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ドライブ

 

 

 

 今日はちょっと、驚かせてみようと思った。


 彼が来るより先に、病院の外で待ち構えてみた。
 長時間は無理だが、少しなら誰の手も借りず出歩くこともできるようになっていた。日常生活にはほぼ支障はない。
「ヒロトさん、どうしたんですか、そんなところで……
「君を待っていた。そろそろ来る頃だろうと思って」
「でも何で……
 辺りを見回しかけたので、「誰もいないよ」と先に言う。「君にちょっと付き合ってほしかったから」
 ポケットから車のキーを出し、翳してみせる。

 当然のように運転席に行こうとした彼を引き止める。「私が運転する」
「できるんですか?」
「だから君に頼んでるんじゃないか。ちょっとずつ練習してるんだ。退院しても困らないように。でもまだ流石にひとりで乗る勇気はないからね」
「で、俺を巻き添えにするんですか? ひどいな」
「君くらいしかいないじゃないか」
 彼の表情は動かなかった。
 一応車は訓練用になっていて、教習所と同じように、助手席側でも操作できるようになっている。説明すると「分かりました」と彼は言った。「全力でブレーキを引かせてもらいますよ」
 でもたぶん、本当に危機的状況になったとき、彼はそうしない気がした。

 運転できる、といっても、やはり病院の周囲……『施設』の私有地の外へ出ることはまだできなかった。同じところを三回通り過ぎたとき、彼は言った。
「完璧じゃないですか」
 なのに何故自分を付き合わせたんだ、と言いたげな口調だった。
「これでヒロトさんはどこへでも行けますね」
 彼は窓の外を見ていた。
 何か言わなければ。でも、適切な言葉が思いつかなかった。沈黙が長引くとそれだけ、『彼が言えなかったもの』が、彼の中で膨れあがってしまう。膨れあがったものを一瞬で破裂させる、針のような、何か……
「君だって」
 その瞬間、キイッ、と、ブレーキがかかった。沿道にいた鳩が一斉に飛び立った。

