言で見つめ合う。運転士のアナウンスが流れる。ロープウェイが発車する。
「……崇さん」
「うん。それが良いね、千草」
どさくさで俺も名前を呼ばれた。大人って強いなー……とかよく分からない想いを巡らせ、窓の外を眺める。
ゆったりとしているが、緑で覆われた激しい急斜面を上り始める。俺達の不思議な関係もこの時ようやく動き出したんだ。
見渡す先には小さな町。振り返った先には雄大な山々。
高い杉の木に囲まれた山頂で千草は感動していた。正直ここまで自然に囲まれた場所だと思わなかった。朝の神社は空気が綺麗な気がして尚さら清々しい気分になる。とりあえず挨拶として賽銭にも小銭を入れた。
「た……かしさんは何かお願いしたんですか?」
「特に何も。初めましてー、千草ですって挨拶した」
「それ俺の名前じゃないですか!」
「バッカ違うよ、こっちは俺の可愛い生徒の千草です。宜しくお願いしますって念じたの」
何だそれは。素直に混乱していると、崇さんは近くの狛犬の像へ駆け寄った。
「こんなところにも小さなお賽銭があるな。よし、入れておこう。そんで賽銭代として写真撮らせてもらおう」
何故か手招きされたので彼の近くまで寄る。すると突然肩に手を回され、強い力で引き寄せられた。
もう片方の手はスマホ。カメラを起動していて、そのフロント画面には俺と崇さんの顔が映り出されている。
「ほら、笑って」
画面越しに彼の顔を見る。見惚れてしまうほど優しい顔。それを凝視するのに必死で、とても笑うことなんてできなかった。案の定崇さんは苦笑して、「こういう時は照れたら負けだそ」とカメラを閉じる。ううぅ……わかってるけど。
神社の荘厳な雰囲気や、美しい自然の景観を眺める余裕は全くない。それが自分でも悔しい。
「良かったら写真撮りましょうか?」
「ほんですか!?
ありがとうございますー!!」
ハッとして振り向くと、二人組の女性が笑顔で 佇んでいた。崇さんは満面の笑みでスマホを手渡している。
「千草、今度はちゃんと笑うんだぞ」
「わ……わかりました」
笑顔笑顔。そう思うほど悪どい顔になるのな何故なのか。女性が撮ってくれた写真を確認してみると、何かこれまでに二人は殺してそうな形相だった。
「作り笑いってことだけはわかる」
崇さんはさらっと呟き、女性達にお礼を言って歩き出した。
「そういえばお前は普段からあまり笑わないよな。クラスでも移動教室でも、誰と居ても真顔。まだ若いんだから表情筋はちゃんと動かした方がいいぞ。それともそんなに毎日退屈か?」
「退屈なわけないじゃありませんか。トラブルメーカーばっかりでいつも疲れてますよ」
「んー、言い方が悪かったな。前も訊いたことだけど。学校は楽しくないか?」
彼の声は、風と一緒に軽やかに俺の中へ入ってきた。
石畳の道を戻りながら俯いた。
そうじゃない。退屈なわけじゃないし、仮に退屈だったといしても、それが嫌なわけじゃない。だって学校は勉強する場だ。遊びに行ってるわけじゃないんだから退屈で当然じゃないか。
……なんて。なんて面白みのない回答だろう。彼は、こんなねじ曲がった回答は絶対待ってない。俺もそんなことが言いたいわけじゃなかった。学校は楽しい。ただ意識しないと〝笑え〟ない。友人の笑顔につられて笑うことはあるけど、生活の中では一番奥に引っ込んでいる感情だった。
場を和ませないといけない時も、どうせ誰かがやってくれるから、と半ば諦めながら傍観していた。クラスにひとりはいるムードメーカーが羨ましいと思いながら、結局何もせずに生きてきた。
「俺が笑わなくても誰かが笑ってくれるから。……人の笑顔を見るとそれで満足しちゃうんですよ。良かったー、って思ってるうちに、もう笑うタイミングじゃないって気付いて。話題も次にスライドしてるし、俺ってやっぱ周りとテンポずれてんのかな……って思うことが増えてから、特に笑わなくなった」
気がする。……そういえば。
改まって考えたこともなかったけど、口に出すうちに思い出してきた。自分が人前で笑わなくなった本当の理由。
俺は友達とちょっと違う。具体的に何が違うのか分からないけど、大まかに言えばものの感じ方が変わっている。皆が笑うところで悲しくなったり、皆が悲しむところで可笑しくなる。本当にちょっとしたことだけど、その積み重ねは自分を少し臆病にした。
「崇さんは……」
人と関わることが怖くなったりしないのか。ちょっと訊いてみたくて顔を上げると、隣には誰もいなかった。え、と思って周りを見渡す。すると近くに陳列している売店の方から崇さんが走ってきた。
「千草、見てみろ。豆腐アイスクリーム! さっき通った時も美味そうだなって思ってたから買ってみたんだ!
