· 

7110〔70・10〕①

 

 

身体が不自由な人が、元の快適な生活に戻れるように。そう願いながらナイトは装具士になった。
ゴール地点は存在しない。計画書に基づいた最終目標はあるけれど、ここまでで充分だ、と言える明確な指標がない。
強いて言うなら、患者さんが満足したら……満足した、その場所が、サポート側の最終ゴールなのかもしれない。だがそれはあくまで個人の意見で、プロなら慢心せず死力を尽くせと叱咤されてしまうかもしれない。サポートされる側と違い、サポートする側は思考することを止めてはいけないのだ。
職種は違えど、今までたくさんの人に支えられてきたから分かる。人は一人では生きていけない。暗い顔を浮かべる患者の未来に笑顔を取り戻すことが一番の目標だ。
「ヒロトさん、今日はもしかしてご機嫌ですか?」
現在担当している中で最も調整が必要な患者……四肢を切断し、両の義手と義足で生活をしている青年。彼は周囲も驚くほどの速さで快復を見せている。最初は立つこともままならなかったのに、今では独力で歩行し、重い介助は不必要になった。このままなら退院できる日もそう遠くない。
喜ばしいことなのに心が晴れないのは、当の本人があまり喜んでいないせいか。それとも……自分の目の届かない場所へ彼が消えてしまうせいか。ナイトは自身の不安を解明できずにいた。
「うん。今日は、何だか賑やかみたいで」
リハビリ室から出たヒロトは静かに呟いた。しかし賑やかの意味が分からず、内心小首を傾げる。
確かに日中のこの時間は見舞い客が増えて、施設内に外の空気が流れ込む。しかし今日は人が少ない。いつもなら何科か分からない患者や連れ添いが目に入るのだが、廊下を歩いていても誰ひとり見かけなかった。
都心とは程遠い僻地に建設されている為、窓からは雄大な山々が一望できる。
ここへ来る者は多種多様だが、ほとんど旅をするような感覚でここへやってくるのだろう。林に囲われた、まるで陸の孤島。隠れているし、隠されている。
治療に必要な最低限の情報しか渡されない変わった施設だが、ナイト自身は気に留めていない。それについてはある程度分かっているし、諦めてもいる。

きっと自分が育った場所と繋がりがあるのだろう。
ナイトは身寄りのない子どもが集められた教育機関で過ごした。そこには学びたい分野が用意されていて、望まずともひとりひとりに特殊なカリキュラムが組まれている。一緒に講義を受けていた友人達が今どうしているのか知らないが、自分と同じように同列の施設に配属された可能性が高い。
独りだと思ったことはないが、賑やか、と思ったこともない。一定の距離でしか人と接したことがない人生。ヒロトの「賑やか」という言葉が……決して深い意味は込められてないはずなのに、ナイトの心の深くまで沈んだ。
「ここまでで大丈夫」
「あっ……そうですか」
いつも部屋まで付き添うのが定着していて、不意な声掛けに驚いてしまった。無表情な彼に慌てて笑顔を浮かべる。
「それじゃあ気をつけて」
「ありがとう。君も、あまり無理はしないで」
ヒロトさんは、最後にほんの少し口角を上げて去って行った。
順調に快復したとはいえ、あんなに冷静な人がいるとは。彼と初めて会った頃のことを思い出し、衝撃と感動の身震いをした。
自分が彼と同じ状況になった時、あんな落ち着いていられる自信はない。たとえ全てを諦め、絶望した故の落ち着きだったとしても……周りの心配をするような寛容さは持ち得なかっただろう。改めて彼の強さを再確認した。
サマリーを見ても彼の経歴はほとんどが空白で、どんな人生を送ってきたのか分からない。だからこそ惹かれて、野暮な想像をあれこれ巡らせてしまう。
やはり彼を知る人物は、月一で見舞いにくるヤヒロという青年だけだ。
それとなく訊いてみたいが、彼は少し苦手だった。どこが嫌なのかと言われると答えられない。でも、恐らく直感的なものだ。迂闊に近付くべきでないと本能が告げている。少なくとも一緒にいて気持ちのいい相手ではない。
そこまでくるとほとんど好き嫌いの領域に入りそうだが、人間関係なんてものはこれが全てだ。

