12話

 

 

自分が男が好きだと、その境界線がはっきり見えたのはいつだったか。
確か中学二年のとき……クラスの友人がこっそり学校に持ってきたエロ本の中に、ゲイ向けが一冊紛れ込んでいたんだ。周りの友人達は何でこんなもん持ってきたんだと憤慨していたけど、俺は特に嫌悪感は抱かなかった。むしろ女性の裸よりよっぽど興奮した。友人が皆帰ってから、ひとりでその本を読むほどには。
冷静に考えてこれが普通じゃないことに気付いたが、心と身体は伴わなかった。家に帰ってからネットでゲイのことを調べて、エッチなことの為ではなく、真剣に恋愛をして生きている人達のことを知った。
彼らは命懸けだ。中には後ろめたさや自己嫌悪に駆られている者もいるが、男を愛するということについて本気で向き直っている。そこには嘘偽り、恥や見栄は存在しない。男としてではなく、人として人を愛する情熱がある。世間の目だとか子どもが産めないとか、そういった問題と闘いながら必死に生きている。

昨日までは当たり前のようにしていた。だけど本当は、馬鹿にしていいことでも、面白半分で突っつき回していいことでもないんだ。偏見や先入観が全て取り払われることは難しい。同性愛者に対する異性愛者の拒絶反応はもはや仕方の無いことで、それを無理に理解しろ、と強要すればするほど溝は深まる。植民地と一緒だ。領土を占領した国が自国の文化を押し付け、言語を、政治を支配する。なれば民衆の反発は高まる。それまでの〝当たり前〟を根こそぎ奪い取り、自分達の価値観を押し付けようだなんて、そんなことがまかり通っていいはずがない。

同性愛者もまた、異性愛者から一方的な迫害を受ける謂れはないんだ。同じ、人間なんだから。

長い付き合いだから……一番仲がいいから……ではなくて、気付けばいつもその人のことを考えている。それが好きということ。
当時仲の良かった男の友人に触れてみたいと思ったのはその頃だ。もちろん合意の上で。彼にも自分を好きになってもらって、その上で手を握ってみたい。
不意打ちやふざけてなら簡単にできるだろうけど、心が繋がってないと虚しいだけだ。俺はまだ自分の立ち位置が分からないし、本当に男が好きか、と言われると逡巡するし、人前で堂々と男と手を繋いで歩けるか、と言われればやっぱり首を捻る。だから黙っておこう。まだ分からない。分からないことは、手を出すべきじゃない。

だって、言っても世界は偏見で溢れている。
正しいものにまでアンチがつくのだから、不安定なものに対する世間の目はもっと厳しい。自分がゲイだとカミングアウトすればメリットどころかデメリットしかない。
だから影に隠れて、世界が変わるのをじっと待つ。素晴らしい改革者が現れ、大手を振って歩ける世界になった時、便乗して外へ出る。待つだけ、人に頼るだけ……自分からは何もしない、他力本願な人生。
それは傷つきたくないから。この一個に尽きるが、結局俺は不特定多数のひとりに過ぎないんだろう。一生脇役で、物語の主役にはなれない。無難で幸せなことだ。


待ちに待った休日は、女性なら日傘が必要なほどの晴天だった。
雲ひとつない青空が延々と続いている。ふと空を見上げた時、うわっと思って身を引いた。
空ってこんな高かったっけ。いや、絶対高いけど……
子どもの時より背が伸びて若干空に近付いたはずなのに、むしろ前より遠ざかってしまった気がする。背が伸びれば伸びた分だけ空がまた高くなってしまうような錯覚に陥る。
青になったり赤にになったり、はたまた真っ黒になったり。空も人間並に忙しいやつだ。
小走りで目的の駅に降り、少し離れた位置にある並木通りへ向かう。緑陰に包まれた道に踏み入るとひんやりした。ここだけ世界が違うような……なんて思うのは、彼が佇んでいるせいか。

「籠原、おはよう」
「おはようございます!」

場所や格好が変わっても、明るい挨拶は変わらない。いつもと同じ笠置先生だ。いつもはシャツに黒のジャージを羽織っている格好だけど、今日はいつもより数段若く見える。下手したら大学生に見えるかもしれない。
ていうか兄貴と同じぐらいだから兄弟に見えるかもしれないな。密かに想見していると、いきなり手を引かれて息を飲んだ。
「さっそく行こうか」
「は……い」
嬉しいのか驚いたのかよく分からない。ただ早くも頭の中が真っ白になって、全身の血が逆流しそうだった。
友人でも家族でもない存在。学校の先生。好きな人……不思議なサークルの中心にいる人。
「籠原は行きたい所ないか?」
彼の質問に首を横に振る。すると彼はポケットから何かパンフレットのようなものを取り出した。
「じゃあたまには自然の空気を吸いに行こう。街中で遊び回るより良い気分転換になる」



彼が手に持っていたのは、今の地点からアクセスしやすい観光地の案内図だった。とはいえ中枢となるのはロープウェイを必要とする山間部。感覚的には軽く登山だ。ただそこに位置している神社が、学業や恋愛等幅広い祈願所として有名で、年末年始は多くの参拝客で溢れる。千草も行ったことがない為、心の隅では高揚していた。
デートと言うより日帰り旅行……いや、山登り……? どれに分類すべきか分からないが、とにかく今までにない冒険である。間髪入れず「行きます!」と叫んだ。
朝早く待ち合わせしたのはこの為だったのかもしれない。笠置は嬉しそうに笑うと「じゃあ行こう」と駅の方へ足早に戻った。お参りがしたいだけには見えないはしゃぎっぷりだったが、彼と行けるならどこでも構わない。お得な観光客向けの乗車券を購入して山間の町を目指した。
電車を乗り継いで二時間もかからず、目的の駅に辿り着いた。
「わー! 山だ! テンション上がる!!」
思わず手放しで叫ぶと、先生も笑顔で頷いた。
「籠原はほんとに良い子だな」
「え、演技じゃありませんよ。普段遠出しないから本当に新鮮で」
「そっか? それならすごい嬉しいな」
慌てて付け足すと、彼は笑みを保ったまま頭を撫でてきた。この歳にもなるとすごい微妙な感覚だけど、相手が先生だと思うとやっぱり嬉しい。人目すら気にならない。
それを顔に出さないようにするのはまた骨が折れるけど。
「俺海より山が好きなんです。もっとガキのときは海で泳ぐ方が好きだったんだけど、今は山を見上げる方が……いや違うな、頂上に登って景色を見下ろすのが好きです」
急勾配の長坂を何とか上る。その先に待っていたのはウッ、と声がもれそうな長い階段だった。
けど先生は笑顔で進んでいるし、見れば小さな子どもも文句を言わず上っているから、冗談でも弱音を吐く気になれない。足元を見るとぐらつくからなるべく上を見るようにした。階段の途中途中にある草花は鮮やかに色付いていたけど、あまり眺める余裕はなかった。
「お疲れさま、籠原。ロープウェイ乗り場に着いたぞ」
「はぁ……はい、はぁ……
息が上がってることがバレないようにすると、もはや口を閉じるしかないのだと知った。何か若干汗もかいた。けど先生は爽やかに先を行く。この乗車券はロープウェイも込みだから大丈夫、等々……そうなのか。なるほど、それは本当にお得だ。はぁ……