スプーン2つ貰ったから食べよう!」
子どものようにはしゃぐ彼はスプーンを手渡してくれた。
訊いといて聴かないのか……。
彼の質問に答えたというのに。まぁ多分聴いてても彼は共感しなかっただろうし、恥ずかしいから別にいいか。
崇さんもさっきの約束どおり、すっかり人目を気にせず楽しんでいる。
「ほら、千草」
「えっ!」
彼は使ってない方のスプーンでアイスをすくい、俺の口元へ運んできた。
あぁ……!
何か言おうと開けた口にアイスを放り込まれる。冷たいけど淡雪のようにとけていく。ふんわりして優しい口あたりに目を見開いた。
「美味しい……」
「な? 豆腐すごいだろっ?」
豆腐が「すごい」のか豆腐の味が「強い」のか、正確な意味は分からないけど頷いた。この辺りは豆腐作りが盛んで名物の一つらしい。ここに来るまでにも豆腐料理を銘打っている料理屋がたくさんあった。
ひとつのソフトクリームを二人で分け合うなんて女みたい。超恥ずかしい。
変だな。……超楽しい。
「よし、神様にご挨拶もしたことだし! 帰りはゆっくり自然を満喫しながら下山するぞ!」
「はーい」
リュックを背負い直して空を見上げる。そして遠くで霞む小さな街を見て目を眇めた。自分達は今、とても高い場所にいる。それだけのことがすごい不思議だった。
下山中見つけたもの。神様がいるのかよく分からないお社。人面に見えなくもない鯉が泳いでいる池。昔見たアニメ映画に出てきそうなお地蔵さんが並んでる小路。大量のマイナスイオンを放出していそうな滝。
どれも地元にいたら見れないものだ。楽しくて、下る方があっという間だった。バス停で帰りのバスの時間を調べている間、崇さんもスマホでなにか調べていた。
「ちょっ待て待て。そっちのバスじゃない」
「え? でもこれですよ、駅に戻るの」
「いいや。これから更に奥へ行くんだよ」
鼻先にスマホを差し出される。その画面に映っていたワードに驚いて叫んだ。
「お……温泉!?」
「この近くに有名な日帰り温泉があるんだよ。旅の疲れを取るのに最高だろ?」
崇さんはご機嫌で温泉の特設サイトを見せてくる。いやいや、でも俺は困る。
「俺何も準備してませんよ!」
「日帰りなんだし下着の交換なんてしなくて大丈夫だよ。タオルだってみんな向こうで買えるんだし」
確かに。でも違うんだ。準備ってそういうやつじゃなくて、……心の準備が。
とかグルグル考えている間にバスが来てしまった。崇さんに腕を引かれ、慌ててICカードを翳す。
……温泉って。ただの担任と生徒が温泉。
単純なことなのに、とても難解な数式のように頭を蹂躙した。さっき山頂で見た素晴らしい景色なんて一瞬で吹き飛んでしまっている。
三十分もかからず、目的の駅に着いた。辺りはまだ山に囲まれ、目立った店の看板もない。どちらかという住宅の方が多い場所だった。