ヒロトの正式な退院日を決める会議が近付けば近付くほど、心も焦り出した。
本当に大丈夫なんだろうか。身体機能や装具の状態のことではなくて。彼のような繊細な人を、このまま放り出してもいいのか。外の世界は弱者に無関心な人々と、それと……あの冷たい目をした、青年が。
ヒロトの瞳に強い光が灯り出したのは分かっている。本当は自分が首を突っ込むべきではないのだ。彼は何か新たな目標を見つけ、自分の脚でそこへ辿り着こうとしているのだから。
そう言い聞かせているのに、勝手に思考する頭が恐ろしい。
「あ、ナイトさん、107号室に行くんですか? あそこ、さっき来客ありましたよ」
目的もなく向かおうとしていたことを咎められたようなタイミングだった。しかし動揺を悟られないよう、通りすがりの事務員にそうですか、と答える。いやそこに行くつもりはなくて、別件で……等と強がって、でも慌てて階段を降りる。
きっと彼だ。彼がヒロトに会いに来た。そう思ったら居ても立ってもいられず、足早にフロアを進んだ。向かってどうする……訪室していざ二人に見詰められたら、絶対怖気付いて黙るだろうに。
それでも行くのは何故……
「わっ!」
わき目もふらず直進していたら、横から飛び込んできた影に反応できなかった。自分より背丈の低い人物と衝突してしまった。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
相手は体重が軽く、小さな衝撃でも倒れてしまった。しかし後方にソファがあったのは不幸中の幸いだ。ナイトがぶつかった……少年は、尻もちをついた状態で、驚きながらこちらを見上げている。
「怪我はない?」
「うん」
その返事に安堵し、彼を起こそうと手を差し出す。しかしその拍子に、袖の下、手首の周囲に刻まれた痛々しい傷が見えた。よく見れば襟元の下も……
この子は……初めて見るが、ここの患者だろうか。しかしかつて自分が着ていたものと同じ制服を着ている。
「もしかして診察に来たの?」
少年は首を振る。
「お見舞い……の、付き添い」
一見普通の少年に見える。なのに、彼と話していると脚の力が抜けてうっかり倒れてしまいそうだった。眠いわけではない。だが視界が徐々に白んで、気付いたら波に意識を攫われている……そんな感覚に襲われた。
不思議な印象も隠れた傷跡も、見て見ぬふりができない。
「それ……痛そうだね。大丈夫?」
通院ではないことが余計気にかかって、声を潜めて少年の手首に視線を向けた。彼は何も言わず、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
お喋り好きな少年で、別れるタイミングを逃してしまった。彼が戻らなくてはいけない病室まで一緒に向かう。その間彼はずっと自分のことを話し続けていた。今日は久しぶりに島の外へ連れ出してもらったとか、学校の授業がつまらないとか、一つ一つは取るに足らないことだけど……彼を取り巻く大人達は、とてもじゃないが信用できないと思った。
「最近寝不足なんだ。毎晩うるさい声が頭の中で響いて眠れないの。でも起きてると兄さんが……
……お兄さん?」
「兄さんが……兄さんは仕方ない、って。寝られない時は無理に寝なくて大丈夫だって言う。辛いけど、地下に連れていかれるよりはマシだよ。あそこは怖いんだ。すごく寒くて、冷たくて、……嫌なことを思い出しそうになる」
地下と聴いて悪寒が走った。そういえば自分が生徒として通っていた時も……施設の地下では恐ろしい実験が行われていて、時折いなくなる生徒はそこへ連れて行かれてるんじゃないか、という噂が立っていた。
子どもの時はただのデマだと思っていたけど、島を出たからこそ分かる。この子は……もしかしたら……
「あ、ここ! 兄さんと一緒に来たんだ。送ってくれてありがとう!」
少年は脚を止めた。その前にあった部屋は107号室。ヒロトの部屋だ。まさか、と息苦しさを覚えた。
「ねぇ。君のお兄さんってもしかして、ヤ……
一瞬、今すぐここから立ち去ろうかと思った。でも彼が扉を開ける方が僅かに早くて、病室の中に視線が向いてしまう。
「あ……
「兄さん!」
少年は、部屋の奥に立っていた青年の元へ駆けていった。初めて目にする顔。
ヤヒロ……さんじゃなかった。それに不思議なほど安心している。
「あれ、今日はもうリハビリはありませんよね?」
「あ、えっと」
青年の前のベッドで、こちらに気付いたヒロトさんが首を傾げる。慌てて事情を説明しようとしたが、少年がトイレの帰り道で迷ってたらここまで送ってくれた、と話した。どうしてそんなことを言ったのか分からないが、ふと見ると彼は口元に人差し指を当てていた。
感情が一切読めない、凍りついたような顔。何だかさっきまでと違う……。しかしそんな少年に気付くことなく、青年はストールを持ってナイトの横を通り過ぎた。
「弟がすいませんでした。それではそろそろお暇します。……ヒロトさん、今日はお会いできて嬉しかったです。近々、また……
ヒロトさんは軽く頭を下げたものの、それ以上は何も言わず、反対の窓の方を眺めた。病室を出るか、留まるべきか逡巡し、結局二人と一緒に部屋を出た。何となくヒロトさんは今一人になりたいように見えたから。
成り行きとはいえ二人をエントランスまで見送る。青年は尚登と名乗った。ヒロトさんとどういう関係なのか尋ねたかったけれど、上手く言葉が出てこなかった。今はヒロトのことより、彼の後ろを歩く少年の方が気になっている。
尚登は、この少年の惨い傷を知っているんだろうか……
「送っていただいてありがとうございました」
尚登はもう一礼すると自動ドアを抜けていった。少年も慌ててその後を追う。
「あ、待って!……名前、聞いてもいいかな」
彼は立ち止まって振り返る。だけど尚登さんを一瞥してから首を横に振った。
「それじゃあ……。また会えるといいね」
小さな後ろ姿が遠ざかっていく。尚登もそうだが、どこか冷淡としていて近寄り難い印象を受けた。
しかし頭から離れない。また……ここへ来てくれることを祈った。今度は誰もいない時に、彼が安心できる場所で……彼の名を聞き出そう。