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7010〔七〕1

執筆:七賀

 

 

 

「あぁっ……あぁあ……っ」
ノイズが絶えない。音という言葉を知ったその日から。
尚登の世界は生活音ではない不快な雑音が鳴り続けている。雑然とした家の中も、通い慣れた学校も、耳障りな音で溢れかえっている。
この不快なノイズが人の声だと気付いたのは成長してからだった。彼は大きくなるにつれてようやく正確な音を判別できるようになった。
幼い弟達が喧嘩して大泣きしている時、何で知らんぷりをしてるのと母親から怒鳴られたけど、その泣き声はとても人の声に聞こえなかった。いつも耳元で鳴っている、自分にしか聞こえない雑音だと思った。教室の後ろで騒いでいるクラスメイトの声も、教師の金切り声も、本当の意味で聞き取れたことなどなかったかもしれない。
特に泣き声は駄目だった。どれだけ耳を澄ませても聞こえない。仕方ないから弟達の周りにある危険なものを全て遠ざけた。母が帰ってくるまで、何もない部屋に閉じ込めて……早く夢の世界に入ってくれるように祈った。子どもは何であんなに泣く生き物なんだろう。果たして自分も、彼らぐらいの頃はあんなに泣いていたのだろうか。生憎そんな記憶はまるでない。泣いたって、誰かが手を差し伸べてくれた記憶もない。

「ああぁぁああっ!!」

意識せずともはっきり聞き取れるのは喘ぎ声と、心臓を抉るような絶叫だけだ。
ある夜、施設の隔離された別棟へ行くと弟が床に這いつくばって泣き叫んでいた。さっき宥めて寝かせつけたばかりだというのに。深夜を示す掛け時計を眺めて息を吐く。
扉は開け放したまま、頭を抱えて倒れている弟の前に屈み込んだ。
「ナオト、大丈夫だよ。……お兄ちゃんが傍にいるから」
そっと抱き寄せ、子守り唄を聞かせるように囁く。自分の名前を呼ぶのも不思議な感覚だが、今の弟は自分の半身に近い。二つの細胞を繋げて一つにしたのだから、限りなく自分と近い精神構造をしているはずだ。
だが内に秘めた異常性故に反目し、二つに別れていた時は辛かっただろう。彼らの異変にもっと早く気付いていれば……ふと、そんな後悔が頭を過ぎる。一つになっても悶え苦しむ弟は、尚登にとって大切な家族であり、宝であり、作品だ。
たまに思うのだ。気まぐれな自分のことだから。もし弟が双子ではなく一人だったら……今度は逆に、弟を二つに切り離していたんじゃないか、と。
想像はあくまで想像なので、卵になる前に霧散する。
身体が同一化にしても人格は結合しなかった弟。今日も何かに怯え、泣き喚き、火照った肌を露わにする。
「大丈夫……
良い子だ。だから泣かないでほしい。泣き声は自分には聞こえないから……気持ちいいことをして、喘ぎ声を聞かせて。
「今日は特に酷いですね」
声に気付いて振り返ると、扉のところに白衣の青年が佇んでいた。この島の医者、ヤヒロだ。
「良ければ安定剤を持ってきますが」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。ほら……もう寝た」
ナオトの頭を膝に乗せ、掠めるように頬を撫でる。もう片方の手は、彼の剥き出しになった内腿を這っていた。
「弟がいつも迷惑をかけてすみません。俺も日中は仕事ばかりだから、夜しか見てやれなくて」
「大したことはしてませんよ。二人を見るよりは一人の方が容易いですし……手間も省ける」
それに、暇も潰せる。彼はそう言ってナオトの頭を撫でた。
本当にその通りだ。行動が予測不能な二人の弟を見るよりは、暴れても一人の方が押さえられるし、何より楽。ヤヒロさんは兄弟がいるんですか?と尋ねると、彼は膝に頬杖をついて笑った。
「いそうに見えます?」
「すいません。あんまり」
遊び相手を常に欲している彼は、幼少期から孤独だったように思える。兄弟がいたらもう少し違っただろう。
しかしそのもう少しは、今やどう頑張っても埋められないものの気がする。
憐れで儚げで、それ故に美しい。
弟を見ながら微笑むヤヒロを見て、尚登も密かに微笑んだ。


彼も決して手に入らないものを渇望している。
それは恐らく、彼が一番に想っている大切な人物。尚登の知るところではないが、ヤヒロは誰と相対しても虚ろに構えている。ガラス玉のような瞳には何も映っていない。
誰を抱いても……誰に抱かれても。
島の子ども達に施設の関係者、薬の配達員。ありとあらゆる繋がりは彼にとって暇つぶしでしかない。自分でさえも。
肉体関係など、彼にとっては最も細くて脆い絆なのもしない。
一度彼という人間を解体してみたい。しかしそれ以上に、彼という人間に解かされてみたい。それもまた爽快な快感だ。
彼と寝るのは、いつも不気味なほど月の綺麗な夜。どっちが誘ったとも言えない流れで、その場の気分で上下を選ぶ。
弟を寝かせつけたその足で医務室へ向かうと、青白い月光に照らされたヤヒロが全裸に近い状態でベッドに横たわっていた。その傍には使用済みの医療器具が散乱していた。
「今日は特に酷い。……ですね?」
近寄って赤みを帯びた部分に触れると、彼は虚ろな目で声を漏らした。
大勢の人間に薬を打ちながら、本当は誰よりも薬が必要な青年。なら自分がその薬になろう。副作用を引き起こす可能性が高いが、弱すぎる薬よりはマシだろう。
覆うように顎を引き寄せ、唇を貪る。だらしなく開いた穴をさらにこじ開けて、心の赴くままに吐精した。
これが薬だ。
彼を動かす燃料。彼を駄目にしていく毒液。壊れたぜんまい人形のように痙攣する彼を抱き締めて、空に浮かぶ月を見た。
世話をするのは慣れている。それは性分に近いし、どちらかと言うと好きな方だ。甘やかすのも好きだし、躾するのも好き。
弟がひとり消えて片手が空いた。今こそ好きなだけ溺れよう。雑音は水中の方が少なく済むから。
彼を沈める足枷になれるように。いつか彼が自分しか見なくなるように。馬鹿げた妄想だと思いながらも、尚登はひとり笑った。
この島を嚆矢に、世界は変わる。
自分は明日も明後日も迷子の子ども達を捜しにいこう。それが彼を延命する為の薬だと信じて。