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7110〔八〕

執筆:八束さん

 

 

 

「大丈夫ですか? 何か違和感あったら遠慮なく言ってくださいね」
「ん……平気。練習していけば慣れそうだよ」
「そうですか? くれぐれも無理しないでくださいね。ためしにそのコップを持ち上げてみましょうか」


 機械の指がゆっくり動き出す。人間の関節の複雑な動きを忠実に再現する義手。上手く適合して練習を積めば、感覚を得ることも期待できる。まだ試験段階だが、病気や事故で手脚を失った人にとっては夢の装具になるはずだ。しかし彼……ヒロトさんは、何故か淡々としていた。
 リハビリには真面目に取り組んでくれる。初めは苦痛も感じるはずなのに、泣き言ひとつ言わない(むしろ言ってくれないから、ナイトのような装具士にとってはちょっと仕事がやりにくくもある)
 けれどそれで普通の生活がおくれるようになることを、たいして喜んでいなさそうなのだ。
 そして同時に、こんなことになったことを、絶望しているようにも見えない。

 今日は歩行訓練の日だった。
 丁度天気もよかったから、中庭まで行こうとしていたとき、ヒロトさんが、不意に歩みを止めた。向こうからやって来た人影……
 一ヶ月に一回、必ず見舞いに来るひとだった。
 ヒロトさんとどういう関係なのかは知らない。けれど何となく、長い付き合いなんだろうな、ということは分かった。彼と会うときだけ、ヒロトさんの感情が少しだけ、揺らぐ。
「お手伝いしますよ」
 と、彼はさりげない強引さでナイトのポジションを奪った。
 必ず見舞いに来る……一見思いやりのある行為のはずなのに、彼がヒロトさんに向ける視線はぞっとするほど冷たいときがあって、ヒロトさんが少しでも嫌がる様子を見せたならいつでも止めに入ろうと思ったけれど、ヒロトさんは彼に力を預けてしまった。
「あっ……
 一瞬、ヒロトさんを引き留めるような形になったとき……
 彼にくすりと、笑われた気がした。

 何故だか無性に気になって、こっそり後をつけた。
 ふたりは中庭のベンチにいた。穏やかに談笑している……ように、見える。
 何を話しているのか……
 これ以上はやばいかな、と思うけど、どんどん近づくのを止められない。
「よかったですね、施設の援助も受けられて」
 言いながら彼が、ヒロトさんの腕をさする。ヒロトさんが顔をしかめたのが分かった。
「感じますか?」
「少し」
「施設の技術は流石ですね」
「装具士の腕がいいからじゃないか」
 自分のことを言われている、と思うと、落ち着かない。もしかしたら気づかれているのだろうか……
……そうですか、今度は彼を手懐けることにしたんですか」
「ヤヒロ」
 彼の名前はヤヒロ、というのか。……いや、その前に、手懐ける、って……
「今までも……誰かを手懐けた、なんて思ったことは一度もないよ。これからも」
「俺はずっと手懐けられた、と思ってましたけどね」
 すると彼はヒロトさんの手を取り、何をするかと思うと自分の胸の方へと誘導した。
「伝わってますか……俺の心臓」
「伝わってる」
 だいぶ適合してきたとはいえ、果たしてそんな微弱な鼓動まで分かるものだろうか。
 息をつめて、ふたりのやりとりを見守った。
……でも俺には全然、伝わってこないですね。あなたのぬくもりも……何もかも」
 彼が手を放す。ヒロトさんの手が、力なくだらん、と落ちる。
「ヤヒロ、待っ……
 おもむろに立ち上がり、どこかへ行こうとした彼を、ヒロトさんが追う。慣れない義足で必死に。彼がこんなに必死の形相になるのを初めて見た。必死……感情らしい感情を見せたのを。
 伸ばした手はしかし彼に届く前に、がしゃん、と地面に落ちてしまう。地面に落ちたあともなお、彼を追うように動いている指。彼は微動だにせず、それをじっと見下ろしている。雲ひとつない青空が広がっているのに、そこだけ影に覆われたようだった。
 彼がこっちに視線を寄越す。
 目が合う……
 その直前で、
「ヒロトさん、そろそろ戻りましょうか……って、あっ、大丈夫ですかっ」
 あえて明るい声を上げてふたりに間に割り込む。わざとらしかっただろうか。でもこうでもしないと、一歩を踏み出す勇気が出なかった。さっきまで義手に注がれていた冷たい視線が、今、自分の背中に注がれてるのが分かったが、かまわずヒロトさんを抱え起こす。
「あとは僕がしますから大丈夫です。すみません、調整がうまくいってなかったですね」
「そうですか、じゃああとはお任せします。私もそろそろ戻らないといけないので。いいタイミングで来てくれて助かりました。よかったですね、ヒロトさん。いいスタッフさんに恵まれて」
 たぶん……彼は初めから分かっていた。
 冷や汗が背中を伝う。近づいてくる彼の影が、自分とヒロトさんに覆い被さる。その瞬間、思わず息を止めていた。彼が通り過ぎた瞬間、息を吐く。ふとヒロトさんを見ると、彼はまたいつもと同じ表情に戻っている。決してひとに不快感を与えるわけじゃない……でも何故だろう……胸をかきむしりたくなるような……肩をつかんで揺さぶりたくなるような……からっぽの表情。
 そう思うのは、自分だけなんだろうか。
 一ヶ月後、また彼はやって来る。
 そのときまでに……
 そのとき、まで、に……
 ヒロトさんの肩を抱く。
 どうやっても掴めない……嫌な幻を振り払うように、力強く、今ここにいるひとの腕を握りしめる。