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193〔2〕

執筆:七賀

 

 

 

初めて交わった日から、気付けば相当な月日が流れた。ヤヒロさんは前と変わらず先生として振る舞い、時折悪戯に覆い被さってきた。その一方で、島の外からやってくる人間とも戯れているようだった。彼の日常を把握する為に、医務室から聞こえる猫撫で声の記録をとった。基本相手さえいれば昼夜問わず、場所を選ばず交わう人。
あと分かったことと言えば、彼は数ヶ月に一回島を出る。それも仕事の内かと思っていたけど、船に乗る時の彼はどこか楽しげに見えた。もしかしたら島の外に特別な人がいるのかもしれない。
反対に自分はまだ子どもだから、島の中で大人しくするしかない。検査を受け、授業を受け、ただ大人になるのをじっと待つ。ナナはある日を境に姿を消した。でも不思議と悲しくなかった。自分の分まで自由に生きてくれたことが嬉しかった。ナナはきっと、最期まで自分の生き方を貫いてくれたんだと思う。
ヤヒロさんにナナがいなくなったことを伝えると、そっか、とさして驚くこともなく呟いた。
この人はいつもこうだ。きっと自分がこの島を抜け出しても……同じ反応をするんだろう。
試しに何度か夜中に島の外周部を探索した。けど沖へ出られるような船はひとつも見つからず、小型のボートすら見当たらなかった。何となくだけど海に飛び込み、泳いで行こうとした子達の気持ちが分かった気がする。冷静に考えて無理だけど、ほんのちょっとでもいいからこの領域から出て行きたかったんだろう。
桟橋の最先端へ行って、何度か黒い海を覗き込んだ。入るか、入らないか……の瀬戸際で、ヤヒロさんに声を掛けられたこともある。
「君は良い名前をもらったね。海を育てるって、この島で唯一そう期待されたんだよ」
よく分からない慰めを受け、気付いたら施設内に連れ戻されていた。夜中にふらふら外へ出てしまうようになり、薬を投与され、何日かベッドの上で過ごしたりもした。その度にヤヒロさんは大人達に紛れて様子を見に来てくれた。
安心するのに。何故か、日々薄れる意識。
学校を休んでいいと言われても、検査だけは毎日続いた。頭は一切動いてないのに脚だけはお利口に医務室へと向かう。
ヤヒロさんに会う為に。
具合が悪いと診てくれる。昔、弱ったナナにしていたように、優しく抱き寄せてくれる。だからいつも上着のポケットにカッターを忍ばせ、腕や脚に鋭利な先端を立てていた。
だからどこかひとつでも傷付いていれば大丈夫。きっと今日も自分を見てくれる。
そう思っていたのに……医務室の中には、ぐったりと倒れるヤヒロさんと、注射器を持って彼の前に佇む青年が居た。
手先が震えた。もしかするとここへ来る前から震えていたのかもしれないけど……そっとポケットに手を入れ、固い金属を確かめる。
ヤヒロさんを残し、青年が医務室から出てくるのを待った。
「診察?先生に用だった?」
何事もなかったかのようにあっけらかんと笑う大人。子どもだと思って……どうせここから出られないくせに、と嘲笑っているのかもしれない。
いつだって大人に振り回される生活を送っていた。その中でヤヒロさんにだけ心を許すようになったのは、彼もまた、自分達と同じ子どものような人だったからかもしれない。
いつしかヤヒロさんが全てで、ヤヒロさんを中心に回っていた。ここに留まる理由そのものだった。……その想いを刃先に乗せて首元に突き付ける。窓の外の灰色の海が、いつか赤く色移りしていくように。大人になる前に自由になる方法を、この時ようやく選ぶことができた。