 そういえば彼と一緒に暮らしていたとき、こんな風にふたりで外に出たことは一度もなかった……と、何故だか唐突に昔のことを思い出した。
 彼と一緒に外に出たのは、彼を家に連れてくるときと、施設に送り返したとき……その二回だけだった。
 何をするかと思いきや彼は少し背もたれを倒して、後部座席の方を覗いている。
「何かプレゼントしてくれるのかと思いました」
「え……?」
「一緒に暮らしていたとき、クリスマスプレゼント……くれたじゃないですか。中身は何だったか……忘れましたけど、包み紙は何故だかとてもよく、覚えてるんです。朝起きたとき、枕元に置いてあって……。そのとき俺はサンタさんを信じていなかった……というか、サンタさんの存在すら知らなくて、あなたを質問攻めにして困らせましたよね。でもあのとき本当は、あなたが準備してくれていたものだってことは知っていたんです。……車の後部座席に、置いてあったのを見つけたから」
 そんなはずはない。だって彼は一度だってひとりで外に出たことは……
 その疑問をすくい取るように彼は続ける。
「あのときあなたは数日家をあけてましたよね。明日になったら帰ってくる……頭ではそう分かっていたんですけど、いてもたってもいられなくて、外に飛び出していました。でも行けたのは駐車場まで。車はここにあるのにどうしてあなたはいないのか、って混乱して……そんなときに後部座席にあったものを見つけました。あの様子だと、だいぶ前から用意してくれてたんでしょう? もしかしてあれも施設の指示だったんですか? 可哀想な子を慰めてやれって」
「違……
 その言葉をかき消すようにガタン、と、シートが倒された。
 完全に押し倒されるより先に、唇を押しつけられた。
「何をしている」
「キスを」
「何のために」
「もらおうと思って」
「何を」
「優しさを」
 彼のひとことひとことが、胸にさざなみを広げる。ひとつ、受け止めきる前にまたひとつ、波がうまれて、かき乱される。
「あなたは俺に優しさを教えてくれるひと、じゃなかったんですか」
 完全に倒れきった、と思っていたのに、覆い被さられるとさらにもう一段階、シートが倒れた。
 頭か、背中か、腰か……
 どこに手を回そうか迷って、結局どこにも着地することができなかった。
 狭い車内に、あっという間に熱が充満する。
 もうどうにでもなれ……と思ったわけじゃない。誰かに見られるかもしれない……という理性は片隅に置きつつ、それでもやめることができなかった。いつだってそうだ。彼に迫られると、逆らえない。ねだられると、与えてやりたくなる。何でも。たとえそれが毒だとしても。でもたぶんそれは、それは……
 本当に彼が求めているものは、与えてあげることはできないんだろうという諦めと、恐れ。
 騙して騙して……一体いつまでそれを続けられるのか。
 動ける範囲が限られているから、発散できない熱がたまっていくスピードがいつもより、早い。
 衣擦れ、シートが軋む音、跳ね上げた足がダッシュボードに当たる……
 お互いの吐き出した息と息とが、混ざり合って狭い空間に満ちていく。
 上に乗った彼が腰を振る。規則的に。その表情は……確かに快感を感じてはいるのだろうが……でもどこか、快感とは程遠いところにあるように見えた。何かを必死に手繰り寄せているかのような。手繰り寄せて手繰り寄せて……でも結局かなわず力尽きたように、彼は「ああ……」と声を漏らした。
「これが欲しかった」
 直感的に嘘だと思った。でもありきたりなリップサービス、というわけでもなさそうだった。一体何だろうと考える前に、快感が冷静な思考を少しずつ侵していく。
 回数を重ねるごと彼は、『抱かれる』のが上手くなっていっている。でも『愛される』のは下手くそになっていっている。
 ふと、彼の腕に、鬱血した……注射の跡が見えた。
 暗い車内で初めはよく分からなかったが、胸や腹にも無秩序に傷つけられた跡。
 心の傷がそのまま表面に現れてきてしまったみたいな。いや、こんなのはほんの一部分で、心はもっとひどいことになっているんだろう。
 ……何で生きているんだろう。
 ぽつん、と浮かび上がった思い。
 何で生きている。
 自分に対して、は、お前ごときに生きる価値があるのか、という意味で。
 彼に対して、は、ここまでぼろぼろになった心を引きずって、普通なら、死んでいてもおかしくはないのに、という意味で。
 死んでいてもおかしくない。
 おかしく……
 吸い寄せられるように、露わになった首に手をやった。
 彼の身体にふれることにためらいがあった。唯一自分がふれていい場所は『そこ』だけのような気がした。機械の手が、ガシャリと音を立てる。両方の親指がぐっ、と柔らかい肌にめりこむ。優秀な装具士によって完璧に調整された手は、実に正確にその熱を、血管が脈打つのを伝えてくれる。自分がしようとしていることの意味を伝えてくれる。
 締まりがいっそう強くなった。声が出せない代わりに彼は全身で喘ぐ。
 どれくらいそうしていただろう……
 わなわなと痙攣していた彼の口がひらいて……
「ヒ、ロ、ト……
「!」
 弾かれたように手を放していた。前屈みになり、彼が激しく咳き込む。
 すまない……と言うより先に、彼がドアを殴りつけた。
「すまない、その、そういうわけじゃ……
…………ない、んですか」
「え……
「どうして最後までやってくれないんですか!」
 その瞬間、理解した。
 どうして彼が自分のもとを訪れるのか。
 彼が求めているものは何なのか。
「ヒロトさん、あなた、僕のこと可哀想だと思ってるんでしょう。申し訳ないと思ってるんでしょう。だったら償ってくださいよ!」
 彼の首にうっすら、赤い痣が浮かび上がる。自分がつけた痣が。
 償う。
 そんなことは分かっていた。でも、どうやって……
「勘違いされているようだからはっきり言っておきますね。施設からされたことに対しては、自分は不幸だとか可哀想だとか……そんなに思っちゃいないんですよ。客観的にひどいなとは思いますけど。都合よく記憶も改竄されているから実感もなくて、自分のことだと分かってはいるけど、どこか他人事なんです。本当に……本当に僕を苦しめているのは、あなたのその中途半端な優しさですよ。あなたが優しくするから、僕は不幸で可哀想な子ども、になる。どれだけ切り捨てたくてもなかったことにしたくても、ずっとずっと、離れない。やめてほしいんですよ、そういう怨念みたいな優しさは。何てことしてくれたんですか。本当に……何て……!」

 分かっていた。
 たぶんあのとき、『見捨てた』方が、彼にとっては幸せだった。

 閉じ込められていた彼の部屋の鍵をあけたのは自分だ。
 逃げ出してほしかった。でもまさか、海へ身を投げるとは思わなかった。
 あのときもし、あのまま彼を放っていたら……

 もう一度……さっきまでとは違う意味で、「すまない」と言う。
 すまない、すまない、でも……


 再び与えられたこの手はやはり、君を生かすために使いたいと思う。